(15)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

活動量の増えたチャンミンは、ちゃんと見張っていないと危なっかしい。

 

私の腕の中に飛び込もうと全速力で駆けてくる。

 

もし途中で大きな落とし穴があったとしよう。

 

短い脚を高速回転させて、必死過ぎて変な顔をして、まっしぐらだ。

 

そして、私の目の前でチャンミンの姿がふっと消える。

 

落とし穴に落っこちたのだ。

 

「はて...何が起こったのでしょう?」と、きょとんとしているチャンミンを、穴から引きずり出す。

 

「すんません、穴があったとは...見えていませんでした」と、恥ずかしさを隠そうと後ろ脚で耳の後ろを掻きそうだ。

 

その落とし穴がとてもとても深いものだったら...正真正銘、私の目の前で消えてしまったらどうしよう、と怖くなる。

 

 

 

 

ユノさんの家に来て、3度目の夏が訪れた。

 

毛むくじゃらのチャンミンは早くもバテ気味で、台所の(我が家で最も涼しい場所なのだ)タイル張りの床に腹ばいになっている。

 

扇風機がぬるい空気をかきまわしていた。

 

頭がぼうっとして勉強に集中できず、チャンミンに倣って私も床に寝転がる。

 

体温でぬくもったら、ひんやりした場所へと寝返りをうつ。

 

横たわった姿勢で、私の真ん前に陣取るチャンミンのお尻を眺めた。

 

コビトカバみたいなお尻、と思った。

 

チャンミンの尻尾を引っ張ってみると、ここをいじられるのを好まない彼は大儀そうに振り返り、「やめて」と鼻を鳴らした。

 

「ふうん」

 

拗ねてチャンミンから距離をおくと、彼は不安になったのかほふく前進して、私の脇腹にお尻をくっつけて、昼寝の続きに戻る。

 

その箇所が湯たんぽと密着しているかのように熱かったが、私は我慢する。

 

 

 

 

日中は暑すぎて外遊びは出来ないけれど、代わりにチャンミンに水浴びをさせた。

 

ホースの水をチャンミンに浴びせた時の、彼の狂ったようなはしゃぎっぷりといったら!

 

ホースからほとばしる水を口に受け、がぶがぶと噛みつくのがチャンミンの好きな遊びだった。

 

「もっとやって」としつこくせがまれて、チャンミンの気が済むまで彼の遊びに付き合ってあげる。

 

地面を濡らす水は、からからに乾いて白茶けた地面に沁み込み、水たまりができる間もなく蒸発してゆく。

 

チャンミンの身震いがダイナミック過ぎるせいで、水浴びをしているのは彼なのに、私のTシャツも短パンも濡れてしまっていた。

 

太陽光を受けて、水しぶきがミニチュアの虹を作る。

 

真夏の濃い青空が映り込んだ、チャンミンのみずみずしい瞳に話しかける。

 

「ねえ。

チャンミンには虹が見える?」

 

彼の瞳孔がとらえた映像に色彩はあるのか?

 

モノクロームの世界なのか、カラフルな世界なのか。

 

こんな大きな眼をしているんだもの。

 

私の肉体を透かした先、草原に散らばる白い点々...ヒツジたちが見えていそうだ。

 

私が見ることができないもの...例えば、未来...も見ることができるかもしれない。

 

チャンミンは未来よりも、水遊びが楽しい今この時にしか興味がないのだろうな。

 

過去や未来に意識を集中している時、私の眼はここではないどこかを彷徨っている。

 

そしてその隙にチャンミンを見失ってしまう。

 

ぞっとした思いを振り払おうと首を振ったら、くらりと眩暈がした。

 

「お前の眼にはどう映っているの?」

 

「あなたと同じものを見ていますよ」

 

私の耳と心がキャッチしたチャンミンの言葉は、私の頭が都合よく変換したものなんだろう。

 

「さあ、もっと僕に水をかけてください」

 

 

 

 

私たちの家の背後、雑木林を抜けたところに別荘地がある。

 

夏の間、裕福な都会っこが避暑を求めて数週間滞在する。

 

標高が高いせいで太陽との距離が近く感じられるこの地、それでも木陰に入ると涼しい。

 

源流の小川は、川底の小石の色まで見分けられるほど透明で冷たく、腕を数分も浸していると痺れてくる。

 

私ひとりだけなら、別荘地から下流へ数十メートルくだった場所で水泳を楽しめた。

 

流れの一か所に深い淵があり、足の指やすねをぶつけて痛い思いをする心配なく、のびのびと手足を伸ばせた。

 

でも、今年の私は二つの理由でそれが出来ずにいた。

 

ひとつ目はもちろん、チャンミンの存在だ。

 

水浴びは好きだけど、チャンミンは泳ぐことができるのか未確認だった。

 

本人は泳ぎの達人のつもりでいて、水中に飛び込んで初めて、自分が泳げないことに気付く。

 

プラムの木の時は、人の目が届く前庭で、ユノさんに助けてもらえることができた。

 

山深いここでは、チャンミンを助けられるのは私だけだ。

 

平泳ぎと潜水しかできない痩せっぽちの子供が、おぼれまいと大暴れするチャンミンを川岸へ連れていけるだろうか。

 

チャンミンは生命の塊で、彼の全身は活きのよい魚のように躍動的なのだ。

 

肉や野菜の焼ける匂いにつられて上流へ駆けていってしまう恐れもある。

 

もうひとつの理由は、2年前に私が起こした出来事があったからだ。

 

思い出す度、真冬の川に突き落とされ凍り付く感覚を覚える。

 

私の顔はより醜く歪み、身体の表面はかあっと熱いのに、心も内臓も凍結してゆく。

 

...でも、チャンミンを信用して連れていってもいいかな、と思い直してもいた。

 

チャンミンには笑っていて欲しいから。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(14)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

発見者はタミーだった。

 

尻尾をゆっさゆっさ振っているタミーの見上げた先。

 

チャンミンがプラムの木にしがみついて震えていた。

 

黄緑色の若実が気になって、齧ってみたくなったのだろう。

 

チャンミンは食いしん坊なのだ。

 

後先考えず木によじ登ったのだ。

 

地面には、齧りかけの実が1個転がっている。

 

実を齧ってみたところが強烈な酸っぱさに、期待を裏切られたチャンミンは驚いただろう。

 

「お前は馬鹿だねぇ。

まだ青いんだから、食べられないんだよ?」

 

「すんません、一口だけ、ほんのひと口だけ味見をしてみたかったんです」

 

幹にしがみついたチャンミンは、情けない顔で私とタミーを見下ろしている。

 

食べられないと諦めたチャンミンはここで初めて、木から下りられないことに気が付いたのだろう。

 

一体いつからそこにしがみついていたのやら。

 

家事や自習の合間に、チャンミンの様子を気にかけていた。

 

ポーチで昼寝をしたり、「遊びましょう」と足元にじゃれついたり、最後に見た時はタミーを追いかけ回していた(タミーは迷惑そうだった)

 

滅多に吠えないタミーの声に、様子が変だと外へ出てみたらこの有様だった。

 

ユノさんの帰宅を待つ間、私はチャンミンに声をかけ続けた。

 

「じっとしているんだよ」と。

 

ユノさんは長ハシゴをプラムの木に立てかけ、私はそれを押さえていた。

 

ユノさんの頼もしく逞しい腕に抱かれて、地上へと降り立ったチャンミン。

 

両耳を伏せ鼻水を垂らしたチャンミンは、半べそ顔をしていた。

 

 

プラムの実で、チャンミンはもう一度騒動を起こした。

 

プラムのシロップ漬けを作ろうと、籠いっぱいに摘んだものをチャンミンがつまみ食いをしたのだ。

 

つまみ食いどころか、15個も食べたのだ。

 

床に散らばっていた種...しゃぶってつるつるになっている...の数を数えたのだ。

 

チャンミンのお腹が、こんもりと膨れていた。

 

「チャンミン。

お前の胃袋はこれくらいなの」

 

仰向け寝だと圧迫して苦しいらしく、床に四つ足を伸ばして腹ばいになっていた。

 

「これくらい小さいの!」と、ジャムの瓶を突きつけて説明をする私を見上げている。

 

「何を仰っているのか、僕には理解できません」といった顔をしている。

 

チャンミンは現行犯で止めないと、何がいけなかったのか分からないんだった。

 

「怒ってごめんね。

苦しいね」

 

まだら模様の毛皮の背中を撫ぜた。

 

チャンミンは自分の身体のサイズを把握できていない。

 

私と同じくらいに大きい身体をしていると勘違いしているのだ。

 

ユノさんはチャンミンの太い脚を見て、「大きくなる証拠だ」と言っていたけれど、小型犬サイズのチビ助のままだった。

 

私のベッドへは、ひと跳びで上がれる。

 

でも、ユノさんのトラックに飛び乗ろうとジャンプしたものの、座席のへりに頭をぶつけて地面にひっくり返ることもしばしばだった。

 

 

からりと乾いていた空気も湿り気を帯びるようになってきた。

 

夕飯時間になっても、外は明るい。

 

リビングの壁に吊るしたカレンダーを、一枚やぶり取った。

 

残りの枚数を数え、「あと7枚か...」とつぶやいた。

 

チャンミンがやってきてから1分1秒が濃密過ぎて、時間への視野が狭くなっている。

 

その速度感を「今月も終わりなんだ」と、カレンダーをめくるタイミングではじめて実感する。

 

チャンミンには時間の概念はないだろうけど、彼は1秒1秒が一生懸命なんだろう。

 

チャンミンには「その時の今」しか存在しなかった。

 

私は過去を思い出して涙を流し、未来を想像して不安になる。

 

特に、過去の記憶に捉えられたままで、そこから逃れる方法が分からず、今この時を見失っていることの方が多い。

 

ユノさんみたいに大人なら、その術を知っているだろうから、教えてもらおうと思った。

 

チャンミンがやってきたこの年は、特別な1年だ。

 

ラグに腹ばいになって麺棒を齧るチャンミンを見つめた。

 

私も1秒1秒を懸命に生きようと思った。

 

 

 

 

ポーチの手すりに悪質なビラが貼りつけられていた。

 

卑猥で汚らしい言葉が書きなぐられていた。

 

読み上げるだけで口が腐ってしまいそうな言葉が並んでいた。

 

今回が初めてじゃなかった。

 

季節の変わり目になると、ある日突然出現する恐ろしいものだ。

 

同性愛者であるユノさんを批判し、貶めるものだった。

 

ユノさんが帰ってくる前に処分しなければ!

 

剥がしとってポケットに入れようとした時、それをチャンミンにさらわれた。

 

「チャンミン!」

 

奪い取ったそれを、チャンミンの爪が引き裂いた。

 

穴掘りの要領で前脚でガリガリと引っかいた。

 

それだけじゃ足りないと、前脚で押さえ鋭い犬歯でもってびりびりに破ってしまった。

 

執念ぶかく、徹底的に。

 

それは紙吹雪となって、風にのって草原へと散っていった。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(13)君と暮らした13カ月

 

~春~

 

 

私の後を付いてまわったチャンミンが、今度は私を従えて先を走る。

 

チャンミンの大きなお尻が弾んでいる。

 

丸めた背中がバネとなる、太い後ろ脚が地面を蹴り、前脚が衝撃を受け止める。

 

団扇のような両耳は風にたなびいている。

 

大きな鼻の穴は酸素を取り込もうと、開きっぱなしだ。

 

「チャンミン!」

 

先を行ったチャンミンを呼ぶと、四肢を踏ん張り急ブレーキをかける。

 

口角は上がり、真ん丸な眼が半月になって、笑顔に見えた。

 

全速力で私の腕の中に、飛び込んでくる。

 

勢いが強すぎて、チャンミンを受け止めた私は後ろにひっくり返ってしまう。

 

私の背中に押しつぶされた若草の匂いがぱっとたちのぼった。

 

大の字に寝っ転がった。

 

大鷹が旋回している。

 

遠くの農地から、畑を耕すトラクターのエンジン音が草地を震わせ耳に伝わる。

 

眩しくて麦わら帽子で顔を覆うと、チャンミンはその下に鼻ずらを突っ込んで私の顔じゅうべろべろ舐めた。

 

チャンミンのよだれは、そよ風で乾いてしまう。

 

チャンミンはよっぽど私のことが好きみたい。

 

チャンミンを撫でまわし、頬ずりをして、お腹をかいてやる。

 

嬉しくて仕方がないのだろう、チャンミンはふごふご鼻を鳴らし、もっと不細工な顔になった。

 

くすくす笑いが胸の奥から湧き出てくる。

 

ひらひら飛ぶ蝶々に噛みつこうと口をパクパクさせたり、猪がほじくりかえした穴にすぽんと落ちてしまったり。

 

頭から突っ込んで後ろ脚をバタバタさせているチャンミンを、助け出してやるのだ。

 

後ろ足でお腹をかく姿は、ドジを踏んだ自分に照れて、「すんません、穴があるとは...」と言い訳しているように見えた。

 

チャンミンの目線に合わせて四つん這いになってみる。

 

「落っこちても仕方ないよね、チャンミンはチビだから」

 

丈が伸びた穂草で行き先を見通せなかったのだ。

 

よそ見や寄り道をしながら、私が追い付くなり、もっと遠くへ跳ねるように駆けてゆく。

 

私は知っている。

 

チャンミンの後頭部にはもう一つの目があるのだ。

 

私がちゃんと付いてきているか、私の存在を常に意識している。

 

私が見守っているから、チャンミンは安心して草原を駆け回れるのだ。

 

あまりに遠くまで探索に行ってしまうから、意地悪な気持ちがどうしても湧いてくる。

 

チャンミンの白いお尻がジグザグに遠ざかるのを見計らって、彼とは逆方向へ私は走った。

 

「さあ、ついて来られたかな?」と、立ち止まって振り返ると、私の姿が見当たらないと焦りだす。

 

慌てた顔が見たかった。

 

チャンミンが赤ちゃんだった時には、どうしても出来なかった悪戯だ。

 

背後に私がついてきていないことに理解が追いつくやいなや、周囲を見回す。

 

引き返しては鼻先を天に向け、風にのって漂ってくる空気中に私の匂いを懸命に嗅ぐ。

 

「そこにいたんですね!」

 

私を見つけた時のチャンミンの顔といったら。

 

チャンミンは私の成すこと全てを真に受け、疑わない。

 

これが私の意地悪だったなんて、これっぽちも思っていないはずだ。

 

それどころか、「見失ってしまってごめんなさい」と、お腹を見せて私のご機嫌取りをしている。

 

意地悪の概念がないのか、私が意地悪をするはずはないと信じているのか。

 

「馬鹿だねぇ、お前は。

私のことを信じきって...」

 

チャンミンはひっくり返り、5カ月経ってもぽわぽわした産毛しか生えていないピンク色のお腹を見せた。

 

そこだけ渦を巻いたおへその毛をくすぐった。

 

 

走っても走っても、なかなか草原の端っこにたどり着けない。

 

運動不足な私がこんなに走ることができるなんて!

 

牧草は柔らかくスニーカーを受け止める。

 

チャンミンと並んで地面に腰を下ろし、柵にもたれて眼下に広がる街を眺めた。

 

リュックサックにいれてきた魔法瓶とコーンフレークの箱を出した。

 

汗をかいて暑いのに、温かい飲み物は喉を潤し、ホッとさせてくれる。

 

チャンミンのために魔法瓶の蓋に注いで、彼の足元に置いた。

 

「熱いからね。

冷めてからだよ」

 

チャンミンは人間じゃないのに、お茶が好きなのだ...それも、砂糖が沢山入った甘いお茶が。

 

お茶が冷めるのを待つ間、チャンミンはなにやら考え事をしている(ように見える)

 

チャンミンの頭の中を覗いてみたい。

 

「チャンミン、街まで行きたい?」

 

恐る恐る尋ねてみた。

 

チャンミンはふん、と鼻を鳴らしたので、私はほっとした。

 

チャンミンの頭が勢いよく横に振られ、私の肩ごしの向こうを注視していた。

 

ユノさんのトラック以外の自動車を見つけるや否や、チャンミンは草むらに隠れてしまう。

 

ヨモギの群生から、チャンミンの大きな耳がはみ出していた。

 

チャンミンは自分の姿形が不格好だと知っているのだ。

 

恥ずかしいのか、恐ろしいのか...その両方か。

 

それから、姿を見せたら大騒ぎになってしまって私を困らせたくないから。

 

私は麦わら帽子を深くかぶり直し、ユノさんちへ向かう郵便配達の自動車をやり過ごした。

 

「行っちゃったよ。

出ておいで」

 

声をかけると、チャンミンは草むらから飛び出してきた。

 

そして私を従え、「僕を見て!」と、右へ左へと素晴らしい跳躍をみせてくれる。

 

「チャンミン!

待って!」

 

...急に不安になった。

 

チャンミンは動物園で発見された謎の生き物。

 

珍種だからと、研究所のようなところに連れていかれたらどうしよう...。

 

そんなことはさせまいと、ユノさんが守ってくれる...だから大丈夫だ。

 

一昨年の出来事も去年の事件も、私に非がないように、ユノさんが頑張ってくれた。

 

私はチャンミンのママだけど子供で弱いから、ユノさんに守ってもらうのだ。

 

チャンミンのママ?

 

近頃の私たちは、親友同士みたい。

 

チャンミン...どこにもいかないでね。

 

12年間生きてきた人生で、最も愛し、唯一無二の宝物はチャンミンだった。

 

愛しさのあまり、泣き出してしまいそうだった。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(12)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

ふと作業の手を...鉛筆を持つ手、ホウキを持つ手、フライパン返しを持つ手...止めたとき、しんと辺りが静まり返っていた時が要注意だ。

 

チャンミンが悪戯の真っ最中の気配を感じる。

 

チャンミンは、常に私の側にいないと不安でたまらない赤ん坊時代を過ぎ、ひとり遊びできるまで成長した。

 

ありまわる好奇心と体力を持て余して、いたずらの限りを尽くす。

 

どれだけの物を壊されただろうか。

 

コリコリいう音に振り返った私は、悲鳴を上げた。

 

チャンミンの尻尾は高速で振られている。

 

「これは噛んだらダメなの。

噛んでいいのは『これ』だけなの」

 

と、麺棒を指さした(以前チャンミンが使用不能にしてしまったモノだ)

 

「いい?

分かった?」

 

言い聞かせる間、チャンミンは「顔が怖いですよ?」と、きょとんと首をかしげている。

 

きょとんとした表情をしているが、彼は悪戯を咎められていることをちゃんと理解している。

 

その30分後には、床に落ちた鉛筆を木くずの山に変えていた。

 

当然、「チャンミンったら悪い子なの!」とユノさんに泣きつくことになる。

 

「チャンミンはネズミの一種なのかな?

なんでも齧りたがるの」

 

「歯が生え始めてむずがゆいのかもしれないね。

もっと大きくなったら落ち着くよ」

 

「大人になるのを待っているうちに、食卓テーブルがローテーブルになっちゃうよ?

ユノさん、困るでしょ?」

 

「一番いいのは、現行犯で捕まえることだね。

チャンミンには悪いことをしている意識はないんだ。

やっている最中に、『駄目』だと教えてあげなさい」

 

...なんて、ユノさんは分かりきったことを言うんだから。

 

被害は私のものにとどまらず、ユノさんのものやタミーの玩具にまで被害が及ぶようになっていた。

 

ユノさんの外出用の革靴を見事に分解してしまった日は、さすがにユノさんはチャンミンを叱りつけていた。

 

靴底、アッパー、ベロ、かかと、中敷き...これらそのまま靴職人の元に持ってゆけば、元通り縫い合わせてくれそうだった。

 

 

 

 

「チャンミ~ン」

 

今回は何だろうとドキドキさせて、チャンミンを探す。

 

コーンフレーク(チャンミンの好物のひとつ)の箱をゆすって音をたてながら、チャンミンの名前を呼んで2つの寝室と浴室を覗く。

 

換気のため開けていた玄関ドアを思い出して、ヒヤッとした。

 

敷地の境界線から外へ行ってしまったらどうしよう!

 

いつまでも散歩に連れていってあげない私に業を煮やして、「ひとりで平気ですから」と冒険に出かけてしまっていたら...!

 

ポーチから見下ろした景色に、私は言葉を失った。

 

昨年、農家たちを悩ませたカブ泥棒のニュースが頭をよぎった。

 

嵐の夜の翌朝のようだった。

 

蹴散らかされた黒土、細長い緑、黄色が散らばっている...。

 

私の気配を感じとったチャンミンは背中をびくりと震わせ、ゆっくりと振り向いた。

 

私たちはしばらくの間、見つめ合っていた。

 

硬直した私の様子に、ただ事ではないと察したようだ。

 

それまでむしゃむしゃと動いていたチャンミンの顎が止まった。

 

チャンミンの肌色の鼻は真っ黒で、眉毛の上に黄色の花びらが付いていた。

 

「チャンミン...」

 

チャンミンは自分が喜ばしくないことをしでかした、と気付いている。

 

私たちは目を合わせたままでいた。

 

チャンミンの眉根が盛り上がり、眉毛とおぼしき斑点が下がった。

 

「ミンミンを怒らせてしまった...マズイ」と焦り始めたのだろう。

 

口の中のものが地面に落ち、ころりと転がった。

 

チャンミンが咀嚼していたものは、掘り返した球根だった。

 

荒されていたのは花壇で、そこに植わっていたラッパスイセンがチャンミンの口と前脚によって無茶苦茶にされていたのだ。

 

丸い石を土留めした程度のささやかなものだったが、春になると黄色い花がそれは鮮やかに咲くのだ。

 

チャンミンの背が丸まり、首をすくめた格好になった。

 

短い尻尾がお尻の穴を隠した。

 

「チャンミン...ひどい、ひどいよぉ...」

 

その場で崩れ落ちて、私は泣いてしまった。

 

どうせチャンミンのことだ、いつものようにどこかに隠れて、上目遣いで私の機嫌が直るのを待つつもりだ。

 

両腕で囲った中に顔を埋めて泣いた。

 

今回の悪戯は度を越していた。

 

私の二の腕に冷たく濡れたものが押しつけられた。

 

顔を上げると、間近にチャンミンの眼があった。

 

私から目を反らさない。

 

白いまつ毛はまばたきを忘れ、明るい茶色の瞳に影を落としていた。

 

汚れた前脚が私の膝に乗った。

 

温かい舌で私の目尻の涙を舐めとった。

 

「チャンミンっ...くすぐったい」

 

実は、チャンミンが謝りにくるのを私は待っていたのだ。

 

私こそ、チャンミンに謝らないといけないのに...。

 

私がいつまでもぐずぐずと、チャンミンを連れて外出しなかったのがいけないのだ。

 

チャンミンは外出を渋る私に気を遣っていたのだ。

 

そうじゃなければ、とっくの前にひとりで草原を駆けずり回っていただろうから。

 

チャンミンの眉にくっついた花びらをとってあげた。

 

チャンミンの赤い舌が、この先の私の涙をどれだけ拭ってくれたことか。

 

 

被害は見た目ほど酷くなく、水仙の3分の2は植え戻すことができた。

 

帰宅したユノさんは、花壇に気づくと「やれやれ」と首をふりふり、ポーチに仲良く並んで座った私とチャンミンに苦笑して見せた。

 

水仙はユノさんがここに住み始めた際に、植えたものなのだ。

 

「ごめんなさい...」

 

チャンミンに代わって私は謝った。

 

猫背に背を丸めたチャンミンも、叱られた子供みたいにしょげてみせている。

 

「イチゴを買ってきたよ。

夕飯の後にみんなで食べよう」

 

チャンミンは丈夫な胃腸を持っていると、あらためて知った。

 

水仙の球根を10個も食べてもけろりとしていたんだもの。

(もちろん、イチゴも食べた)

 

この日以降、チャンミンは花壇を荒すことはなかった。

 

もっとも、大自然の中で遊びまわる機会がようやく訪れたおかげもあるけれどね。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(11)君と暮らした13カ月

 

 

 

~春~

 

 

朝晩は冷え込む春先までは、チャンミンを湯たんぽ代わりに抱いて眠っていた。

 

チャンミンが段ボール製寝床で眠ったのは、この家にやってきた最初の夜だけ。

 

標高1,000メートルにあるだけに、冬は寒さ厳しく、夏は直射日光がぎらつき暑さも厳しいといった、過酷な地なのだ。

 

陽気がよくなってくるにつれ、チャンミンと寝床を共にするのが辛くなってきた。

 

チャンミンの体温は私より高く、熱の塊のようだ。

 

寝苦しく、チャンミンを肘で押しのけて寝返りをうつと、彼はごろんと1回転して私の脇腹にくっついてくる。

(チャンミンは仰向けで眠る習性がある)

 

チャンミンは私に身体の一部を密着していないと、安心して眠れないようなのだ。

 

「チャンミン...暑いよ。

あっち行って」

 

ベッドの真ん中で健やかに眠るチャンミンを起こさないよう、マットレスを動かさないよう、私はベッドの端ぎりぎりまで身体をずらした。

 

夢の世界で何か美味しいものを食べているらしく、チャンミンはくちゃくちゃと口を動かしている。

 

冷えたらいけない、お腹に毛布をかけてやった。

 

まるで人間みたい、と思った。

 

渦を描くへそが、呼吸に合わせて上下している。

 

身体も1か月ごとにひと回りずつ成長してきているから、1年後には私のベッドはチャンミンに占拠されるだろう。

 

チャンミンは寝相も悪い。

 

チャンミンに後ろ脚で蹴飛ばされ、私は寝返りをうってこれを避ける。

 

「ふごっ」と自分のいびきで目覚めたチャンミンは、離れたところにある私の身体ににじり寄る。

 

お尻を密着させて安心したのか、再び夢の世界へ。

 

暑いし、いびきはうるさいし、蹴飛ばされるしで、そっとチャンミンから離れる。

 

チャンミンはくっついてくる。

 

この繰り返しの末、私はベッドの端ぎりぎりまで追いつめられ、何度ベッドから落ちたことか!

 

深夜の静まり返った深夜、「どすん」という音に起こされたユノさんは、夢うつつの中くすり、と笑っていそうだ。

 

「今夜からユノさんがチャンミンと寝てよ。

寝相が悪いんだよ?

いびきも酷いんだよ?」

 

そう訴えたらユノさんは、チャンミンの両脇の下をつかんで抱き上げ、

 

「チャンミン、今夜は俺と寝ようか?」

 

と、自身の形のよい鼻をチャンミンの子豚のような鼻にこすりつけた。

 

チャンミンは「承知しました」と、ユノさんの鼻をべろりと舐めた。

 

これでひとりのびのびと安眠できる...と思いきや、眠れなかった。

 

裏山の木々がざわつく音、目覚まし時計のコチコチ音が耳にうるさい。

 

シーツの上に手を滑らしても、毛むくじゃらで柔らかいものに触れない。

 

寝返りをうっても、ぐにゃりと熱い塊がついてこない。

 

「ミンミン、すまない。チャンミンと寝るのは俺でも無理だった」と、ユノさんがドアをノックするのを待った。

 

ユノさんのベッドだからって、チャンミンはいい子ぶってお行儀よく寝ているんだろう。

 

私の負けだ...ユノさんに預けたャンミンを返してもらおう。

 

身体を起こした時、ガリガリとドアを引っかく音が!

 

私はベッドから飛び降り、ドアを開けた。

 

「チャンミン...!」

 

私のチャンミンがそこにいた。

 

後ろ立ちして、前脚で私の膝を甘噛みした。

 

廊下に髪をボサボサにしたユノさんが立っていて、「ほらね。こうなるだろうって、最初から分かっていたよ」といった風に苦笑していた。

 

チャンミンと向き合わせに横たわった。

 

寝室は夜明け間際の、白い霞みがかった空気で満ちていた。

 

チャンミンと目を合わせた。

 

チャンミンは目を反らさない。

 

初めて迎えた夜明けに、こうやってチャンミンの顔をしみじみと観察したんだった。

 

チャンミンのまばたきのペースが落ちてくる。

 

白い眉毛が脱力して下がってくる。

 

両耳が垂れてくる、鼻が乾いてくる。

 

丸い頭を撫ぜた。

 

不細工な顔に埋め込まれた1対の眼、美しすぎる瞳...冷たい水からすくい上げたばかりの琥珀色の宝石...に、心打ち震えた朝。

 

あれから、4か月。

 

朝日をもっと取り込もうと、カーテンを開けた。

 

分厚い秋冬ものから、春夏の軽やかなカーテンに付け替えよう。

 

今朝はこのまま起床して、ユノさんにお弁当を作ってあげよう。

 

あと10分はチャンミンの寝顔を見つめていよう。

 

来週になったら、チャンミンを散歩に連れていってやろう。

 

 

 

 

出勤するユノさんを見送った後、私はポーチのベンチに腰掛けぼうっとしていた。

 

私はこのままでいいのかな、と考え込んでいた。

 

ユノさんの家に引きこもって学校にも行かず、ここは隣家まで1kmも離れていて人目など気にしなくてもいいのに、目前に広がる空間に飛び込めずにいる。

 

裏手の雑木林なら木々に身を隠していられる安心感も手伝って、現に昨年の夏は毎日のように遊びに行っていた。

 

このまま、ユノさんの家で一生を終えるのかな。

 

ユノさんもいつかは恋人を作るだろうし、私が居たらその恋人は嫌がるだろうな。

 

私は何にこだわっているのかな。

 

足元に視線を落とした。

 

チャンミンは寝転がって、私のスニーカーの紐をしゃぶっていた。

 

「ねえ、チャンミン?」

 

私はチャンミンに声をかけた。

 

チャンミンは私を見上げた。

 

「お前は何を考えているの」

 

チャンミンは眼差しで答える。

 

「あなたと同じことですよ」

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]