(10)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

配達員とのやりとりで怖気付いてしまった私は、チャンミンと散歩に行けるだけの気力が消えてしまった。

 

チャンミンの身体を拭いてやり、「ごめんね」と謝った。

 

チャンミンの上目遣いの眼が、「気にしないでいいですよ。また今度でいいですよ」と言っていた。

 

臨時の配達員のように、若い男の人を見ると足がすくんでしまう。

 

1年前まで、この家には同居人がいた。

 

私がここにやって来る前から住んでいた。

 

同居人はユノさんの寝室で寝起きしていた。

 

二人の関係がどういう類のものなのか、当時11歳の私でも知っていた。

 

私の前では露骨なスキンシップはなかったけれど、その人はユノさんの立ち居振る舞いを常に目で追っていた。

 

その人を見つめるユノさんの表情も優しくて、ちょっとだけ嫉妬してしまった。

 

ここに暮らし始めた当初は、私は二人の世界に割り込んできた邪魔者で、とても居心地が悪かった。

 

部屋に閉じこもっていた私をリビングへ引っ張り出したのはその人で、半年も経つと3人で食卓を囲むのが当たり前の景色となった。

 

ユノさんとその人が私のお父さんとお母さんだったら...と、想像することもあった。

 

その人は懐っこい人で、ユノさんだったら絶対にしないこと...例えば、ラグに座って読書する私に、同じく胡坐をかいていたその人は「ここに座って」と膝を叩いた。

 

「そこまで私は子供じゃないのにな」と戸惑いながら、可愛がってくれるのなら、と素直にその人の膝に乗った。

 

飼い犬のように私の頭を撫ぜまわし、抱き上げるその人に、ユノさんは「ミンミンはペットじゃないんだから」とたしなめていた。

 

その人の視線が実はねっとりと粘着質なものだと察することができなかったのは、私が子供過ぎたからだ。

 

ユノさんは仕事で、その人がユノさんより早く帰宅した日のことだった。

 

5月下旬なのにとても暑い日で、ピッチャーいっぱいに作ったアイスティーをグラスに注ぎ足し飲みながら、食卓テーブルで私は自習をしていた。

 

テーブルの下に寝そべったタミーの尻尾が、私のふくらはぎを時折くすぐっていた。

 

その人は壁掛け時計に目をやり、つられて私も時間を確認した。

 

今すぐ用意を始めないと夕飯の時間に間に合わない、と席を立った時、

 

「分からない所があれば教えてあげるよ」

 

背中いっぱい熱い空気に包まれ、はっと顔をあげた時、その人の顔が真横にあった。

 

その人に覆いかぶされた私は、振り向くことなんて不可能で首を振るのがやっとだった。

 

「っ!」

 

うなじに吹きかけられる吐息は熱く湿っているのに、私は全身鳥肌がたっていた。

 

頭の中は真っ白だった。

 

私の肩から胸、お腹へと這いまわる手を、金縛りにあった私は成すすべもなく目で追うしかできなかった。

 

声を出せない自分が悔しかった。

 

抗議の言葉も、こみ上げる恐怖と怒りの感情も、喉奥で堰き止められていた。

 

その人の手が腰に達した時、限界を越えてしまった私は行動していた。

 

身体が勝手に、脳からの命令無しで動いた。

 

傍らにあったピッチャーをつかんで、その人の頭に打ちおろしていた。

 

取っ手だけになったピッチャーを握りしめ、頭を抱えて床にうずくまるその男を見下ろしていた。

 

 

 

 

あんなに怒ったユノさんを見たのは、あとにも先にも、その時だけだった。

 

顔を真っ赤にさせて怒る人は何度も見たことはあるけれど、怒りで顔色が真っ青になる人を初めて見た。

 

何が起こったのか、私がどんな思いをしたのか説明しなくても全部、ユノさんには伝わっていた。

 

「...でていけ」

 

やっとのことで絞り出したといった、ユノさんの掠れた声だった。

 

ユノさんは男の背中を蹴って、ドアの外へ締め出したかったんだろうに。

 

額を割って出血した人間に、乱暴なことをするわけにはいかず、ユノさんは男を診療所へ連れていくしかなかった。

 

診察室でどんな会話が交わされたのか、怪我の原因を問われてユノさんはなんて答えたのか、私は想像するしかなかった。

 

怪我をさせた私は、警察に捕まるかもしれない。

 

怖かった。

 

夜になって帰宅したユノさんは、私の顔を見るなり抱きしめた。

 

「悪かった...ごめん。

ミンミン、ごめんな」

 

つなぎにあの男の血がついていた。

 

翌日、ユノさんは男の持ち物を全部、箱に詰めて彼の実家へ宅配便で送ってしまった。

 

「本当はね、ぶっ壊して捨ててしまいたい。

さすがにそれは...ね?

もめ事がひとつ増えるだけだ」

 

そう言いながら、ユノさんはベッド―シーツとタオルを庭で燃やしていた。

 

男の匂いが染みついたものが耐えがたかったのだ。

 

ミンミンが望むなら、あいつを徹底的に責め立て償わせるけど、どうする?

 

そう問いかけているユノさんの眼に、私も眼差しで答えた。

 

ユノさんがいっぱい怒ってくれたから気が済んだよ、って。

 

灰色の煙が初夏の空に吸い込まれていった。

 

あれ以来、ユノさんは恋人も作らず、誰かに会いに出かけることも一切なくなった。

 

 

 

 

帰宅したユノさんに届いた荷物を渡した。

 

ユノさんには、何百kmも離れた地にお嫁にいった妹さんがいる。

 

嫁ぎ先は酪農が盛んな地だとかで、妹さんは定期的にハムやバターを送ってくれるのだ。

 

家の前に広がる草原に、夏になるとヒツジが放牧される。

 

緑に白い点々と散らばり、夕方になると群れを作って小屋へと帰っていく。

 

ただ眺めるだけの景色だった。

 

今年からは、チャンミンが駆け回る遊び場になる。

(怖いもの知らずでヒツジに近づいて、蹴られることもありそうだ)

 

「チャンミンとの散歩はどうだった?」とは、ユノさんは尋ねなかった。

 

行けずじまいだったことを分かっている。

 

チャンミンが可愛いからといって、外へ飛び出していけるほど私は素直で無邪気な子供じゃないのだ。

 

仰向けに寝っ転がったチャンミンのお腹をくすぐった。

 

ピンク色のお腹に4色の毛が中心にむかって渦巻いて生えている。

 

渦巻きの中心を指さして、「ここって何?」とユノさんに質問した。

 

「おへそだよ」

 

ユノさんは私の側にしゃがみこんだ。

 

「母親のお腹にいた証拠だ」

 

私はチャンミンのお腹にぴたっと、手の平を当てた。

 

毛が薄く、無防備に柔らかいお腹が、チャンミンの体温を最も感じられる場所だった。

 

私とユノさんにお腹を撫ぜられて、チャンミンは気持ちよさげで、四肢を動かすのを忘れていた。

 

 

(つづく)

 

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(9)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

ユノさんの帰りを待つ間、何かすべきことはないか頭を巡らしていた。

 

食事の用意も未だ早い、ホコリをはたいたラグはポーチの手すりに干してある、雑草も生えていない、今日の勉強のノルマも済んでいる。

 

虫の鳴き声も農園のトラクタのエンジン音もなく、プラムの木にとまった小鳥がさえずる歌だけ。

 

何をすべきで、何がしたいことなのか、私には分かっていた。

 

チャンミンはプラムの木のたもとを、前脚でほじくりかえしている。

 

陽気のよさに冬眠から覚めたトカゲでも見つけたのか、尻尾を千切れんばかりに振っている。

 

チャンミンが掘り返したのは、泥だらけのどんぐりの実だった。

 

家の裏手の雑木林を振り仰いだ。

 

きっと、冬ごもりの食糧にと埋めた場所をリスが忘れてしまったものだ。

 

決心がついた私は、スニーカーから長靴に履き替えた。

 

ぬかるんだ地面でスニーカー(ユノさんが買ってくれたばかり)を汚したくない。

 

裏口の壁に引っかけてあるロープの束に、一瞬迷った。

 

これくらい長いロープなら、自由に歩き回れるし、もっと遠くへ行きたがっても引き戻すことができる。

 

雪どけ水で増水した小川に、チャンミンが落っこちてしまった時にも役に立つ。

 

でも、ユノさんの言葉を思い出して、ロープにかけた手を下ろした。

 

ふと思いついて、家の中にリュックサックを取りに戻った。

 

チャンミンが歩き疲れてしまって、その場でへたりこんでしまったら、抱っこするよりもこのリュックサックに入れて運ぶ方が楽ちんだからだ。

 

スイカ1個分ほど重いんだもの。

 

プラムの木の下に飽きたチャンミンは、ユノさんが薪割りに使う切株の下の採掘にとりかかっていた。

 

後ろ脚をがに股に踏ん張り、両前足を高速回転させている。

 

一心不乱過ぎて、おかしな顔になっている。

 

「チャンミン!」

 

穴掘りに夢中になって、私の存在を忘れていたチャンミンは我にかえった。

 

首をすくめて猫背になり、白い眉(チャンミンを表情豊かにしている)を下げ、バツが悪そうな、恥ずかしそうに、「すんません。世紀の発見をしたもので」と言い訳しているみたいな表情をしている。

 

泥だらけの鼻づらと前脚で飛びつくんだから、ズボンの膝が汚れてしまった。

 

前庭の方から、自動車が停車する音が聞えた。

 

不意打ちに背中をどんと、叩かれたかのように私の心臓は跳ねた。

 

「チャンミン!」

 

チャンミンを呼び止めたけれど、遅かった。

 

何事かと前庭へと駆けて行ってしまったのだ。

 

私一人ならじっと、来訪者が家を離れるまでじっと身を潜めていたのに。

 

お客に噛みついて怪我をさせたり、去る自働車を追いかけて行ってしまったらいけない。

 

恐怖感よりもチャンミンが心配な気持ちが勝り、彼を追った。

 

宅配便のワゴン車が玄関前に停車していた。

 

助かった、と思ったのもつかの間、玄関のドアを叩いていたのは、いつもの配達員のおじさんじゃないことに、逃げだしたい気持ちが膨らんでいく。

 

私に気付くと、その若い配達員は「お届け物です」と胸ポケットにさしたペンを差し出した。

 

「ここにサインを」

 

私はペンを受け取り、指定の欄にユノさんの名前を記した。

 

配達員は本来なら学校に行っている曜日と時間に、子供が家にいることに、疑問を持ったようだ。

 

「ずる休み?」

 

激しく首を振ったけど、配達員の言い方に咎めるつもりはなさそうだったため、私はこくり、と頷いた。

 

「あれは...犬?」

 

配達員はポーチの下を指さした。

 

今度も首を横に振ったけれど、説明をしなければならないことにハッとして、こくんと頷いた。

 

犬じゃなければ、何?

 

その答えを私は用意できていない。

 

チャンミンはポーチの下にもぐり込んで、薪の陰から片目と鼻先を出していた。

 

好奇心は隠し切れず、肌色の鼻はひくひくうごめき、眼は光っていた。

 

チャンミンは名もなき種類の生き物なのだ。

 

チャンミンが身を隠してくれて助かった。

 

犬にしては大きな鼻と、大きな眼、大きな耳を持っている。

 

「雑種かな?」

 

頷くか首を振るだけの私を、内気な子供だと思ったのだろう。

 

愛想よく話しかけても黙ったままの私に、配達員は「仕方がないな」といった風に苦笑した。

 

配達員は小包を私に渡すと、次なる配達場所へとワゴンに乗り込み去っていった。

 

私はワゴンが完全に見えなくなるまで見届けたのち、安堵のため息をついた。

 

「チャンミン、おいで」

 

もう安心だよ、と手招きした。

 

チャンミンは弾丸のように私の胸に飛び込んできた。

 

私のセーターは泥だらけになってしまった。

 

 

 

 

チャンミンには私の声が届く。

 

もちろん、ユノさんにも。

 

それから、耳が遠くなっているタミーにも。

 

小鳥のさえずりに耳をすませながら、私は喉に触れた。

 

私の喉の奥で堰き止められた無音の声を聴きとろうと、チャンミンは大きな耳をそばたてている。

 

どうしよう、私の心の声も聴こえていたら!

 

大丈夫だ。

 

チャンミンは私の一部のようなものだから。

 

目に入れても痛くない、とはこんな感じなんだろうな。

 

もし私が悪いこともしたとしたら、チャンミンはそのまま真似をするだろう。

 

チャンミンにとって、私がすることはなんでも「YES」なのだ。

 

「チャンミン」と呼ぶと、チャンミンの尖った耳先がぴくぴくと動いた。

 

 

(つづく)

 

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(8)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

高原にかぶせられていた純白の分厚い布団が、日に日にかさを減らしていった。

 

日の出の時間も早まってきた。

 

天高く澄んだ空の青も、日増しに色濃くなってきた。

 

溶け残った雪の白と、芽吹き前の茶色い地面がまだらになって、家の前一帯に広がっている。

 

昨年の私だったら、冬の名残と春の訪れの端境の景色を美しいものだと捉えられず、冬の終わりを寂しく、残念に思っていた。

 

「チャンミンみたい...」と、つぶやいた。

 

チャンミンの毛皮は、白と黒と茶色と黄金色がパズルのように組み合わさっている。

 

その模様は、ヒョウ柄ともホルスタイン柄とも言える。

 

ポーチのベンチで日光浴をしていた私は、前庭で用を足すチャンミンを見守っていた。

 

風はひんやりしているけれど、じっとしていると日光に温められて、ぽかぽかと暖かい。

 

冬物の防寒コートはもう不要だ。

 

「おいで」

 

チャンミンは階段を1段1段をよじ登ってくる。

 

すっかり重くなったチャンミンを、膝の上に乗せた。

 

両まぶたの上に、眉毛のように白い斑点がひとつずつある。

 

この丸い眉毛が、チャンミンの顔を滑稽に、でも愛らしく見せているのだ。

 

目の前に広大な地が広がっているのに、チャンミンの行動範囲は家と前庭の10メートルの往復だけ。

 

知らない地へ足を踏み出すことを恐れているのもあるだろうけれど、チャンミンは私に気を遣っているのだと思う。

 

私はチャンミンを抱いてポーチから下りると、彼を地面に下ろした。

 

チャンミンはとことこと、前庭と道路の境ぎりぎりまで歩いてゆき、腰を落とした。

 

つんと、顎を持ち上げ、そよぐ風を鼻に受けている。

 

チャンミンの隣にしゃがみ込んだ。

 

風がどれだけ吹こうが、チャンミンの鼻は常に濡れている。

(絶対に乾かしてはならぬと、鼻の細胞はせっせと水分を送り出しているのだろう)

 

明るい茶色の眼はつむったまぶたで隠れてしまっている。

 

眠ってしまったわけじゃないのだ。

 

肌色の鼻はうごめいたままだ。

 

チャンミンはこんなに大きな頭をしているんだもの、目を閉じて一か月後の草原を想像しているのだ。

 

それから、普段折り畳まれている目蓋のしわの一本一本に、日の光を浴びようとしているのだ。

 

私は隣のチャンミンを飽くことなく、見つめ続けた。

 

「生きているとはなんと素晴らしきことかな」

 

チャンミンは心の中で、そうつぶやいているのだろう。

 

草原をはるばる吹き渡ってきた風に、長いまつ毛が揺れていた。

 

「あっちに行ってみたい?」

 

チャンミンに尋ねてみた。

 

目を開けたチャンミンは私を見上げた。

 

もう少し暖かくなったら...雪どけ水でぬかるんだ地面が乾き、草花で覆われるようになったら...。

 

外の景色の中で見るチャンミンは、ちっぽけだった。

 

私の足の甲に、チャンミンの小さな足が乗った。

 

「行ってみたい」の返事の代わりだと思う。

 

 

私は家の周りを点検するようにぐるりと歩き回っていた。

 

チャンミンはちょこちょこと私の後を追ってくる。

 

雪の重みで枯れ草や落ち葉が地面にぺったりと張り付いていて、チャンミンはそこへ鼻づらを突っ込んで匂いを嗅いでいる。

 

建物の角の向こうに私の姿が消えてしまったことに気付くと、大慌てで、この世の終わりかのような半べそかいた顔で追いかけてくる。

 

ユノさんは動物園の仕事が休みで、冬の間に傷んでしまった雨どいの修理のためハシゴに乗っていた。

 

「新しいものと交換しないと駄目みたいだ」

 

歪んだ雨どいを手にハシゴから下りてきたユノさんは、「叩いても真っすぐにするのは難しそうだ」と苦笑した。

 

築70年、あちこちにガタがきてもおかしくない建物は、こまめな修繕を必要としていた。

 

ユノさんがこの家を相続した時は、とても人が住めないほどに荒れていたそうだ。

 

施設にしかいく道のなかった私はユノさんに引き取られ、古いけれど住み心地のよいこの家に暮らし始めて約2年になる。

 

ここから50km離れた地で私と両親は問題を起こし、この地では2年前と去年と2度も問題を起こしていた。

 

ここから5km離れた街では当然、私が起こした出来事を知っている者たちがいる。

 

私には真実を主張できっこないと知っている彼らは、冷笑を浴びせるに決まっている。

 

私がずっと家に閉じこもっている理由のひとつが、それだ。

 

「街に買いに行ってこないと...ミンミンも一緒に来るか?」

 

「ううん」

 

私はいつものように断って、車に乗り込んだユノさんに頭を差し出した。

 

いつものようにユノさんに頭を撫ぜてもらう。

 

「ユノさん。

チャンミンを散歩に連れていこうと思うんだけど。

紐に繋いでいった方がいいかな?」

 

「紐?」

 

「うん。

チャンミン、どこかへ行っちゃうかもしれない。

山や野原で暮らしたいって」

 

ユノさんは窓から 私の足元を親指で指した。

 

「...どうだろう。

どこへも行かない、と俺は思っている」

 

「どこへも行かないって、どうしてわかるの?」

 

「野生に還りたくても、チャンミンは野生動物なのかどうかわからない。

なんせ図鑑に載っていない唯一の生き物だ。

彼にとって世界のすべてが、この家なんじゃないかな?」

 

「世界が広がったら...」

 

新境地を求めて旅に出たくなるかもしれない...と、心の中でつぶやいた。

 

「チャンミンはまだまだ赤ちゃんだから、そんな心配はもっと後のことだよ」

 

ユノさんはもう一度私の頭を撫ぜると、車を出した。

 

チャンミンはユノさんの車を追って駆けだしたが、前庭と道の境界線でぴたりと足を止めた。

 

チャンミンの世界を広げてあげようと思った。

 

遠くまで行ってしまいたいのかどうかは、チャンミンの判断に任せようと思った。

 

 

(つづく)

 

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(7)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

ポーチに置いたベンチに座って、空と雪原の境界線を眺めていた。

 

視界の上下が青と白に、ちょうど2分の1に分かれている。

 

晴天の日が続いていた。

 

1メートル以上積もっていた雪のかさも、目に見えて少なくなってきた。

 

私の視力はきっと、もの凄くいいはずだ。

 

遮るもののない開けた風景を、毎日見続けているから。

 

毛布にくるまったチャンミンも私を真似て、空と雪原の境界線に鼻先を向けている。

 

景色に魅入っているフリはしていない。

 

無数の毛細血管と神経が張り巡らされたチャンミンの耳は、高性能のアンテナだ。

 

雪原の右端に杉林があり、チャンミンの耳はそちらを向いている。

 

私の耳ではキャッチできない音...雪下の巣穴を出入りするネズミの足音、日光に温められた雪粒が溶け崩れる音。

 

...もっと哲学的な音...遠い遠い彼の地の音を聞いているのかもしれない。

 

 

 

一か月前のことだ。

 

ユノさんが古着屋で幼児用のTシャツを買ってきてくれた。

 

短毛のチャンミンが寒いだろうからと、私が頼んだのだ。

 

3歳児サイズのそれは、小さなチャンミンには少し大き過ぎたため、余った生地を腰のあたりで縛ってやった。

 

これで温かく過ごせると満足した私は、いつもより豪勢な夕食の準備にとりかかった。

 

ケーキは昼間のうちに焼いておいた。

 

その日はユノさんの23歳の誕生日だったのだ。

 

動物園の仕事が忙しくて、帰宅時間が遅い日が続いていた。

 

疲れが溜まっていたユノさんは、ラグの上にタミーと寄り添って昼寝をしていた。

 

私の足首を舐めたり引っかいたり、うっかり蹴飛ばされても足元にいるはずのチャンミンがいなかった。

 

じゅうじゅういう炒め物の音で気付かなかった。

 

台所はリビングの一角にある。

 

振り向いた私は、その光景に「チャンミン!」と大きな声が出てしまった。

 

私の声に目を覚ましたユノさんは、何事かと起き上がった。

 

さっきまでまとっていた赤いTシャツから、チャンミンの胴が消えていた。

 

Tシャツはチャンミンの胴回りの空洞を保ったまま自立していた...まるでチャンミンがTシャツの中から外へとワープしたかのように。

 

チャンミンはラグに背中をこすりつけて、ジタバタしていた。

 

短い前脚でどうやって脱いだのか、大きな頭をどうやって襟元から抜いたのか、首をかしげたのだった。

 

 

その一か月後の今日、懲りない私はもう一度チャンミンに服を着せてみた。

 

ユノさんのベッドのシーツを洗濯機に入れて、リビングに戻った時、私は「チャンミン!」と叫んでしまった。

 

Tシャツの残骸が散らばっていた。

 

生地が毛先に触れて、毛皮の下の敏感な皮膚を不快に刺激したのだろう。

 

チャンミンの小さな顎に、尖った犬歯が生え始めていた。

 

毎日見ているとその変化に気付きにくいが、チャンミンは日々、じわりと成長している。

 

私の小指の爪よりもずっと小さな歯で、どうやってビリビリに切り裂けるのか首をかしげてしまった。

 

チャンミンに服を着せるのは諦めた。

 

寒かったら私の腕に飛び込んでくればいいし、こうして毛布でくるんでやればいい。

 

 

ユノさんの誕生日の話に戻ろう。

 

いつもより豪勢な夕飯のあと、バースデーケーキを...ふわふわに泡立てた生クリームを、これでもかと塗った...切り分けた。

 

タミーのお皿にも、「特別だよ」とひと切れのせた。

(ペロッと一口で飲み込んでしまった)

 

「チャンミンは...まだ早いかな?」

 

その頃のチャンミンは、ミルクに浸してふやかしたパンを食べられるようになっていた。

 

「そうだね。

チャンミンが肉食なのか草食なのか分からないね。

試しに野菜をあげてごらん」

 

人参グラッセをフォークでつぶしたものを、チャンミンのお皿にのせてみた。

 

チャンミンは頭を屈めて、ふんふんと肌色の鼻で匂いを嗅ぐ。

 

ふごふごと鼻を鳴らしている。

 

重い頭を支えようと、後ろ脚は踏ん張っている。

 

赤い舌でちろちろと舐めてみた直後、お皿の上のものが一瞬で消えた。

 

次に崩した肉団子をお皿にのせた。

 

これも一瞬で消えた。

 

私とユノさんは顔を見合わせた。

 

ユノさんなんて、切れ長の目をさらに細めて愛おし気にチャンミンを見ていた。

 

ケーキをひと切れ、うやうやしくチャンミンのお皿にのせた。

 

どうせ味わいもせず、ぱくっとひと口で食べてしまうと思った。

 

ところが、クリームをひと舐めひと舐め、いっぺんに無くなってしまうのを惜しむようだった。

 

特別なケーキ...ユノさんのバースデーケーキだって知ってるんだ。

 

チャンミンが可愛らしくて、私の分も分けてやろうとしたら、

 

「明日、トイレの始末に困るのは君だよ」と、ユノさんは言った。

 

チャンミンは物欲しげに、私たちの顔を交互に見上げていた。

 

 

チャンミンの丸い後頭部をスローテンポで撫ぜていた。

 

悪戯心が湧いてきて、チャンミンのぬらぬらした鼻をくすぐった。

 

大きな鼻がもぞり、と歪んだ。

 

「ぶちゅん」と、くしゃみをした。

 

そして、濡れた鼻を舌でひと舐めした。

 

辺りはあまりにも眩しくて、私は眼を細めていた。

 

チャンミンを覗き込むと、彼の上まぶたは下まぶたにくっつきそうだった。

 

密に生えた白いまつ毛が、日光を浴びて透明に透けていた。

 

眠りにつく瞬間を、今日も見ることができた。

 

私も安心して目をつむる。

 

チャンミンを毛布でくるみなおした。

 

 

(つづく)

 

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(6)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンは私の後をどこまでも付いてくる。

 

まるでカルガモの雛のようだった。

 

それが本能からくる刷り込みなのか、私を慕っているのかはチャンミンに尋ねてみないと分からない。

 

さほど広くない家なのに、トイレにも寝室にもチャンミンは付いて回る。

 

私は短足のチャンミンの歩みに合わせる、ちゃんと付いてきているか、何度も振り返る。

 

4本の脚を動かすことに必死で、大きな耳が重たげにチャンミンは頭を落とし、足元しか見ていない。

 

時折頭を持ち上げ、私のかかととふくらはぎが視界にあるか確認している。

 

意地悪をしたい欲求を抑えるのがやっとだった。

 

ドアの陰に隠れた私...前方にあるはずの私の足が忽然と消えて、パニックになるチャンミンを見たくて仕方がなくなる...けれども、そんなことはできっこなかった。

 

チャンミンのママは私なのだ。

 

 

チャンミンの1日は、私の足を執念深く追いかけているか、ミルクを飲んでいるか、眠っているかのいずれだ。

 

タミーのお腹を枕に、チャンミンは仰向けに寝ている。

 

チャンミンという生き物は、お腹を上にして眠る習性があるのだろう。

 

鍋いっぱいのミルクを飲んで、チャンミンの下腹はこんもり膨れている。

 

後ろ脚は大股広げで、胸の上で曲げた前脚は行儀よく揃えている。

 

私はチャンミンの隣に横たわり、間近から彼を観察した。

 

常に濡れている鼻は乾いていた。

 

大きな耳は、頭の両脇に垂れている。

 

すーすーと寝息をたてて、後ろ脚が稀にぴくぴくっと痙攣しているのは、夢を見ているだろうな。

 

見れば見るほど不格好な姿だけど、私の目にはたまらなく可愛らしく映っている。

 

私とチャンミンは似た者同士。

 

私も醜い見た目をしているからだ。

 

ここに暮らすようになってすぐ、ユノさんは洗面所の鏡を取り外してしまった。

 

タイル張りの壁には、鏡を吊り下げていたフックだけが残されている。

 

だから、出勤前にひげを剃る習慣にしているユノさんは苦労していて、剃り残しがないかチェックをするのが私の役目になっている。

 

ラグに横たわっていた身体を起こした。

 

雪降りの日が一週間続いている。

 

グレーの雪雲に空は覆われて、昼間なのに家の中は薄暗かった。

 

私とチャンミン、タミーは雪に閉じ込められている。

 

早朝、ユノさんが雪をかいて作ってくれた小径が隠されてしまった。

 

そろそろチャンミンのトイレの時間だ、ポーチの雪をかいておいてやろう。

 

チャンミンの後ろ脚がパタパタっと宙を蹴った。

 

夢の世界のチャンミンの脚は小鹿のように長く、雪野原を跳ぶように駆けているのかもしれない。

 

オーバーを着た私はチャンミンを見下ろして、当分目を覚ましそうにない様子に安心して、外へ出た。

 

 

リビングと台所、寝室が二つ、浴室があるだけの、三角屋根の小さな家。

 

深緑に塗られたペンキはところどころ剥がれている。

 

東向きの玄関の前にはポーチがあって、そこの階段から前庭に下りられる。

 

一面草原...冬の間は雪に覆われている...が広がっていて、斜め前にプラムの木が植わっている。

 

ゆるやかな蛇行を描いた道が...私たちの家に用事がある者しか通らない...雪原の彼方まで続いている。

 

今朝、ユノさんのトラックが付けた轍は当然、消えてしまっている。

 

スコップでポーチの上を、次に階段を、最後に階段から道路までに小径を作った。

 

「ふぅ...」

 

作業を終えた頃には、息があがり、マフラーを巻いた首に汗をかいていた。

 

これで帰宅したユノさんは困らないだろう。

 

「あ...」

 

雪原と道路が視界から途切れる一点からこちらに向けて、自動車が近づいてくるのに気づいた。

 

私はスコップを放りだして、家の中に駆け込んだ。

 

靴を脱いだ途端、靴下が生温かいものを踏んだ。

 

チャンミンの粗相の後だった。

 

最近のチャンミンは、何をすると私の機嫌が悪くなるのか分かるようになっていた。

 

チャンミンは、というと...テーブルの脚の陰に、首をすくめて伏せの姿勢でいた。

 

上目遣いに私を見上げている。

 

すんません、ママがいなかったもので、我慢できなかったもので...といった風に。

 

私の叱責を覚悟した表情だった。

 

目覚めのおしっこがしたくなったチャンミンは、ドアをカリカリ引っかいたのに、外にいた私は気づかなかった。

 

それ以前に、私の姿が視界にいなくて、パニックになってお漏らしをしてしまったのかもしれない。

 

「怒ってないよ」

 

テーブルの前でひざまついて両手を広げると、チャンミンはよちよちと走り寄ってきた。

 

私はチャンミンを抱き上げて、頭を撫ぜた。

 

自働車が停車する音が聞えた。

 

郵便配達員がポーチの階段を上る音が聞えた。

 

ポストの蓋を開ける蝶番がきしむ音まで聞えた。

 

雪降る日は、どんな微かな音も大きく響き聞える。

 

私はチャンミンを抱き締めたまま、じっとしていた。

 

 

 

 

「明日、街へ行く予定なんだ。

ミンミンも一緒に行くか?」

 

「留守番してる」

 

「買ってきて欲しいものはある?」

 

「ううん。

図書館に寄って欲しいな」

 

ユノさんに本のリストを書いたメモ用紙を渡した。

 

「家の中に閉じこもっていないで、もっと外出しなさい」なんて、一言も言ったことはない。

 

それでも毎回、「一緒に行く?」と尋ねてくれる。

 

何千回も誘ったら、いつか「一緒に行く」と私が答える日を待っている。

 

「そうだ!

首輪!

首輪があったら買ってきて」

 

ユノさんは、咎めと優しさの交じり合った眼で私を見た。

 

「チャンミンに首輪をしたいと思ってる?」

 

虚をつかれた私は、数秒間考えてから、

 

「ううん」

 

首を振った。

 

 

(つづく)

 

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