(25)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

「ミンミン...ここまで一人で来たのか?」

 

私は頷いた。

 

「どうやって?

まさか歩いて!?」

 

「ううん。

本屋のおじさんがここまで送ってくれた」

 

ユノさんは口笛を吹くと、「凄いな」と目を丸くした。

 

「それに、チャンミンも一緒だったから」

 

私の背中でリュックサックの中身が、もぞもぞと動き出した。

 

「外に出して」とチャンミンが、私の背中を引っかいた。

 

「もうちょっと我慢してて」と言い聞かせたけど、我慢できないチャンミンは暴れ出した。

 

多分、私のお供を務めた自分を、ユノさんに褒めてもらいたかったんだと思う。

 

私はユノさんに問う視線を送ると、彼は私のリュックサックを引き取り、ついてくるよう頷いた。

 

私とチャンミンは門を抜けてすぐの、倉庫のような大きな建物に案内された。

 

コンクリート敷きの床には野菜くずが散らばり、枯れ草の束、木の枝、積み上げられた飼料袋、いくつものバケツ、壁際に大きな冷蔵庫が並んでいる。

 

ユノさんはリュックサックを床に下ろすと、紐を解いた。

 

ぴょん、とチャンミンが飛び出して来た。

 

押し込まれて縮こまった全身をほぐそうと、背中を反らしたり、脚の1本1本を順に伸ばしてストレッチし始めた。

 

ユノさんが「ミンミンを連れてきてくれてありがとうな」とチャンミンの頭を撫ぜると、チャンミンは得意げに顎をつんと上げた。

 

「わざわざここまで来た理由はなんだい?」

 

ユノさんは片膝をついてしゃがみ、私の両肩に手を置いた。

 

ユノさんは大事な話がある時は必ず、私の眼の高さになって水平に、真っ直ぐ見て話す人だかった。

 

のんびりはしていられない。

 

「あのね。

タミーがね、タミーが死んじゃうかもしれない...」

 

そう言った途端、ユノさんの顔色がさっと青くなった。

 

「タミーが!?

どんな具合なんだ?」

 

「ぐったりしてて、目をつむってて。

水を飲むのもやっとなの。

弱ってるの。

だから、ユノさんに付き添ってもらいたいの」

 

「そうか...」とつぶやいたユノさんの唇は小刻みに震えていて、私を見ているのにその眼は焦点が合っていなかった。

 

ユノさんは仕事中だ、どうしようか迷っているのだと思った。

 

「だから私たち、ユノさんを呼びに来たの」

 

ユノさんは立ち上がると、壁に取り付けられた電話の受話器を取った。

 

そして、謝ったり、電話口の相手に何か指示している。

 

私も立ち上がり、リュックサックに入るよう蓋を開けて見せたけど、チャンミンはぷい、と顔を背けてしまった。

 

「のけ者みたいに閉じ込められるのは、もうごめんです」

 

仕方なくユノさんのジャンパーを借り、チャンミンをくるんだ。

 

動物園の人に見つかったら大変だ。

 

アルパカの檻の中で見つかった「あの生き物だ」と気付かれて、動物園に連れ戻されるかもしれないから。

 

「行こうか」

 

ユノさんは私の腕からチャンミンを抱きとると、軽々と小脇に抱えた。

 

通用門を出、トラックが停めてある駐車場へと、早歩きのユノさんの後ろ姿を追った。

 

ジャンパーの裾から、チャンミンのお尻とだらりと力を抜いた後ろ脚がはみ出している。

 

チャンミンはユノさんの前だと、途端に聞き分けのよいお利口さんになるのだ。

 

全員が車内におさまると、ユノさんはトラックを発進させた。

 

急いでいるのに丁寧な運転で、「緊急事態の時こそ事故を起こしてしまったら元も子もないだろ?」とユノさんは言った。

 

頬かむりをしたままのチャンミンは、神妙な面持ちで車窓の景色を眺めていた。

 

 


 

 

この出来事は後年、ことあるごとに笑い話として話題に出た。

 

私にとって初めての大冒険の日だった。

 

世の中冷たい人ばかりじゃないと知った、初めての日でもあった。

 

「あの内気な君がね」と、ユノさんはくすくす笑う。

 

その度に私は、

「チャンミンがいてくれたからだよ。

感謝してもしきれないよ」と答えるのだった。

 

 


 

 

前庭へ頭から突っ込むようにトラックを停車させると、ユノさんは飛び降りた。

 

ポーチの階段なんて、2足で駆けあがってしまった。

 

「タミー!」

 

私とチャンミンも後を追った。

 

ユノさんは玄関に入ってすぐの所で立ち尽くしている。

 

ああ、遅かったんだ。

 

私が道を間違えたりしなければ間に合ったのに...のろまな私のせいだ。

 

チャンミンはユノさんと私の足の隙間をすり抜け、家の中に入っていった。

 

私はドア枠とユノさんの脇腹の隙間から家の中を覗き込んだ。

 

「...タミー」

 

そこで私たちが目撃したのは、室内を歩き回っているタミーの姿だった。

 

ボウルの中身(牛乳でふやかしたパン)は空っぽだった。

 

死にそうどころか、ぴんぴんしていた。

 

急激な気温差が老体に堪えたが、ゆっくり休んだら回復した...ただそれだけのことだったのだ。

 

 

その夜、私たちは夕食後で皆、思い思いに過ごしていた。

 

大冒険でくたくたのチャンミンは、タミーのお腹を枕に眠っていた。

 

「愛犬の具合が悪いからって、仕事を早引けするなんてな...ははは。

俺は動物が好きだし、世話をするうち懐いてくれると嬉しい。

動物園では、あの子が...今度はこの子がって具合が悪いのはしょっちゅうだ。

その度に、とても心配するし、できる限りの事はする。

...こういう時に、自分にとって一番大切なものが何なのか分かるよ」

 

しみじみとした言い方だった。

 

「ユノさんにとって、タミーなんだね」

 

「タミーだけじゃないよ。

ミンミン、君もだよ」

 

「私...も?」

 

「俺にとって大事な存在だよ」

 

「でも、私...他所の子だし。

ユノさんとは2年しか一緒にいないし」

 

「ミンミンが俺を呼ぶために、動物園まで来てくれた。

『ユノさんに会いたいと子供が来ていますよ。急ぎの用だそうです』と呼び出されてね。

俺を見た時の君の心底ほっとした表情と言ったら...。

嬉しかったなぁ。

ミンミンはどこか俺に遠慮しているところがあったからね」

 

ユノさんを迎えに行ってよかった、と思った。

 

 


 

 

これも後年、ユノさんが私に教えてくれたことだ。

 

実はタミーのことは、それほど心配はしていなかったそうだ。

 

常に動物の世話をしてきたユノさんだ。

 

タミーは大丈夫だと分かっていた。

 

勇気を振り絞ってユノさんを呼びに来た私を想って、家に飛んで帰ったのだ。

 

大袈裟に考え過ぎているだけだと、私を帰らせることなんて絶対にできなかったのだそうだ。

 

「ユノさん、ただ事ではないって顔してたよ」

 

「俺の演技はなかなかのものだっただろ?」

 

「うん」

 

この話題が出る度、私は頬かむりをしたチャンミンの姿を思い出すのだ。

 

本当に可愛らしかった。

 

(つづく)

 

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(24)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

ふり返るとそれらしい看板の裏面が見えた。

 

この日はよりによって日曜日で、看板の前に小さな映画館がある。

 

子供向け映画の上演前らしく、親に付き添われた子供たちが辺りをたむろしている。

 

子供は大人たちよりも、ずっとあからさまな好奇の視線を送ってくるから。

 

気が進まないけれど、引き返して確認してみるしかない。

 

「ふぅ...」

 

深呼吸をした。

 

私の背中でチャンミンが、「大丈夫、大丈夫」と励ましてくれている。

 

親の手を握る子供たちを羨ましいなんて、私は思わない。

 

きびすを返し、早歩きで看板が建つところまで戻った。

 

看板を見上げて私は、失望の吐息を吐いた。

 

どうしよう...。

 

それは役場への案内看板で、動物園の文字はない。

 

そもそも今歩いている通りが間違っているかもしれない。

 

二股に分かれていた道を、きっと左に曲がるべきだったんだ。

 

不安と焦燥で胸が苦しくなった。

 

早く動物園に行って、ユノさんにタミーのことを伝えて、家に帰ってもらわないといけないのに。

 

ユノさんの話をじっくり思いだしてみた。

 

毎日、通勤に商店街を通っていく、なんて話していたっけ?

 

「誰かに道を尋ねてみたらどうです?」

 

「...そんな...できっこないよ」

 

「失礼なことを言う人がいたら、僕が噛みついてあげます」

 

「噛みつくなんて、ダメだよ」

 

「それなら、あなたが頑張るしかないですよ。

あなたならできますよ」

 

「...無理」

 

「僕はあなたに代わって道を尋ねることができません」

 

「...そうだね」

 

「僕はあなたの顔が好きですよ」

 

私に背負われ、リュックサックの中で身体を丸めているチャンミン。

 

リュックサック越しに、チャンミンは私の背中をふにふにと揉んだ。

 

私は意を決して止まってしまった脚を動かし、古本屋の前でノートと鉛筆を取り出した。

 

客がひとりもいなかったからだ。

 

店主は「いらっしゃい」も言わない不愛想な初老の男の人で、私を見ても無関心な態度だった。

 

『動物園までの道を教えてください』

 

そう書いたページを店主に見せた。

 

店主は問うように私の顔を見たので、私は自身の喉を指さし、首を振った。

 

背中のチャンミンはじっと、身じろぎひとつしない。

 

「歩いていくのか?」

 

私は頷いた。

 

「遠いぞ」

 

店主は私の手から鉛筆を取ると、さらさらと地図を描いてくれた。

 

やっぱり二股に分かれた道を、左に進まないといけなかったようだ。

 

返してもらった鉛筆で私は『ありがとう』と書いた。

 

会釈して店を出ようとした時、

 

「待ちなさい」

 

呼び止められて、何か失態をおかしてしまったのか不安になった。

 

「動物園まで送っていってやる」

 

きょとんとする私に店主は、

 

「あそこまでここから5kmもあるんだぞ。

そんなデカい荷物を持ってなんて...。

子供の足じゃ無理だ」

 

戸惑った私は、「お店はどうするのですか?」を伝える意味で、ぐるりと店内を見回してみた。

 

「どうせ客なんて来ない」

 

そう言って店主は、戸を閉め鍵をかけると、札を『CLOSED』へとひっくり返した。

 

 

道中の店主は無言だった。

 

私は膝にチャンミン入りのリュックサックを抱えていた。

 

ユノさんのトラックといい勝負の、古ぼけたワゴンだった。

 

荷台に本が山と積んであるため、動物園への坂道を上るワゴンは、回転数を上げたエンジン音でうるさかった。

 

象やキリン、ライオンのイラストが描かれた大きな看板が見えてきた。

 

「着いたぞ」

 

私は新しいページに『ありがとう。助かりました』と書いて、店主に見せた。

 

車から降り、ふと思い至ったことがあり、『お金はいくらですか?』と尋ねた。

 

「子供から金がとれるか。

これは俺の親切心だ」と、店主はかかかっと笑った。

 

素直に受け取っていいのか、私は店主を探る目で見ていた。

 

「代わりに今度、俺んとこで本を買っていけ。

あんたは本が好きそうだ」

 

『どうしてわかったのですか?』

 

「本好きの眼をしている。

じゃあ、俺は行くぞ。

店を留守にしているからな」

 

店主のワゴンは、黒煙をあげながら走り去っていった。

 

私はここで、店主が私と会話する間、一度も目を反らさなかったことに気付いた。

 

 

動物園脇の木陰で、チャンミンをリュックサックから出してあげた。

 

「よく頑張ったね。

窮屈だったでしょ?」

 

頬かむりをしたチャンミンの身体じゅうを撫ぜ、頬ずりをし、鼻にキスをした。

 

「すごいねぇ。

よくお利巧さんしていたねぇ。

さすがチャンミンだねぇ」

 

ありったけの褒め言葉をかけた。

 

多分、私自身、気持ちが昂っていたのだと思う。

 

チャンミンも私の顔をよだれでベタベタになるまで、舐めた。

 

「ほらね。

僕の言ったとおりでしょう?

あなたならできるって、僕は知っていましたよ」

 

この昂りは...達成感と喜びだ。

 

その理由は...わざわざ言葉にしなくても分かってる。

 

 

「もう少しの辛抱だよ」

 

チャンミンをリュックサックにおさめ、私は立ち上がった。

 

こころなしか楽々とリュックサックを背負えている気がした。

 

私はチケット売り場の窓口で、ユノさんを呼び出してもらうよう頼んだ。

 

窓口のお姉さんはずっと、不信そうな表情だった。

 

大人に付き添われず、大き過ぎるリュックサックを背負った子供。

 

加えて、深々とかぶった帽子のせいで口元しか見せておらず、ノートで会話する子供だからだ。

 

案内された裏の通用門からユノさんが現れたとき、私は彼に抱きついた。

 

感動のあまり泣いてしまった。

 

ずっと会いたくてたまらなかった人との感動の再会みたいに。

 

「うー、うっ、うー」

 

ユノさんは唸る私をぎゅっと抱きしめて、頭を撫ぜてくれた。

 

 

(つづく)

 

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(23)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

街までの5kmくらいどうってことない。

 

チャンミンと草原を毎日のように駆けまわっていたのだから、脚も心臓も鍛えられた。

 

「2時間くらいで戻るからね」と眠るタミーの頭を撫ぜた。

 

玄関ドアのカギを締め、つばひろ帽子をかぶった私はチャンミンを連れて出発した。

 

時折吹く風は冷たく、帽子が飛ばされないようあご紐を締め直した。

 

眩しすぎて見上げることができなかった夏空は、いつのまにか遠く高く、澄んだ青をしている。

 

太陽はまだ東の方にあり、頑張ればお昼までに到着できるだろう。

 

春先に毛刈りをした羊たちは、この頃にはふわふわの毛に包まれ、思い思いに草を食んでいる。

 

草木はまだ青々としているけれど、冬に備えて刈った牧草を乾かす人々、穂草の先が黄金色に色づき始めていた。

 

草原の小路を私とチャンミンは、一歩一歩確かな足取りで歩いてゆく。

 

今日のチャンミンはよそ見も寄り道もしない。

 

私の隣を、短い四肢をちょこちょこ素早く動かし、その表情は真剣そのものだった。

 

肩で風を切り並んで歩く私たちは、目的を共有しあう同士だ。

 

チャンミンがいるからだ。

 

冬の頃は、小さな赤ん坊だったのに。

 

私の手からお乳を飲んでいたのに。

 

いつしか頼もしい相棒になっていた。

 

チャンミンが一緒ならば、私は安心して外出が出来る。

 

かつてチャンミンとタミーが留守番をしていた木柵までたどり着き、私は後ろを振り返った。

 

風に撫ぜられた草原の穂先が、ざわざわと乾いた音をたてていた。

 

遠くの1点に、雑木林を背負った私たちの小さな家がある。

 

赤い三角屋根、水色の壁は先週ユノさんとペンキを塗ったばかり。

 

スニーカーの紐を結び直し、「よし!」と自分自身に喝を入れた。

 

私は行く手に視線を戻した。

 

動物園へ行くには街を縦断しなければいけない。

 

早い鼓動を鎮めようと、大きく深呼吸をした。

 

街への道はゆるやかな下り坂で、途中でアスファルト敷きになり、そして道幅も広くなってきた。

 

そろそろ、チャンミンを隠さないといけない。

 

団扇のような耳と子豚のような肌色の鼻、ロリスのような大きな眼、白と茶と黒と黄金色のまだら模様、尻尾は短く、四肢はダックスフンドのように短くて、後ろ脚はひづめだ。

 

世の中の動物たちの寄せ集めのような、不格好なチャンミン。

 

それでもパーツのひとつひとつに注目すると、どれもが実用的でとても美しいと思っている。

 

羽が生え始めたとしても、私は驚かない。

 

もしかしたらチャンミンは、宇宙からやってきたエイリアンなんじゃないかと空想することもあった。

 

「チャンミン、おいで」

 

私はリュックサックにチャンミンを入れた。

 

スイカ2個分のチャンミンは重く、ずしりと肩ひもが食い込んだ。

 

チャンミンはおデブさんだけど、運動量が多いからその身体は筋肉で引き締まっていて、脂肪でぶよぶよではないのだ。

 

「人が来たら隠れているんだよ?」

 

「了解です」

 

チャンミンはリュックサックの口から、頭をひょこっと出している。

 

初めて見る景色に、「うわぁぁ」と感嘆の声を心の中で漏らしているだろうな。

 

タミーのことがなければ、二人だけで街へ出かけるなんて決してなかったことだった。

 

チャンミンは私が歩きやすいよう、じっとしていた。

 

ユノさんにクッキーを買ってもらったカフェの前まで到達した。

 

時折自動車が通り過ぎ、エンジン音をいち早く聞き取ったチャンミンは、リュックサックの中に頭を引っ込めた。

 

耳が飛び出しているかもしれない。

 

私はカフェの脇に隠れ、一旦チャンミンを外に出した。

 

チャンミンの両耳をタオルで包み隠し、顎下で縛った。

 

以前想像した通り、頬かむりしたチャンミンが滑稽で可愛らしくて、ぷっと吹き出してしまった。

 

「そんなに変ですか?」

 

「ううん、とっても可愛いよ」

 

「喉が渇きました」

 

「ひと休憩しようか?」

 

私たちは砂糖入りの甘くて熱いお茶を飲み、ビスケットを半分こして食べた。

 

「行くよ。

急がないと」

 

チャンミンをリュックサックに戻し、私は先を急ぐ。

 

冷たい空気も、歩きどおしで温まった身体にはちょうどよかった。

 

 

 

 

カフェを過ぎたあたりで道は二股に分かれていて、そこを真っ直ぐ進む。

 

確か、ユノさんは動物園までの道順をそう話していたような覚えがある。

 

自働車修理工場の前を通り過ぎた辺りから街が始まる。

 

通りを歩く人も多くなり、さまざまな店が立ち並ぶエリアに差し掛かった。

 

私は帽子を深くかぶり直し、うつむいて自分のスニーカーだけを見て歩いた。

 

花屋、八百屋、文房具店、衣料品店、クリーニング屋、時計屋、古本屋...。

 

ショウウィンドウを見ないように、石畳だけを見て歩いた。

 

肉屋の軒先に、豚の後ろ脚がぶら下がり、切り落とされた頭が3体分並んでいた。

 

私は顔を背け、小走りして通り過ぎた。

 

緊張と羞恥のあまり、総菜屋の揚げ物の匂いで胸がむかついた。

 

すれ違う人々や、通りの向こうの人さえ皆、私に注目している気がしてならなかった。

 

同居人に怪我をさせ、都会から来た少年を川に突き落とした醜い子供だって。

 

学校にも行っていなくて、同性愛者と暮らしているって。

 

私の両親の噂もここまで伝わっているだろう。

 

人は不幸の匂いがする話が大好きだから。

 

300mばかりの間だ、我慢しよう。

 

リュックサックの肩ひもをぎゅっと握りしめた。

 

手前に看板があっただろうけど、下を向いていたせいで見逃したのだ。

 

「...えっと、ここを曲がるんだっけ?」

 

この交差点で左に曲がるのか、もうひとつ向こうなのか分からなかった。

 

私はユノさんの動物園に行ったことがない。

 

 

(つづく)

 

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(22)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

ユノさんと夜の散歩をしていた。

 

満月の夜で懐中電灯は不要だった。

 

夜目がきくチャンミンは、ずっと前方へ走っていったかと思うと、引き返してきて私たちの足元にまとわりつく遊びを繰り返している。

 

リリリ、リリリと鈴虫の鳴き声も、首元を撫ぜる夜気も涼やかだった。

 

月光に照らされて濃紺色の影が、ユノさんの顔の凹凸を浮かび上がらせている。

 

逞しいイメージしかなかったユノさんだけど、実はとても女性的で優しい顔をしているのだ。

 

「チャンミンは何歳まで生きるの?」

 

チャンミンの存在感が増すごとに、膨らんでいった不安だった。

 

「チャンミンの心臓の音を聞いてごらん。

拍動が早ければ、人間より早く死ぬだろうね」

 

チャンミンを呼びよせ、彼の胸に耳を押し当てた。

 

運動の最中だったから当然だけど、ドクドクと鼓動が早かった。

 

私の頭蓋骨にその振動が伝わってくるほど、力強い拍動だった。

 

これまで何度抱きしめただろう、チャンミンの胸に頬ずりした時に感じとった鼓動を思い出してみた。

 

私と同じくらいだった...多分。

 

「チャンミンは、人間でいうと何歳くらいかな?」

 

「そうだなぁ。

小学生くらいかな?」

 

「へぇ...。

じゃあ1年で12歳くらい?」

 

「動きがまだまだ子供っぽいから、それくらいだろうね。

好奇心旺盛だし、怖いもの知らずだし」

 

「そうだねぇ」

 

寿命の話をした2週間後のことだった。

 

 

 

チャンミンには苦手なものがたくさんあった。

 

押すとピーピー音が鳴るゴム製のボール(タミーの玩具)、ユノさんの怒った顔、雷、そしてイカ...。

 

 

ユノさんが活きのいいイカを手に入れてきた日。

 

複雑に調理せずシンプルに、丸ごとを軽く炙って食べることにした。

 

それを食卓に運ぶ途中、ラグの裾に足を引っかけてしまった。

 

丸焼きイカが弧を描いた落下点が、大きく開いて待ち構えていたチャンミンの口だったのだ。

 

パクっと、見事にチャンミンの口の中に着地した。

 

空を飛んできたご馳走にチャンミンは、私から奪い返される前にと、よく噛みもせず飲み込んでしまった。

 

チャンミンは食い意地が張っているのだ。

 

「僕は悪くないですよ。

これが僕の口をめがけて飛んできたのです」

 

「チャンミンの馬鹿!」

 

イカの余りはまだあったため、もう一度焼かないと、と台所へと引き返そうとした時だった。

 

「ぐへっ」

 

おかしな音に振り向くと、チャンミンは背中を痙攣させ、「かっかっ」と喉を鳴らしていた。

 

私は駆け寄り、チャンミンの口吻を上下に開いて、喉の奥を覗き込んだ。

 

白い塊が詰まっている。

 

チャンミンは「げぇげぇ」えずいている。

 

「ユノさーん!」

 

慌てふためいてユノさんを呼んだ。

 

入浴中だったユノさんは、腰にタオルを巻いた姿で駆けつけた。

 

息ができないため、チャンミンの舌がみるみるうちに白くなっていった。

 

ユノさんはチャンミンの後ろ脚をつかむと、チャンミンを逆さづりにした。

 

その荒々しさに、私は固唾をのんで見守った。

 

そして、チャンミンの背中を数度叩いた。

 

歯型がひとつだけついたイカの丸焼きが、べたっと床に落ちた。

 

...このエピソードをきっかけに、チャンミンはイカが嫌いになったのだ。

 

チャンミンは食いしん坊だから、食べ物がらみの失敗談がたくさんある。

 

 

 

 

私はチャンミンを街に連れていったことがないので、汽車の音や人混み、豚が丸ごとぶらさがった肉屋...きっと嫌いになるだろうと思う。

 

街、人が沢山いるところ...私が苦手な場所。

 

私とユノさん、配達の人たち...これがチャンミンが出会ったことがある人間の全てだ。

 

それでいいのかな、と思うようになった。

 

チャンミンが大好きだから、彼をいろんなところに連れていってあげたい。

 

海も見せてあげたい...私も海へは行ったことがないから、ユノさんに連れて行ってもらおう。

 

でも、チャンミンは珍獣だから、人々から好奇の目で見られてしまう。

 

ユノさんのトラックの窓から、眺めさせるのもいいアイデアかもしれない。

 

大きな耳はタオルで頬かむりして隠すのだ。

 

その姿を想像し、滑稽で可愛らしくて吹き出してしまった。

 

笑っている場合じゃないことにハッとして、周囲を見回したけど、居間にはチャンミンとタミーがいるだけだ。

 

ユノさんは仕事で留守だった。

 

ここ2、3日の天候は異常だった。

 

9月だというのに、昨日までは真夏のような暑さだった。

 

一転、今日はカーディガンを引っ張り出さないといけないほどの肌寒さだった。

 

古毛布を敷いた上にタミーが横たわっていた。

 

健康な私でも風邪をひかねない気温差で、おじいさん犬のタミーの老体は特に堪えたのだ。

 

「そっと寝かせておきなさい」と、ユノさんは言い置いて出勤していった。

 

タミーの鼻先に、水の入ったボウルを近づけてやると、億劫そうにやっとのことで首を持ち上げ、水を飲んだ。

 

食事は今朝、ユノさんが与えていたから、夕方まではやらなくてもいいが、欲しがった時のために、パンを牛乳でふやかしておいた。

 

タミーの首を揉んでやっていると、チャンミンも真似をして背中を前足でふにふにと踏んだ。

 

チャンミンが赤ちゃんだったとき、私の手首をおっぱいのつもりでふにふに揉んでいた頃のことが思い出された。

 

時の経過を楽しむ伸び盛りのチャンミンに対し、死に近づいていく年ごろにさしかかたタミーの場合は、時の経過を恐れるようになる。

 

犬の寿命は15年前後だったはずだ...タミーはまだ13歳だもの、大丈夫。

 

「僕にできることがあったら何でも申しつけてください」と私の足元にまとわりつき、何も頼まれごとがないと知ると、タミーのお腹にくるまるように横になった。

 

タミーの呼吸はとてもゆっくりで、寝顔はおだやかだった。

 

私の心は不安感でいっぱいだった。

 

このままタミーが、ユノさんが帰宅する前に死んでしまうかもしれない恐怖に憑りつかれていた。

 

タミーはユノさんの宝物だ。

 

ユノさんの家で暮らし始めた2年前からタミーはおじいさんで、穏やかな性格で私に対し一度も吠えたことがない。

 

犬といえば、狂暴な野犬しか知らなかった私は驚いた。

 

タミーにとってユノさんは絶対的な存在なのだ...ユノさんを見つめる眼でひしひしと伝わってきた。

 

ユノさんが出かけてまだ2時間しか経っていなかった。

 

この家には電話はない。

 

「よし!」

 

リュックサックを取ってきて、お茶を入れた魔法瓶とビスケット、そしてノートと鉛筆を詰めた。

 

ジャンパーを羽織り、チャンミンの名前を呼んだ。

 

 

(つづく)

 

 

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(21)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

かきむしったせいで、ふくらはぎの虫刺され痕が赤く腫れていた。

 

チャンミンのピンク色のお腹にもぽつんぽつんと赤い痕があり、短い脚の彼の代わりに私が掻いてあげた。

 

夏の夜はこもった熱で寝苦しくて、窓を開けっぱなしにしている。

 

蚊帳を吊ってはいるが、隙間から忍び込んだやぶ蚊に刺されたのだ。

 

朝晩は涼しくなり、チャンミンのぬくもりの出番がやってきた。

 

私の脇腹だけにお尻をくっつけて眠っていたのが、朝方になると肌寒さに私の懐にもぐり込んでくる。

 

「夏も終わったねぇ」

 

ミンミンミンミンと私を呼ぶ蝉の声も、いくぶん大人しくなってきているようだ。

 

眉の上に貼った絆創膏はもうすぐとれるだろう。

 

絆創膏に触れる私に、チャンミンは肩を落とし申し訳なさそうに眉を下げた。

 

 

 

チャンミンの後ろ足は、二股のひづめになっている。

 

その爪は琥珀色の半透明をしている。

 

プラムの木によじのぼれたのも、爪先が鋭く尖っているからだった。

 

チャンミンの爪は時には凶器になった。

 

元はと言えば、意地悪をした私が悪かった。

 

私の腕からすり抜けようと身をよじった時、そうはさせまいと力いっぱい抱きしめた。

 

チャンミンは渾身の力でもがき、弾みで後ろ足で私の顔を蹴った。

 

チャンミンの鋭い爪先が、私の皮膚を切り裂いた。

 

血が沢山出た。

 

とっさの行動で悪気は全くなかったにせよ、大好きなチャンミンに傷つけられたことにショックを受けた。

 

自分が何をしでかしたのか、チャンミンは瞬時に悟ったのだろう。

 

一度はテーブルの下に引っ込んだが、顔を押さえうずくまる私にそろそろと近づいてきた。

 

心配げに私の腕を引っかいた。

 

「やめて!」

 

私は肘でチャンミンを追い払った。

 

元々醜い顔をしている私だったから、傷痕ができようと構わなかった。

 

でもユノさんは「痕になったらいけない」とそれを許さず、私は有無を言わせず街の診療所へ連れていかれることになってしまった。

 

チャンミンがひとりで留守番をするのは、この時が初めてだったかもしれない。

 

「僕も行く!」と私の膝に飛び乗ろうとするチャンミンに、ユノさんはぴしりと命じた。

 

「タミーと留守番をしていなさい」

 

チャンミンはすごすごとトラックから離れ、地面にぺたりとお尻を落とし、悲し気に私を見上げた。

 

私は乱暴にドアを閉めた。

 

トラックが走り出すと、チャンミンも走り出した。

 

「家に戻りなさい!」

 

窓から顔を出し、追いかけてくるチャンミンを大声で叱りつけた。

 

半べそかいた顔で走っている。

 

走りの速いチャンミンでも自動車のスピードには敵わない。

 

それでもチャンミンは、両耳をたなびかせ追いかけてきた。

 

どこまでも追いかけてきた。

 

チャンミンを置いてけぼりにした。

 

チャンミンは私のことが心配なのだ。

 

出血を押さえたタオルに、こみあげてきた涙がしみ込んだ。

 

ユノさんはシフトレバーから手を離すと、私の頭を撫ぜた。

 

サイドミラーに映るチャンミンのまだら模様は遠くなってゆき、ついには見えなくなった。

 

「街まで追っかけてくるかもよ?」

 

「タミーにお守りを任せたから、大丈夫。

タミーはチャンミンの先輩だからね。

吠えてチャンミンを呼び戻してくれるよ」

 

「ホントに?」

 

「ああ。

タミーもチャンミンもとても賢い子たちだ。

何をすると俺たちが困るのか、ちゃんと理解しているよ」

 

診療所に到着した私は、ズキズキ疼く傷口よりも、ぎゅっと縮まった胸の方が痛かった。

 

幸い診療所の待合室には、腰の曲がったよぼよぼのおじいさんがいるだけで助かった。

 

診療所の医師は私の顔を眺めまわすことなく、私の傷口だけを見た。

 

医師は私の事情を承知しているからだ。

 

看護師の視線だけが気になった。

 

後で旦那さんや、子供や、ご近所さんに「あの子が来たよ」って言うんだろうな。

 

処置の間、ユノさんは私の手をずっと握ってくれた。

 

緊張の汗で濡れていた私の手の平に対し、ユノさんの大きな手の平は温かく、からりと乾いていた。

 

眉上の切り傷は3針縫っただけで済み、痛み止めを処方してもらい私たちは帰路についた。

 

「ココアでも飲んで帰るか?」

 

カフェの看板を見て、ユノさんは私を誘った。

 

「ううん、いいや」と、私は首を振る...いつものことだ。

 

「早くお家に帰りたい」

 

「チャンミンとタミーにお土産を買っていこうか?

留守番のご褒美だよ」

 

ユノさんの提案に私は大きく頷いて、カフェに寄って、クッキーを13枚とココアを買った。

 

街を抜け草原の小路にさしかかったとき、ヘッドライトに二対の赤い光が反射した。

 

「チャンミン!」

 

境界の木柵の下で、チャンミンがうずくまっていた。

 

私たちの帰りを待っていたのだ。

 

タミーもいた。

 

言うことをきかないチャンミンに、タミーは老体に鞭打ってチャンミンに付き合ってあげたのだろう。

 

「チャンミン!」

 

トラックから飛び降りた私は、チャンミンを赤ん坊を高い高いするように抱き上げた。

 

「お前は馬鹿だねぇ。

ずっとここにいたの?」

 

「待ちくたびれました」

 

目の上に貼ったガーゼを避けて、チャンミンは私の頬をべろりと舐めた。

 

ユノさんもタミーを抱き締め、がしがしと首をかいてやっていた。

 

チャンミンとタミー、そして私はトラックの荷台に乗って、私たちの家に帰りついた。

 

夕日はオレンジ色の火の玉となって、草原に落っこちてきそうだった。

 

草原は夕闇に沈みかけていた。

 

 

その夜のチャンミンは金魚のフンのように、私の後をついてまわった。

 

チャンミンなりに私を心配してくれていたのだろう。

 

「全~然、怒ってないよ。

びっくりしただけだよ」

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

「自分が悪いんだ。

嫌がることして、ごめんね」

 

「謝るのは僕の方です。

あなたの顔に傷をつけてしまいました」

 

チャンミンの瞳の底には、涙の湧き水がある。

 

眼の表面の涙が膨れ、次のまばたきで目尻からぽろりとこぼれ落ちた。

 

チャンミンの涙はいくらでも湧いてきて、毛皮を濡らして涙の筋を作った。

 

垂れ下がる鼻水が床につきそうだった。

 

「お前は凄いねぇ。

ウミガメみたいに涙を流せるんだね」

 

「はい。

僕は泣き虫なんですよ」

 

チャンミンは私に「ごめんなさい」と謝り、私も彼に「自分こそごめんね」と謝った。

 

眠くなるまでずっと、繰り返した。

 

 

 

(つづく)

 

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