(16)19歳-初恋-

 

 

まどろみながら、枕元の置時計を睨みつけていた。

 

コチコチと秒針が刻む音がうるさい。

 

チャンミンはきっと、意地悪な女中頭Kに呼び出されて、押しつけられた面倒な仕事を片付けて、そのまま自室に戻ってしまったんだろう。

 

チャンミン特製のココアを待っていたのになぁ。

 

俺はベッドを抜け出した。

 

起き上がった時、ふらついてしまったけど、苦くてまずいだけの薬草茶が効いたのか、心なしか身体が軽い。

 

パジャマを脱ぎ洋服に着替えた俺は、部屋のドアを開け廊下を様子を窺う。

 

「あ!」

 

部屋を出がけにベッドに引き返し、掛け布団の中にクッションを詰めた。

 

それから俺は、控えめに灯りを灯されただけの薄暗くて長い廊下を小走りで進んだ。

 

 

 

 

俺には果たさなければならないことがあった。

 

叔父さんが俺を見る目は、『甥』に向ける類のものじゃないことは、15歳の俺でも分かる。

 

10歳頃から繰り返し俺に目撃させた男同士の絡みの光景...そこで見せた目付きと同じなのだ。

 

男同士...叔父さんがいつまでも結婚する気がないのは、そのせいなんだろうか。

 

今夜の呼び出しは、今までのものとは違う気がした。

 

『目撃』させるだけじゃない、仲間入りさせるつもりだ。

 

叔父さんの下敷きになって、とろんと緩みきった表情を見せた数々の男たちのようになってしまうんだ。

 

ここで怖気付くわけにはいかないのだ。

 

緊張と恐怖の汗なのか、発熱による汗なのか、シャツの脇が濡れている。

 

今日、俺とチャンミンは心を通じ合わせた。

 

俺とチャンミンの間には、LOVEの心が通い合っているんだ。

 

チャンミンがアンドロイドだろうが、俺には関係ない。

 

学校を卒業したら、チャンミンを連れてこの屋敷を出てやるんだ。

 

それまでの間、俺はチャンミンを守ってあげないと!

 

これまでのチャンミンにとっての危険とは、使用人たちや従兄弟たちにいじめられたり、アンドロイドという身分の危うさだった。

 

色気を知った俺は、これら以外にも危険があることに気付いたんだ。

 

俺の子守りでお兄ちゃんで、友だちで、それから...悲しいことに使用人だったチャンミンを、『そういう目』で見るようになってしまった。

 

だから、叔父さんの眼に宿る性的な炎に気付いたんだ。

 

目の前に迫っている、叔父さんという危険。

 

俺が断れば、次はチャンミンが狙われる。

 

その危険から、チャンミンを遠ざけないといけない。

 

「!!」

 

妙な不安感に襲われた。

 

叔父さんの部屋がある階へ上りかけた俺は、向きを変えて階下へのステップに足を下ろした。

 

階段を駆け下り、使用人たちの居住階の廊下を走った。

 

本来ならここに居るべきじゃない俺に、寝間着姿の調理見習いが慌てて頭を下げた。

 

チャンミンの部屋のドアをノックし、返事も待たずにドアを開ける。

 

...やっぱり。

 

室内は真っ暗で、鉄製のベッド(身体の大きなチャンミンには小さすぎる)はベッドメーキングされたままだった。

 

...チャンミンの嘘つき。

 

 

 

 

あの内線電話からどれくらい経っていたっけ?

 

チャンミン相手に叔父さんが何をしたいのか...俺は事細かに想像できてしまうのだ。

 

叔父さんはチャンミンにいやらしいことをするつもりなんだ。

 

もちろん、俺相手にも。

 

「子供を相手にする趣味はないから」と、叔父さんは俺が十分育つのを待っていたのだ。

 

うちの家族は変な奴ばかりだ。

 

嫌な思いをした日は、チャンミンの胸に飛び込んでこらえていた涙を解放させ、背中をさすってもらってきた。

 

この屋敷では俺が一番のチビ助で、両親の庇護の元にいる身。

 

ぐっと耐えて我慢するものだと、これまでそうしてきた。

 

早く大人になって屋敷を出たいとじりじりと待つばかりで、せいぜい使用人たちに横柄に用事を言いつける程度。

 

嫌だ嫌だと内心で文句を垂れているばかりじゃ、駄目なんだ。

 

叔父さんのいる階まで、2段飛ばしで階段を駆け上がった。

 

室内履きが邪魔で、途中で脱ぎ捨てた。

 

肩に羽織ったガウンも邪魔で、脱ぎ捨てた。

 

廊下にまで書籍や家具が溢れていて、その頑丈そうな両開きの扉は固く閉じていた。

 

隙間から照明が漏れている。

 

チャンミンをいやらしい指から逃すために、盾になろうと考えていた。

 

でも、無人のチャンミンのベッドを目にして、気が変わった。

 

俺が屋敷に居る間は誤魔化せても、夏休みが終わった後は?

 

きっぱりと意思表示をした結果...一番の下っ端が盾つくようなことをした俺への罰は凄まじいものになるだろう。

 

ここを追い出されかねないことをしでかす勢いでいこう。

 

願ったりかなったりだ。

 

ごくんと唾を飲み込んだ。

 

心臓が破裂しそうに素早く打っている。

 

ドアノブを捻ってみたところ案の定開かない、鍵がかかっている。

 

そんなことだろうと予想していたから、俺は扉を拳で叩く。

 

「叔父さん、叔父さん!

ユノです!

ユノ、です!」

 

中からは応答はないし、扉は開かない。

 

「叔父さーん!

お待ちかねのユノですよ!」

 

靴を履いてこればよかったと後悔しながら、裸足のかかとで扉を蹴る。

 

大音量でレコードを回しているようで、廊下までその音が漏れている。

 

ちょっとやそっとのノック音じゃ、気付かないんだ。

 

「ユノです!

約束通り来ましたよ!」

 

怒鳴って、扉に手の平を叩きつけた。

 

手を休めてしまったのは、室内からどすんと何かがぶつかるような鈍い音がしたからだ。

 

ちらっと漏れ聞こえたような声は...チャンミンのものか?

 

俺の中で焦りが爆発した。

 

「叔父さん!」

 

廊下に積んであった椅子のひとつをつかんで、扉に叩きつける。

 

砕けた木っ端が俺の頬に当たる。

 

「開けろ!」

 

わめいて、めちゃくちゃに椅子を振り回した。

 

俺が暴れる音に、使用人がひとり、またひとりと様子を窺いに来たようだった。

 

俺は首を振って見せて、彼らを遠ざけた。

 

と、扉が不意に開き、驚いた俺は後ろに飛びずさった。

 

顔を出した人物を、俺はきっと睨みつけた。

 

室内は、夜の音楽鑑賞には相応しくない音量で音楽が流れている。

 

俺は振りかざした椅子を、ゆっくりと下ろした。

 

「...ユノ」

 

裸の胸にガウンだけを羽織っただけの叔父さんだった。

 

「えらい剣幕で...」

 

叔父さんは俺の片手にぶらさがる椅子...無残な姿になっている...をちらりと見た。

 

俺は肩で息をしながら、怒りを隠すつもりはなかった。

 

「俺を呼んだでしょう?

来ましたよ」

 

「あまりに遅いから、来ないかと思ったよ」

 

醜態をさらした俺に、叔父さんは怒りもせず、呆れたような言い方をした。

 

室内の灯りで逆光になっていて、叔父さんの表情は分からない。

 

叔父さんの肩ごしに室内を覗き込もうとしたら、中に入るよう脇にどいた。

 

「ご覧の通り、引っ越しの荷物に埋もれてしまっていてね。

ユノに手伝ってもらいたかったんだが...」

 

俺の肩を抱こうとした叔父さんの腕を払いのけ、脇をすり抜けた。

 

叔父さんの部屋は3間続きで、入り口を入ってすぐが居間となっている。

 

「ひどい有様だろう。

永遠に片付かないんじゃないかって、絶望してたところ。

さっきなんて、棚の下敷きになるところだった」

 

叔父さんが視線で指す先には、確かにキャビネットが横倒しになっていた。

 

「...チャンミンは?」

 

左手が書斎で、煌々と電灯ついたそこはうずたかく書籍が積まれていて、足の踏み場もない。

 

右手が寝室で、そこの扉は閉ざされている。

 

「...チャンミンって...アンドロイドの?」

 

「そうですよ!

チャンミンは?

来てるでしょ?」

 

叔父さん相手に失礼過ぎる言葉遣いだった。

 

「厨房に行ってるよ」

 

「どうして?」

 

やっぱりチャンミンは、叔父さんに呼び出されたんだ。

 

うるさく音をがなり立てるレコードプレイヤーのスイッチを切った。

 

今度は、開け放った窓から虫の鳴き声がうるさい。

 

「喉が渇いてしまって..」と、叔父さんは寝室のドアを開けた。

 

不信感を持っている俺を安心させようとしているのか、からかっているのか。

 

寝室は暗闇につつまれており、ベッド周辺には衣類の山が出来ている。

 

居間からの明かりだけが頼りだけど、寝室は無人のようだった。

 

「お茶を持ってくるよう、チャンミンに頼んだんだ」

 

「...どうしてチャンミンに頼んだんですか?」

 

「どうしてって...彼の仕事じゃないか」

 

「...っ」

 

お茶くらい女中を呼べばいいことなのに...と思ったが、チャンミンは雑役夫。

 

この屋敷では何でも屋なのだから、叔父さんは別段おかしなことを言っているわけじゃない。

 

チャンミンは何をされるか知らずに、のこのこと叔父さんの部屋を訪ねたんだろうか。

 

そうだろうな。

 

チャンミンにとっての世界はこの屋敷と、読書から得られる知識が全てだ。

 

人間が抱くような欲には疎いだろうし、経験もあるはずがない。

 

...そうでもないか。

 

俺とキスがしたかった、とチャンミンは言っていた。

 

つまり、好きな人に触れたい、キスをしたい、抱き合いたい...そういう気持ちをチャンミンは抱けるということ。

 

だから、何の警戒もせずに叔父さんの元に向かったわけじゃないはずだ。

 

長いまつ毛にびっしりと縁どられたあの大きな眼と、ぴんと立った両耳は、どんな些細なことも見逃さず、聞き漏らさない。

 

暮らす世界が狭ければ狭いほど、出会う人間の数が少なければ少ないほど、変化に敏感になってしまうのだ。

 

特に、命令を受けて動く身分であるから、習い性として表情や声音に神経を払う。

 

数年前からは、叔父さんの部屋から戻って来た俺をなだめる役も加わった。

 

俺がたびたび叔父さんの部屋に呼ばれて、そこで何をしてきたのかには一切触れない。

 

複雑な感情を抱えて抱きつく俺の背中を、とんとんとさすってくれた。

 

なんとなくは知っていたのかもしれない。

 

じっと待っているだけじゃなく、心配で叔父さんの部屋の前まで来ていたのかもしれない。

 

 

(つづく)

 

 

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(15)19歳-初恋-

 

 

チャンミンは、ジュースを買ったあの店で電話を借り、屋敷から車を呼んだ。

 

屋敷に着くなり俺は、無様にもベッドに伏せってしまった。

 

枕元にひざまずいたチャンミンは、難しい顔をして、俺の口から抜き取った体温計を睨みつけていた。

 

「ユ~ノ!

辛いのに我慢してますね!

お医者さんを呼ばなくて、ホントにいいんですか?」

 

「医者は...嫌だ」

 

「注射が嫌なだけでしょう?」

 

「......」

 

チャンミンは「ユノは怖がりさんなんですね」と呆れ顔を作り、

 

「身体を冷やしたせいですね。

あったかくしてよく眠るんですよ」

 

と、ベッドの中に湯たんぽを3つも押し込み、苦くて不味いだけの薬草茶を飲ませる。

 

立ち上がったチャンミンのシャツの裾を引っ張った。

 

「チャンミンが作ったココアが欲しい」

 

チャンミンのココアは、濃くて甘くて美味しいのだ。

 

「...甘えんぼさんですね。

分かりました。

薬草茶を全部飲んだら、作ってきてあげます」

 

「ちえっ」

 

顔をしかめながら最後の一滴までお茶を飲み干すのを、チャンミンは怖い顔をして見張っている。

 

空になったカップに、チャンミンは満足そうに頷いている。

 

ココアを作りに立ち去ろうとしたチャンミンのシャツを、俺は引っ張った。

 

「まだ欲しいものがあるのですか?」

 

いつまでもシャツを離さない俺に根負けして、チャンミンはベッド脇まで引き寄せた椅子に腰を下ろした。

 

「どうして欲しいんですか?

僕にできることなら、何でもしてあげますよ」

 

俺の手を両手で包み込んだ。

 

チャンミンのさらりと乾いた手の平が、熱のある俺にはひんやりと心地よい。

 

手の平を通して、チャンミンの優しい心が伝わってくるようだった。

 

「眠くなるまで、何かお話をして」

 

「どんなお話がいいですか?」

 

「...たまに検診を受けてるって言ってたよね?

どういうことをしてるの?」

 

チャンミンの手が、わずかに震えた気がした。

 

「僕の心臓が正常に動いているか、とか。

予防接種を受けたり...ユノが学校で受けているものと同じです」

 

「心臓?

チャンミンにも、心臓があるの?」

 

俺はチャンミンの整った顔を、真っ直ぐ見上げていた。

 

チャンミンはふっと笑い、「ありますよ」と言った。

 

「ドキドキしてるでしょう?」

 

 

「僕が泣いたり、汗をかいたり、それから...おしっこをするのも...あ、ずいぶん前に、ユノに見られましたよね、あの時は恥ずかしかったです。

つまりですね、僕の身体にも血液が流れている証拠ですよ」

 

「...そんな...人間みたいじゃないか」

 

「そう見えても当然です。

でもね...僕はあそこで造られたのです。

お母さんのお腹で育って、生まれたわけじゃないのです」

 

そうなのか...やっぱりチャンミンは、俺と違うんだ。

 

俺の曇らせた表情に気付いて、チャンミンは俺の背をあやすように、とんとんと叩いた。

 

「じゃあ、あの子供たちは?

ジュースを買った時、お店の前にいた子供は?

子供ってことは、成長するってこと?」

 

俺のイメージでは、1人分の大人サイズのパーツを組み立てると、アンドロイドが1人完成する。

 

チャンミンはしばし考え込んでいた後、俺の質問に答えた。

 

「あの子たちがアンドロイドというのはあり得ません。

たまたま、見た目が綺麗なだけだったのでしょう。

子供のアンドロイドは存在しません。

アンドロイドは成長しないのですから、もし子供のアンドロイドがいたら、ずっと子供のままなんですよ?

亡くした子供の身代わりに取り寄せたアンドロイドが、10年経っても子供のまま。

さすがに所有者も気味悪がります。

用無しになって手放した後、子供の精神と肉体しか備えていないアンドロイドの使い道は少ないのです。

こういった理由です。

技術的に難しいこともありますがね」

 

「...そっか。

ところでチャンミンって、いくつなの?」

 

「僕は年をとりませんが、強いて言うなら、8歳です」

 

「ええっ!?」

 

「冗談です。

ユノの7歳のお誕生日からカウントすれば、僕は8年間ユノの側にいました。

だから、8歳って答えてみました」

 

「そっか...」

 

チャンミンには子供時代が存在しないし、彼は永遠に今の姿のままだということだ。

 

確かに、チャンミンの肌にはシワもシミもなく、出逢った時の記憶のままの姿形をしている。

 

ということは、俺が年をとっておじいさんになっても、隣にいるチャンミンは青年のままでいるということか。

 

チャンミンが先に逝くことはない...この考えは俺を安心させた。

 

チャンミンには聞きたいことがいっぱいあった。

 

LOVEとLIKEが重なった今、チャンミン自身について知りたいことで、俺の中は溢れそうだった。

 

「あの工場には、チャンミンと同じ見た目のアンドロイドは、何人もいるの?」

 

「......」

 

黙ってしまったチャンミンを見て、訊いてはいけないことを訊いてしまったのかな、と自分の質問を後悔した。

 

でも、ドンホとの会話から連想した、工場内にずらりと並んだチャンミンの図が、色濃くこびりついているのだ。

 

「見たことはありません。

原則的に、同じ姿形のアンドロイドは、同時期に存在したらいけないそうです。

だから多分、いないと思います」

 

「もしも...もしもだよ。

今のチャンミンが...」

 

繋いだ手にぎゅっと力を込め、上下に揺すった。

 

「何かの都合でダメになってしまって...これは、万が一の話だからな。

チャンミンがダメになってしまうなんて、俺は許さないからな。

ダメになって、新しいチャンミンが代わりに俺のところに来た時。

それは『チャンミン』なのか?」

 

チャンミンが浮かべた笑みは、寂し気だった。

 

「前に同じような会話をしたこと、覚えていますか?」

 

「うん」

 

「ユノは、どう思いますか?

僕に尋ねる前に、ユノはどう考えますか?

僕は、同じでありたい、と思っています」

 

チャンミンの琥珀色の瞳が、俺を真っ直ぐに射る。

 

チャンミンがどんな言葉が欲しがっているのか、俺には大抵分かるようになっていた。

きっとチャンミンはこう言って欲しいんだろうなぁ、って。

 

分かる、ということは、チャンミンの心は俺と通じ合っているということ。

 

そして、チャンミンが欲しい言葉は、俺がチャンミンに伝えたい言葉と同じなのだ。

 

「...俺は、もちろんチャンミンの顔は好きだよ。

チャンミン、覚えてる?

ずっと前、俺の真っ黒な瞳が好きだって、言ってくれただろ?」

 

「お!

よく覚えてましたね」

 

「当たり前」

 

チャンミンからふんだんに注がれた褒め言葉が、どれだけ俺を救ってくれたことか。

 

「変な髪型になっても、チャンミンならサマになる」

 

「やっぱり、変だったんですね」と、チャンミンは口を尖らせていて可笑しかった。

 

「なぜだか分かる?

チャンミンの顔の造りが、いいってこと。

アンドロイドだから、いい顔をしているのは当たり前だけどね。

ねえ」

 

俺は布団から身を乗り出して、チャンミンのお腹にしがみついた。

 

「俺さ、チャンミンの眼が好きだ。

色が薄くって、チャンミンの心の中を覗き込めそうなんだ。

透き通っていて、俺の心まで洗濯されたみたいに綺麗になれる」

 

「ユノ...」

 

チャンミンは布団を引っ張り上げて、俺の肩にかけ直してくれる。

 

「俺はね、チャンミンの心が好きだ。

チャンミンの眼...心の窓を通して、チャンミンと会っているんだ。

だから、容れものが変わっても、チャンミンはチャンミンなんだ」

 

この言葉は、するするっと自然に出てきたものだった。

 

「ありがとうございます」

 

あ...鼻声になってる。

 

さては泣いているな。

 

チャンミンは感動屋だから。

 

チャンミンの大きな手が、俺の熱っぽい背中を擦ってくれる。

 

ちりんちりん。

 

サイドテーブルに置いた電話が、耳障りな金属的な音をたてた。

 

俺とチャンミンは、はっと現実に引き戻されてしまう。

 

俺より先に、受話器はチャンミンに奪われてしまった。

 

「はい...はい」と、チャンミンは受け答えしながら、俺には目線と頷きで早く寝ろと言っている。

 

受話器を置いたチャンミンに、「Kだったの?」と尋ねた。

 

「はい。

呼び出されました」

 

チャンミンは、毛布と布団を隙間が出来ないようにかけ直すと、俺の前髪をかき分けたそこに、そっと唇を押し当てた。

 

「ぐっすり眠って、身体を休めてください」

 

そして、部屋を出ていった。

 

 

(つづく)

 

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(14)初恋-19歳-

 

 

「俺にとってはね、チャンミンはひとりの男なんだよ。

おっと!

『僕は人間じゃなくて、アンドロイドです』って台詞は、ここでは禁止」

 

「...男ですか。

いい響きですね」

 

「チャンミンは、男だろ?」

 

チャンミンは頷いて、再び俺の胸に頬を埋めた。

 

その甘えるような仕草に、じわりと温かいもので俺の心は満たされた。

 

「ねえ、チャンミン」

 

「...はい」

 

「どうして俺にキスしたの?

怒らないから、教えて?」

 

俺の質問には、沢山の意味が込められている。

 

『チャンミンは、俺のことをそういう目で見ているの?』

 

『俺は、チャンミンをそういう目で見てもいい?』

 

その許可を、チャンミンから貰いたかったのだ。

 

そういうこと...つまり、俺はチャンミンが好きなんだ。

 

この『好き』は、新たに加わった類の『好き』だ。

 

「...したかったんです」

 

チャンミンはぼそっと言った。

 

「どうして?」

 

「答えにくいことを、追求しますねぇ。

こんな気持ち、持ったらいけないんです。

いけないのに...」

 

「それで?」

 

「前に、LOVEとLIKEの違いについて、会話をしましたよね」

 

「したね。

チャンミンは、『LOVEもLIKEも同じ』って言ってたよね」

 

「よく覚えてますね。

恥ずかしいです」

 

「LOVEとLIKEがどうしたの?」

 

今の俺なら、その違いが分かる。

 

「これを聞いて、僕を追い出したりしないでくださいよ?

気持ち悪いって思わないでくださいよ?」

 

「するわけないだろ?

さっき言っただろ?

俺はチャンミンとずーっと一緒にいるって」

 

「そうでした。

LOVEとLIKEの話をした時、僕はこうも言いました。

僕にも『心』があると」

 

「うん、言ってた」

 

チャンミンは優しくて涙もろい感動屋なんだ。

 

「ここ2年ばかり、僕は悩みを抱えていました。

アンドロイドにあるまじき感情を抱えて、困りきっていたのです。

それはですね...ユノの質問に答えます」

 

ドキドキした。

 

「僕はユノにキスをしました。

キスしたくなったからです」

 

「...チャンミン」

 

撫ぜる手の平の下で、チャンミンの短髪が乾きはじめてきていた。

 

「僕はユノが大好きだって、言いましたよね?

LOVEもLIKEの違いはないって」

 

「うん」

 

「今も、そのままの意味の通りです。

僕は人間のように、ユノと同じように、心があります。

LOVEとLIKEが混在した気持ちを抱えています」

 

チャンミンは、あいも変わらず小難しい言葉を使って話すんだから。

 

「あのですね」

 

チャンミンはここで言葉を切り、こほんと咳払いをした。

 

顔も耳もリンゴみたいに真っ赤になっていて、可愛いなぁ、と思った。

 

「ユノにキスしたくなった欲求は、LOVEから来ています。

近頃、LOVEが勝ってきて、困っているのです」

 

「え...」

 

「僕はユノが大好きです。

ユノを愛していますよ」

 

チャンミンが伸ばした両手に、俺の頬は包まれた。

 

「アンドロイド風情が、LOVEの気持ちを持ったら...いけませんか?」

 

俺はぶんぶんと首を振った。

 

「ユノは...僕の気持ちを聞いて...困りましたか?」

 

「困らない、困らないよ」

 

涙を堪えていられるのも限界だった。

 

「...以上が、ユノにキスをしたくなった理由です。

あ!

もうしちゃいましたけどね」

 

「じゃあさ、あの時は?

車の中で。

あの時も、キスしてきただろ?」

 

見下ろしたチャンミンの顔がぼっと、もっともっと赤くなった。

 

「...起きていたんですか?」

 

「うん、寝たふりをしてたんだ。

あの時も、同じ気持ちだった?」

 

「...はい」

 

「数えてみたんだ。

俺とチャンミンって、これまで3回もキスしてるんだよ?

でも...最初のはキスのうちに入らないな。

子供過ぎたし、チャンミンに水を飲ませるためのものだったから」

 

「ちゃんと覚えているんですね」

 

滅茶苦茶恥ずかしがっているチャンミンを、俺はからかえなかった。

 

2度目の時、あの頃の俺は、ドンホに恋をしていた。

 

チャンミンが自分の気持ちを隠さざるを得なくて、当然だった。

 

チャンミンは怖かっただろう。

 

もし、相手が俺じゃなく別の人間だったら、『ふしだら』な感情を主人に対して抱いていると知られたら、大抵の場合、別のアンドロイドと交換されてしまうものだったんだ。

 

もっと酷い主人だったら、そのアンドロイドにふしだらなことをさせることだって、あり得ない話しじゃない、。

 

俺だったから、チャンミンは話す気になったんだ(これは、俺の己惚れなんだけどね)

 

チャンミンに対して抱いてはいけないと、俺自身が自制していた感情。

 

なぜなら、チャンミンはアンドロイドだから。

 

人間みたいな見た目だけど、工場で造られたものだから。

 

でも、チャンミンにはちゃんと、『心』がある。

 

チャンミンも俺と同じ想いを持っていてくれたんだ。

 

チャンミンの場合は、人間相手に、しかも主人相手に決して抱いてはいけない感情だった。

 

でも。

 

俺とチャンミンは対等だ。

 

俺はそう思っていても、チャンミンの中で染みついた...プログラムされた本能を、そう簡単に変更はきかないだろう。

 

長い時間をかけて言い聞かせてゆけば、少しずつでもチャンミンの中の恐怖は消えるんじゃないかな、と思った。

 

「俺はね。

チャンミンのキス。

びっくりしたけど、滅茶苦茶嬉しかったよ」

 

これだけは必ず伝えないといけない気持ちだ。

 

「俺も、LOVEだよ」

 

...言ってしまった!

 

「......」

 

俺を見上げるチャンミンは、真顔になったかと思うと、両眉も口角も下げてしまった。

 

チャンミンが困った時の表情だ。

 

「困った?」

 

「困りませんよぉ」

 

うるると涙を蓄えていたのがふっと壊れて、つーっと顎に向けて流れ落ちた。

 

チャンミンの頭を、むぎゅうっと抱きしめた。

 

「ユノ!

苦しいです!

それに...アツアツですよ。

お屋敷に帰りましょう」

 

無理やり俺の腕の中から抜け出たチャンミンの顔は、やっぱり真っ赤だった。

 

今になって、くらりと視界がぼやけてきた。

 

「ほらぁ!

ささ、僕にもたれてください」

 

心の交換をするのに集中していて、具合が悪かったのを忘れていた。

 

この日。

 

俺とチャンミンとの関係性に、大きな変化が訪れた日だった。

 

LOVEとLIKEの狭間で彷徨っていた気持ちに答えが見つかった。

 

でも...。

 

俺たちにはまだまだ、解決しなければならないことが沢山あった。

 

チャンミンと一緒にいるためには、沢山の課題がある。

 

屋敷にいる間は、気が抜けない。

 

俺がしっかりしていないと。

 

「ユノ!

後ろ」

 

チャンミンに背中を叩かれ振り向くと、

 

「わあぁぁぁ」

 

街並みのずっと向こうに虹がかかっていた。

 

いつの間にか雨が上がっていた。

 

 

(つづく)

 

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(13)19歳-初恋-

 

 

 

押しあてられていたチャンミンの唇が、ふっと離れた。

 

チャンミンの頭で遮られていた光が再び俺を照らした。

 

俺たちはしばらくの間、無言だった。

 

俺はチャンミンの方を振り向けなくて、停止した思考のまま、雨粒でリズミカルに揺れるフキの葉を眺めていた。

 

「...すみませんでした」

 

チャンミンの掠れた囁き声に、俺は「謝るな」と答えた。

 

俺はそう言ったけれど、チャンミンは謝って当然なのだ。

 

使用人の立場で主人に、手を出すようなことをしたのだ。

 

「手を出す」とは単に暴力をふるうことだけじゃなく、性的な行為...キス以上の肉体的な接触もこれに含まれる。

 

ルールにのっとれば、チャンミンの行為はアンドロイドにあるまじきことだ。

 

主人である人間の方から仕掛けたものなら「可」だけど、その逆は「不可」なのだ。

 

チャンミンがアンドロイドである事実を、俺は憎むようになっていた。

 

俺の目にはチャンミンは、1人の人間として、男として映っているし、でも現実は、彼は使用人でアンドロイドなのだ。

 

俺が非力なばっかりに、チャンミンは従兄弟たちにしょっちゅういじめられていた。

 

殴られるのを防御する腕も、場合によっては彼らを傷つけかねないから、殴られるまま耐えるしかなかった。

 

「手を出してはならない」ルールを厳格に守ってきたチャンミン...そんな彼が、なぜ?

 

俺の中では『なぜ?』しかなく、チャンミンの行動を咎める気持ちは全くない。

 

このキスの意味を知りたかっただけ。

 

チャンミンから受けたキスは、これで2度目だった。

 

13歳のある日、学校の正門前で、車のシートで俺は眠ったふりをしていた。

 

あの時のこと。

 

アンドロイドも、そういう気持ちになることはあるのだろうか。

 

...つまり、欲情のようなものを抱くことはあるのだろうか。

 

チャンミンの腕はまだ、俺の肩を抱いている。

 

2人分の体温で、濡れていたシャツが乾きかけている。

 

突然過ぎて頭が真っ白だったのが、今頃になって気持ちが追い付いてきたようだ。

 

「ねえ、チャンミン。

どうして...俺に?」

 

「......」

 

2年前のキスのことも含めて、俺はチャンミンに尋ねた。

 

そっと視線だけ持ち上げて、チャンミンの横顔を窺った。

 

あれ...?

 

チャンミンの顔が真っ赤だった。

 

「どうして、俺に...したの?」

 

「えっと...僕も熱が出たみたいですね。

バグです、暴走しちゃったみたいです」

 

「嘘つき」

 

チャンミンの肌がひんやりと感じるくらい、俺の方が熱があった。

 

「ユノ...。

ご主人に頼み事をするなんて、ルール違反ですけど...ですけど」

 

「ですけど?」

 

「さっきのこと、忘れてくれますか?」

 

「どういう意味だよ。

忘れられるわけないよ?」

 

チャンミンの言葉に心が寒くなって、噛みつくように言い返した。

 

「ご主人にあんなことするなんて...。

絶対にあってはならないことなんです」

 

先ほど俺が考えていたのと同じことを、彼の口から聞かされると、哀しい。

 

「...だから、許してください。

もう二度としませんから。

罰ならいくらでも受けます。

だから僕を...捨てないでください」

 

「!」

 

「僕はっ...。

僕の立場からこんなお願いをすること自体が、間違いなんです。

僕は...古くなってきてますし、ここを出たらどこにも貰い手はありません」

 

家庭教師、子守り、執事、ボディガード、あらゆる職種の補佐...知的で特定な役務を卒業したアンドロイドの行く末は、肉体労務。

 

それから、優れた容姿を愛でる者たちのためへの慰みものとして。

 

だから実際は、いくらでも貰い手はあるのだ。

 

チャンミンもそれは分かっていて、俺に訴えているのだ。

 

「僕は、僕は...ユノの側にいたいのです。

もうしばらくは、ユノの側に置いてください。

お願いです、あれはちょっとした不具合だったと思って、許してください」

 

「チャンミン!」

 

気付けば俺は、チャンミンの首にかじりついていた。

 

「馬鹿!

そんなこと言うなよ!」

 

必死に俺にすがるチャンミンが憐れだったこと、そうでもしないとこの場にいられない身分であること。

 

機嫌を損ねたご主人が、いとも簡単にアンドロイドをお払い箱にすることができる現実。

 

全部、悲しかった。

 

なぜって、チャンミンからのキスが嬉しかったんだ。

 

嬉しいことなのに、許してくれと謝られて、しまいには捨てないでと乞われるんだ。

 

嬉しかったのに。

 

驚いたし、チャンミンがどういう気持ちでいたのかは分からないけれど、俺は嬉しかった。

 

胸がきゅっとなる感じ...心がときめいた。

 

お腹の底がぞわっとなる感じ...全身の神経がチャンミンに触れられた箇所に集中した。

 

チャンミンの顔はもちろん、首も胸も腕も腰も全部、生っぽく眩しく映るようになったこの1、2年。

 

触れたいと思うようになっていた。

 

そして、触れられたいと思うようにもなっていた。

 

「チャンミン、大好き」と言って、無邪気に抱きついて、頭を撫ぜられて喜んでいられたような、7歳の少年ではないのだ。

 

だから、さっきのキスは...嬉しかったんだ。

 

これって、つまり...?

 

ああ、なるほど...やっとわかったよ。

 

「お願いするとか、捨てないでとか。

そういうこと言うな!

思っても駄目だ!

分かった?」

 

「...でも」

 

「捨てるわけないだろう?

俺は絶対に、チャンミンを捨てたりしない!」

 

俺はチャンミンの胸元に、ぐりぐりと額を押しつけて怒鳴った。

 

「ホントですか?」

 

「うん。

俺の方こそ、チャンミンがいないと嫌なんだ。

だって、チャンミンは俺の宝物なんだ。

召使だなんて一度も思ったことがないよ」

 

「...ユノ」

 

チャンミンを一個人として扱いたいけれど、家族に庇護されている今の俺の立場じゃ、それも叶わない。

 

「学校を卒業したら、俺、チャンミンを連れてここを出るから。

召使じゃなくしてやるから。

もうちょっと待っててって言うのは、そういう意味なんだよ」

 

チャンミンは確かに美しい。

 

俺がチャンミンに見惚れてしまうのは、単に容姿が素晴らしいだけじゃない。

 

俺の中に存在している、ある感情のせいなんだ。

 

俺は立ち上がり、チャンミンの両腿の上に向かい合わせに跨った。

 

泣きじゃくる俺をあやすとき、チャンミンがよくこうやってくれた。

 

小さかった頃、俺の頭はチャンミンの胸のあたりだったのに、今の俺はチャンミンの頭を超えている。

 

「ホントだよ。

チャンミンはずーっと、俺の側にいるんだ。

これはご主人からの命令だよ」

 

俺の胸に引き寄せて、その後頭部を撫ぜた。

 

俺が何度注意しても直らない猫背を、擦った。

 

「召使じゃないって、言ってたのに?」

 

「そこを突かれると困るなぁ。

でもさ、たまにはご主人っぽく命令しないと、チャンミンは遠慮ばっかりしてるし、ホントのことを言ってくれないし...」

 

「アンドロイドは出しゃばったらいけないのです」

 

チャンミンは俺の背に両腕を巻きつけて、俺の胸に頭を預けた。

 

「分かってるよ。

ご主人の命令、って言うからいけないんだな」

 

俺はふぅっと大きく息を吐いた。

 

発熱のせいだけじゃなくて、顔は熱いし心臓がドッキドキしている。

 

「俺の側にずーっといて欲しい。

これは、俺からのお願い。

ご主人だからっていう意味じゃなくて、ひとりの人間として...。

...男として、チャンミンにお願いしたい」

 

「ユノ...」

 

俺の胸に埋めていた顔を起こし、チャンミンは俺を見上げた。

 

いつの間に涙ぐんでいたのか、チャンミンの目尻と鼻先が赤く染まっていた。

 

涙の潤みの下で、チャンミンの琥珀色の瞳が揺れていた。

 

誕生日プレゼントの箱から出てきたチャンミンが、俺の前でひざまずき、

『僕の名前を付けて下さい』と覗き込んだその瞳を、子供ながらに綺麗だと感動した。

 

あの頃と全く変わらない、琥珀色のグラデーションが美しかった。

 

大雨が小雨に変わり、辺りを包んでいた雨音も弱まってきている。

 

俺たちの周りだけは、静寂の時が流れていた。

 

 

(つづく)

 

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(8)19歳-初恋-

 

 

「じっとしていろよ」

 

俺はチャンミンの伸びた前髪を切ってあげていた。

 

2月に一度、チャンミンのために俺は床屋さんになる。

 

お抱えの床屋を使用人のチャンミンの為に呼び寄せることはできない。

 

特別扱いをすると、他の使用人たちのやっかみにあってしまうからだ。

 

町の床屋に連れていってもいいけれど、精巧に美し過ぎるチャンミンを奇異の眼で見られるのが嫌だったんだ。

 

ギュッと目を閉じて、息まで止めているチャンミンは、聞き分けのよい子供のようだ。

 

チャンミンは大人の身体と豊富な知識を持った頭脳をもち、礼儀正しい言動と落ち着いた物腰の、優秀なアンドロイドだ。

 

完璧なはずのアンドロイドなのに、おっちょこちょいなところや、情にもろいところがあって頻繁に涙を流す。

 

「ごめん。

切りすぎちゃったかも」

 

「えーーー!

ユノ...酷いです」

 

ぱっつんと短くなった前髪のせいで、どんぐりの笠みたいになったチャンミン。

 

額と眉が露わになって、より幼さが前面に出てしまっていて、これはこれで可愛い。

 

手鏡を手にしたチャンミンは、くしゃくしゃに顔を歪めて、泣き出しそうだ。

 

「チャンミンはどんな髪型も似合うから大丈夫だよ」

 

「...本心で言ってます?」

 

「...うん」

 

「今の間はなんですか?

嘘ですね。

へんてこりんなんですね、ホントは?」

 

ぷぅと頬を膨らませて、少しでもぱっつんを誤魔化そうと前髪を散らしているチャンミンを可愛いと思う。

 

チャンミンを可愛いと思う頻度が多くなってきたように思う。

 

俺が大きくなってきたからかなぁ。

 

「もっといい感じにしてやるからさ、もうちょっと短くしようか?」

 

俺の腕前を信用していない証拠に、チャンミンはすーっと目を細めていたが、手鏡を置いて姿勢を正して俺を待つ。

 

そんな姿を見せられると、俺はどうしたらいいか困ってしまう。

 

ブツブツ文句をこぼしながらも、結局は俺の言うことをきくチャンミン。

 

守ってやらないと。

 

大事にしてあげないと。

 

もうちょっと、もうちょっととやっているうちに、うんと短い髪型になってしまった。

 

「ごめん...」

 

「......」

 

「でも、似合ってるよ。

ホントだよ」

 

お世辞じゃなく、似合っていた。

 

チャンミンの色素の薄い瞳と、完璧な骨格が際立った。

 

チャンミンはしばらく仏頂面を見せていたが、ふっと肩の力を抜いて、微笑んだ。

 

「怒ってませんよ。

ユノがいいと言ってくれたら、それで大満足です。

僕はユノのために存在していますから」

 

感激する言葉のはずなのに、俺はやっぱり困ってしまうのだ。

 

 

 

 

「素晴らしい小説を見つけたのです」

 

チャンミンの楽しみの一つは、屋敷の図書室の本を片っ端から読むことだ。

 

だからチャンミンは小脇に本を抱え、隙間時間を見つけては読書にいそしんでいた。

 

これ以上知識を蓄えて、役立つ場面なんてほとんど用意されていないのに。

 

チャンミンの世界は屋敷の中が全てだ。

 

庭の柵のペンキ塗りや散歩道の木立の枝打ち、パーティの給仕、暖炉の灰かき...。

 

もっと大きくなって、力を備えて、チャンミンに楽させたい。

 

『旅行』とやらに連れていってやりたい。

 

俺は海を見たことがないから、チャンミンと一緒に行きたいな。

 

開け放った窓から庭を見下ろした。

 

真夏の太陽がギラギラと目を射る。

 

夏休みだった。

 

森林を切り開いた中に建つ屋敷は、濃い緑の香りとわんわんとうるさい蝉の鳴き声に包まれていた。

 

庭の先に、昨年ドンホとボート遊びをした池が日光を反射して鏡みたいだ。

 

チャンミンはシラカバの木陰で幹にもたれ、本を読んでいた。

 

俺が何度注意しても直らない猫背で(本人は、「背が高すぎるせいです。ユノに合わせて屈んでいるうちに、猫背になってしまったのです」と堂々としている)

 

俺はチャンミンを観察していた。

 

鬼気迫るシーンなんだろうか、口を覆っている。

 

と思ったら、目元を拭っている。

 

悲しいシーンなのか、感動シーンなのか。

 

喜怒哀楽が全部出てしまうアンドロイドのチャンミン。

 

短髪になったことで、頭の形が素晴らしかった。

 

綺麗だなぁとあらためて感心していた。

 

俺は唇を指でそっと撫でた。

 

あの夜のことを思い出していた。

 

チャンミンの唇が重ねられた、不意打ちの出来事を。

 

寮の自室に戻り、荷解きもせず俺はベッドに突っ伏して、キスの意味に思考を巡らせた。

 

チャンミンは「なぜ」「俺に」キスをしたんだろう。

 

男や女がキスをする意味くらい、俺だって知っている。

 

ドンホ相手に、キスをしたいなぁと思ったことも何度もある。

 

親愛のしるしなんて、軽いものじゃないんだ。

 

好きな奴がいて...この好きは『LIKE』じゃない、『LOVE』の方だ...身体に触れたいと望む。

 

抱きしめたり、手を繋ぐだけじゃ足らない、もっと敏感な場所で触れ合いたいと望む。

 

チャンミンは、こういう気持ちを持つことはあるのだろうか。

 

アンドロイドでもそういう欲求を持つのだろうか。

 

うんと子供の頃、トイレに向かうチャンミンの後をついていって、こっそりその場を観察したことがある。

 

浮かんだ想像図を、振り払った。

 

チャンミンを穢してしまう気がしたんだ。

 

チャンミンからの不意打ちのキスから1年...俺たちはそのことに何も触れず、これまで通りだった。

 

次の週末、俺を迎えに来たチャンミンがあのキスについて、何が言うのでは?と俺はドキドキして待っていた。

 

そっか...あの時は俺は眠っていたことになっていたんだった。

 

でも1度だけ、遠回しに尋ねたことがあった。

 

 

 

 

 

「ねえ、チャンミン」

 

「はい?」

 

俺とチャンミンはトランプ遊びをしていたっけ?

 

ずば抜けた記憶力のせいで、神経衰弱なんて勝負にならなかった。

 

(俺が勝てるのは「ババ抜き」だけ。チャンミンはすぐに顔に出るので、余裕なのだ)

 

「チャンミンのファーストキスっていつだった?」

 

『キス』の言葉一つに照れてしまって、顔が熱かった。

 

カードを切るチャンミンの手が止まった。

 

首から頬へとみるみるうちに、チャンミンの顔が真っ赤になった。

 

「さ、さあ...。

僕はアンドロイドですし...忘れました」

 

「チャンミンは頭がいいのに、忘れちゃうんだ?」

 

「たまにバグを起こすんです。

それに、僕が仕えたのはユノだけですから...キ、キスなんて...したことないです...」

 

語尾がかき消え、俯いてしまったチャンミンの両耳が真っ赤になっていた。

 

俺へのキスを意識しているな、と確信して、これ以上突っ込んだことを訊くのは可哀想だと思って、止めたんだった。

 

 

 

 

「ふぅ」

 

窓の桟に組んだ腕に顎を乗せて、眼下のチャンミンに意識を戻した。

 

読書に集中し過ぎて肩が凝ったのかな...大きく伸びをしている。

 

長い腕だ。

 

ふと、窓から眺める俺に気付いて、ぱあっと輝く笑顔を見せた。

 

胸がきゅっとした。

 

チャンミンに向かって手を振った。

 

チャンミンも俺に手を振り返す。

 

腰を上げかけたチャンミンに、「俺がそっちに行くから!」と叫んだ。

 

雑用から解放されたチャンミンの貴重な休日だ。

 

たっぷりゆっくりと本を読ませてあげたかった。

 

俺は首にタオルを巻いて、部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。

 

廊下の角を曲がった瞬間、

 

「!?」

 

ぐいっと二の腕をつかまれ引っ張られたせいで、勢い余って後ろへ転びそうになった。

 

ところが、俺を捕まえた手の持ち主に抱きとめられて、転倒は免れた。

 

免れたのだけれど...。

 

俺を見下ろす切れ長の眼と、細面の端正な顔。

 

「急いでどこへ行くのかな?」

 

「叔父さん...」

 

面倒な奴に捕まってしまった。

 

「俺の用事に付き合ってくれないかな?」

 

叔父さんは唇の片端だけをゆがめた、いつもの不適な笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

(つづく)

 

 

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