(38)NO? -第2章-

 

~チャンミン~

 

「......」

 

僕の思考はしばし真空状態になった。

音は消え、視線はエレベータの箱の中にロックオン。

嘘だろ嘘だろ嘘だろ!!

なぜ...ここに...リアがいる!?

(注:リアはチャンミンの前カノです)

 

ここはユンのオフィスであり、彼のオフィス直行エレベータにリアは乗っていた。

エレベータの扉が開いた向こうに現れた人物が、前カレの僕だった。

リアは片手で口を覆い、目も大きく見開いていた。

とっさに民ちゃんの反応が気になって、隣を見た。

 

(...あれ?)

 

この状況、民ちゃんにとって予想していたものだったらしい。

なぜなら、「あちゃー」といった風に額を覆っていたからだ。

民ちゃんはユンの元で働いているから、驚かなくても当然か。

ユンのオフィスにリアが出入りしていることを、民ちゃんは知っていた。

 

そうか!

 

ユンのアートモデルをしていたんだ、そうだそうだ。

答えが見つかって、跳んでしまった意識が戻ってきた。

同棲していた部屋を出て行った日以来の再会だった。

リアは相変わらず美しい女性なんだろうけど、今の僕の心は彼女の元には一切なくて......それどころじゃない!

 

リアは僕の脇をつかつかと通り過ぎ、民ちゃんの二の腕をとった。

「やあ、久しぶり」の「やあ」も言う間もなかった。

「行きましょ」

 

リアは停車してあった黒い車...ユンの車だ...まで、民ちゃんを引っ張っていった。

 

(一緒に出掛けるのだろうか...?)

 

民ちゃんは僕から顔を背けたままだったけれど、その耳は真っ赤っかで、この状況にショックを受けていたことは確かだ。

 

「チャンミンさん?」

時間が...」

 

僕のスーツの肘を引っ張るのはエムさんだった。

ぐるぐるぐちゃぐちゃな気持ちは、クローゼットの中に放り込んだ。

今は仕事中だ。

整理整頓するのは後にしよう。

 

 

15分前に現地に到着していたのに、アポイントメント5分遅れでチャイムを鳴らした。

 

(そういえば、メールを読むようにと念を押されていたな)

先ほどの民ちゃんの言葉を思い出した。

 

(この打ち合わせが終わってからだな)

 

スタイリッシュなテーブルの向こうで、ユンが唇の端だけで笑っている。

僕とリアが付き合っていたとは、まさかユンは知らないだろう。

知っていたとしても、世間は狭いねのひとことで済ませられる話だ。

 

「コーヒーを淹れましょう」

「いえ、お気遣いなく」

「民くんは用事に行かせているんだ。

もしかして途中で会わなかったかな?」

「あ...」

「まあ...民さんってさっきのあの方でしょ?

アシスタントさんなんですか。

チャンミンさんとよく似ていて、ご兄弟かと勘違いしてしまって。

ね、チャンミンさん?」

僕に向けてエムさんは小首を傾げた。

 

「それから...モデルさんですか?

綺麗な人もいらっしゃいました」

 

(ああ...。

エムさん、余計なことを言わないで欲しい)

 

ユンの黒い目がぎらりと光った。

「モデル...?

ああ!

彼女は...そうですねぇ」

僕は必死で平静を装った。

 

ようし、頭の中を整理しよう。

 

その1・・・作品のモデル(リア)の前カレが、得意先の担当者(僕)

これは、リアがユンの作品モデルだと仮定した場合の話で、それしかユンのオフィスから登場した理由が思いつかない。

リアがここを出入りしていたことは、アシスタントの民ちゃんは当然知っていた。

エレベータでの民ちゃんとリアの反応を見れば明らかだ。

でも、僕に知らせずにいたのは、僕らのいざこざ(妊娠騒動)を側で見てきて、僕を動揺させたくないと気遣ったんだろう。

 

その2・・・ここからがデリケートな問題になる。

その担当者(僕)の今カノが、ユンが雇っているアシスタント(民ちゃん)であること。

常識的に考えて、取引先の者に知らせる必要のないプライベートな情報だ。

ところが、ユンが関わってくると話は違う。

こんなことを考えながら、サクサクと打ち合わせを進めていった。

エムさんは僕の隣でせっせとメモをとっている。

仕事熱心な方だなぁと、感心していた。

 

 

「それでは今日はこの辺で...」

ユンの意向をほぼ通すことで、最終号の段取りはうまく取りまとめることができた。

 

「エムさん、ちょっと...」

ユンに断って、エムさんを連れて席を立った。

 

「申し訳ないんだけど、ユンさんと話があるんだ。

今の仕事とは別の仕事の話が。

急に決まった話なんだ。

車の中で伝えておけばよかったね、ゴメン」

極めて私的な話だけど、ユンにはモデルの依頼をされていたから、あながち嘘ではない。

 

「ここから100m先に地下鉄があります。

送ってあげられなくて、すみません」

 

エムさんには悪いことをした。

そもそも、エムさんの同行を最初から断っておけばよかった話だ。

 

「もぉ...分かりました。

今度、お詫びしてくださいね」

エムさんは僕の二の腕をとん、と叩いた。

 

フランクな言葉遣いとボディタッチに驚いて、「そうですねぇ...ははは」と肯定とも否定ともつかない中途半端な返事をしてしまった。

 

(つづく)

 

(37)NO? -第2章-

 

チャンミンとエム女史に背を向けた時点で、民は後悔していた。

子供じみた言動が恥ずかしくてたまらない。

 

(馬っ鹿じゃないの!)

 

自分の頭をポカスカ殴りたかった。

背中を向けた以上、引っ込みがつかなくなって、エレベータへと1歩1歩踏みしめる足取りもフリだった。

 

(チャンミンさん、大人げない私を放っておいてください)

 

民に関しては正常でいられないチャンミンが、彼女を追ってきても仕方がない。

 

「民ちゃん!」

 

親し気に民を呼ぶチャンミンに、エム女史は「友人同士か何かかしら?」程度の関心しかなかった。

まさか二人が恋人同士とは露ほどにも思いつかなかったのは、すべて民のルックスにある。

チャンミンと異常なほど似ている男顔であること、長身で凹凸の少ない体形であること。

 

(兄弟ではないと言っていたけれど...。

それにしても、子供っぽい人ね。

ま、私には関係ないけれど)

 

平凡そうな性格のチャンミンは、分かりやすい女性らしさを好むタイプなのでは?と、エム女史は判断していた。

 

(以前は彼女がいるとかで断られてしまったけれど、噂によると同棲状態を解消して、今は独り暮らしだというから...チャンス到来だわ)

 

だからか、エレベータの扉の前でへの字口になった民を覗き込み、なだめている風のチャンミンの姿を見ても、エム女史の心は一切ざわつかなかった。

ただ、アポイントメントまであと10分を切っていて、話に夢中になっている前方の二人に、そろそろ声をかけるべき時間が迫っていた。

 

 

「民ちゃん、どうしたの?

変だよ?」

「何でもないです。

お仕事中でしょ?

私に構っていないで、あそこの『可愛い人』と打ち合わせかなんだかに行ってくださいよ」

 

民は手を振って、チャンミンを「しっしっ」と追い払うフリをした。

『可愛い人』ワードに動揺しないチャンミンに、「無自覚、鈍感!」と民の機嫌はさらに悪くなった。

 

「何を怒っているの?」

「怒ってません!」

駄々っ子な自分を止められない自分が恥ずかしくて、民は両手で顔を覆った。

 

「顔が怒ってる」

 

チャンミンは民と目を合わせようと、彼女の手首をつかんだ。

 

「イライラしているだけです!」

民はひん曲がった表情を見られまいと、馬鹿力を出してチャンミンに抵抗した。

 

「ユンか!?

ユンに何かされたのか!?」

「ユンさんは関係ありませんよ。

何でもユンさんに結び付けないで下さい!」

 

エム女史に強い嫉妬心を抱いたとは、恥ずかしくて言えない。

それから、小首を傾げてチャンミンを見上げる仕草に媚を感じとったからと、「あの人はチャンミンさんを狙ってます」とも言えない。

民にとって恥ずかしいづくし、初めて抱く強烈な嫉妬心のやり場が分からない。

 

(私はプチパニックです...!)

 

「じゃあ、何を怒ってるの?

気になるじゃないか」

 

(あ~も~、チャンミンさんはしつこいなぁ)

 

「カリカリしてるのはですね...」

チャンミンをひとことで黙らせるワードを思いついた。

「生理前だからです!」

「!!」

「生理前の私はね、怒りの沸点が低くなってですね、どう猛になるんです!」

 

「...そっか、そうだったんだ」

男であるチャンミン、こればっかりは黙るしかない。

 

(...でも、民ちゃんは隠し事をしている)

 

「生...理だけが理由じゃないでしょ?」

「...うっ...」

「今日は定時で帰れるから、その時聞かせて?」

「......」

「やっぱりユンに何かされたんだろ?

これからあいつに会うから、抗議しておく」

「あ~!

それはダメですよ。

...あれ?

メールを読んでいないんですか?」

「メール?」

「はい。

ユンさんに会う前に、必ず読んで下さいよ!」

「分かった」

 

チャンミンの肩ごしに、腕時計をちらちら見るエム女史が見える。

 

(悔しいけれど、可愛らしい人)

 

民は「私は野暮用があるんで...じゃ!」と、この場を立ち去りかけて、気付いた。

チャンミンとエム女史を二人きりにするわけにはいかないことに。

民は二人をオフィスまで案内する体でエレベータの前に立ち、操作ボタンを押そうとした時...。

 

(はっ!

私たちが7階に到着した時、エレベータの前にリアさんが待っていたら...。

チャンミンさんとリアさんを、会わせるわけにはいかない!

二人ともに気まずい思いをさせてしまう!

それからそれから、二人の破局の理由に私も関わっているんだし!

このエレベータを使わせるわけにはいかない!)

 

民は二人を駐車場の外へと誘導しようと、「このエレベータは時間がかかりますから、エントランスの方のを使いましょうか?」と、エレベータの階数表示を指さした。

 

「!!!」

 

するすると地階へと下りていく階数ランプが目に入った。

 

「あら、ちゃんと下りてきたわよ」

エム女史の言葉に、チャンミンは「大丈夫みたいだよ」と民の方を見た。

 

ユンのオフィスとアトリエのある階のみ停止する、オーナーの特権エレベータ。

あっという間に到着し、マットブラックの扉がスライドした。

扉の向こうには民の予想通り、スタイル抜群の美女が立っていた。

 

「ああぁ...」

 

チャンミンとリアの反応が見ていられなくて、民は顔を伏せた。

 

(つづく)

 

(36)NO? -第2章-

 

~チャンミン~

 

アポイントメント15分前に、ビル地下の駐車場に車を停車させた。

後部座席から荷物を取った僕は、エムさんが降りるのを待った。

 

「...チャンミンさんっ」

 

僕を呼ぶエムさんの声に助手席を覗き込むと、彼女はシートベルトを外すのに手こずっているようだった。

 

「ごめんなさいっ...固くって」

「おかしいな...引っかかってるのかな?」

「はめる時、固かったから...」

「手を離して下さい」とお願いしても、エムさんは留め具を握りしめたまま離さない。

「僕に任せて」

 

エムさんの手首をつかんで除け、ベルトを緩めたのち、ボタンを強く押した。

 

「外れた...!」

留め具はあっさり外れた。

「あら...。

私のやり方がおかしかったようですね」

エムさんは頬を赤らめて照れ笑いしていた。

 

彼女に近づいた時、ふわりと甘くて華やかな香りがして、「悪くない」と思いかけた。

でも...民ちゃんとエムさんを比べるつもりはないけれど、やっぱり僕は香水を一切つけない民ちゃんが好きだ。

せいぜい柔軟剤の香りがする程度で、ミルクみたいな甘い体臭。

特に耳の下。

すん、と香りの記憶を呼び起こす僕...変態っぽいな。

おっと。

今は勤務中だった。

大好きな彼女を想って緩んでしまった頬を、引き締めた。

 

 

エントランスへ向かわずとも、ユンのオフィス直通のエレベータが駐車場奥にある。

このビルは、住居兼オフィス兼、アトリエとしてユンが所有している。

リアとの交際期間中、彼女の方が収入が多くても、気にならなかった僕だった。

ところが、ユンに片想いしていた過去を民ちゃんからカミングアウトされて以降、男のプライドみたいなものが顔を出し始めた。

対抗意識を燃やしても、ユンの財力や才能のけた違いさに、勝負にならない。

それでも、ユンと自分とを比較してしまうのだ。

僕は一介のサラリーマン。

この格差に自信を失ってしまう。

 

「はあぁ...」

 

ユンを牽制するための交際宣言を受けて、彼は鼻で笑うだろう。

「なぜ、私に知らせる必要があると思われたのです?」と。

 

やる気がしぼみかけた僕は、喝をいれるために頬をパシパシ叩いた。

民ちゃんの顔を見るのが怖くて、メソメソと料理に勤しんでいたカッコ悪い男に戻りたくない。

 

「チャンミン...さん?」

 

挙動のおかしい僕を、エムさんは訝しげに見上げていた。

「眠気を払っているんですよ」と誤魔化した。

 

びっかびかの高級外車の脇を通り過ぎた。

ユンの車だ。

 

(僕の年収3年分でも買えやしない...はあぁ)

 

「キャッ」

 

エムさんの悲鳴に、先を歩いていた僕は振り向いた。

 

「!!!!」

(民ちゃん!)

 

僕とそっくりの顔で、目を真ん丸にしている。

ユンの車の真後ろにしゃがみ込んでいたのは、民ちゃんだった。

僕の訪れを待ちきれずに出迎えに来たのかな、と己惚れの思いがすぐに浮かんだ。

民ちゃんはしゃがんだ姿勢のまま僕を見、僕の右隣を見た。

エムさんも目を丸くして民ちゃんを見、隣に立つ僕を見上げた。

 

「...ご兄弟?」

 

ワンテンポ遅れて、僕と民ちゃんが双子以上に似ていることを思い出した。

初対面同士の民ちゃんとエムさんから、紹介を求められていた。

 

「チャンミンさん...双子のご兄弟が?」

僕の答えを待たずに、「いーえ!」と民ちゃんは尖った声で否定した。

 

「他人です。

とても似ているでしょうが、赤の他人です!」

 

民ちゃんは立ち上がると、パンツのお尻を払った。

今日の民ちゃんは白いトレーナーと黒のパンツ姿で、彼女らしいシンプルな装いがよく似合っていた。

第3者がいる場で、不意打ちに顔を合わせた恋人ほど照れくさいものはない。

民ちゃんを正視できず、隣のエムさんの反応に注意を払っていた。

 

「双子じゃないです!」

 

民ちゃんは機嫌が悪いらしく、ギロ、と僕を睨むのだ。

 

(何を怒っているんだろう?)

 

「まあ...とても似ていらっしゃる」

エムさんはつぶやいて、僕と民ちゃんを交互に見た。

 

「...で?」

 

小首を傾げたエムさんは、恐らく僕と民ちゃんとの関係を紹介して欲しいのだろう。

 

「え~っと、こちらはエムさん。

カタログの仕事を依頼しているんだ。

フリーのライターさんだ」

「初めまして」

 

エムさんは小首を傾げて、民ちゃんに向けてほほ笑んだ。

(彼女の癖らしい。打ち合わせなどで1対1で会っていた時には気づかなかった)

 

(あ...れ?)

 

民ちゃんの眉間と顎の下にシワが寄っている。

 

(怒っている...なぜ?)

 

「で、こちらは...」

 

「初めまして!

民と言います!」

僕の言葉は民ちゃんに遮られた。

 

「よろしく...しません!」

 

(民ちゃん!!!!)

 

「じゃ!

私は忙しいんで!」

 

僕とエムさんを残して、民ちゃんはずんずんとエレベータの方へと行ってしまった。

放っておけなかった。

 

「エムさん、ごめん。

ちょっと待っててくれるかな?」

そう言い置いて、僕は民ちゃんを追いかけた。

 

(民ちゃん、どうしちゃったんだよ!)

 

(つづく)

 

(35)NO? -第2章-

 

~民~

 

「リアさん...を?」

 

ユンさんのお願い事にリアさんの名前が出てきて、どうして私が彼女を車で送っていくことになるのかわけが分からない。

いくら上司の命令だったとしても、確執のある(チャンミンさんと)リアさんと一緒に行動するのは気がすすまなかった。

 

「ああ、あいつを外に連れ出して欲しいんだ」

即答できずにいる私の頭を、ユンさんはくしゃりと撫ぜた。

 

(...あ、距離が近い)

 

「すまないね。

本来は俺の役目だね。

近頃のあいつは引きこもりがちでね、たまに外に連れ出していっているんだ」

 

「...引きこもり...?」と問う視線を投げかけると、ユンさんは「精神的に不安定なんだ」と答えた。

「そう...ですか」

 

ユンさんは、リアさんとは別れた、と話していた。

リアさんは元恋人のユンさんの部屋に住み続け、ヒステリックにユンさんにつかみかかっていた。

リアさんは別れたくない、ユンさんは別れたつもりでいる。

二人のゴタゴタに巻き込まれそうな予感と、手の平に乗せられた、ずしりと重いキーがプレッシャーだった。

 

「連れ出すってどこがいいでしょう?」

「民くんが行きたいところでいいよ。

リアは買い物が好きだから、デパートに連れてゆけばあいつはご機嫌だ。

支払いはこれを使って」

と、手渡された真っ黒なカードに緊張した。

 

「車...ぶつけてしまうかもしれませんよ?」

気がすすまない私の腰に、ユンさんは手を添えた。

 

(やっぱり...近い)

 

「そんなこと...直せばいいことだ。

さあ、客が来てしまう。

すぐに出かけた方がいい」

 

そして、チャンミンさんの顔を見る前に、私はアトリエを追い出された格好になった。

かつての私は、自分の意のままに操るユンさんの強引さから大人の余裕と男らしさを感じていた。

今はどうかなぁ...ちょっと違うと感じるようになったかもしれない。

例のお願いごとについて、連絡を入れないと。

私は地下駐車場の車止めに腰を下ろし、チャンミンさんへ送るメールを作成し始めた。

ユンさんへの交際宣言は、よくよく考えると大人げない行動だ。

私が毅然としていればいい話なのだ。

男性と接する経験が少ない私は、スキンシップの度合いが不適切なものかの判断が難しかっただけ。

ユンさんの鋭い眼光に射られると、私は身動きできなくなることもある。

だからって、頬を撫ぜられたり、腰を抱かれたり...ドキドキときめいていた自分の馬鹿馬鹿。

ユンさんが好きだったから、嬉しかったんだもん。

今の私は違う。

大本命の人がいるのに、他の男に身体を触れさせるなんて!!

 

...心もそうだ。

 

私の心はユンさんで染まっていた時期があった。

チャンミンさんが腹をたてても当然だ。

ごめんなさい、チャンミンさん。

キ、キ、キ...キスされたことは、絶対に内緒にしますからね。

 

 

『交際宣言の件は、中止でお願いします。

その理由は今夜話します』

 

送信。

 

『勝手に決めてしまってごめんなさい。

今夜、会えますか?』

 

送信。

 

『チャンミンさんの部屋にします?

私の部屋でもいいですよ。

夕飯はどうします?』

と打った文章は削除した。

 

打ち合わせ前に読んでもらうメールに、夜のお誘いの内容は相応しくないと気付いたのだ。

携帯電話をポケットにしまい、スロープの先を見守った。

あと5分もしないうちにチャンミンさんが来る。

ドキドキする。

 

「......」

 

ここで私は思い出した。

 

(リアさん!!)

 

チャンミンさんとリアさんを、ばったり鉢合わせるわけにはいかない!

エレベータの方を振り返った。

階数表示ランプは7階のまま止まっている。

どうかリアさん、着替えとお化粧にもっともっと時間をかけてください。

 

「...あ!」

 

チャンミンさんの会社名の入った白のワゴン車が、スロープを下ってきた。

ヒヤヒヤドキドキ。

車は来客用のスペースに滑り込んだ。

 

(おー!

運転してるチャンミンさんは初めてかも。

ドキドキ)

 

なぜだか私はユンさんの車の陰に隠れて、車を下りるチャンミンさんを覗き見た。

恥ずかしさのあまり。

後部座席からバッグと書類ケースを取った。

 

「...はぁ...」

 

(スーツ姿のチャンミンさん、カッコいいなぁ)

 

私の中でいたずら心が湧いてきた。

突然飛び出して、脅かしてやろう。

 

「チャ...」

 

1歩飛び出して、後ろへ飛び退った。

 

(女の人だ!!)

 

チャンミンさんに続いて、若い女性が助手席から下りてきたのだ。

私が絶句したのは、その人が可愛らしく綺麗な人だったから。

 

(同じ会社の人かな)

 

淡い色味のコートに膝の見えるスカート、ゆるく巻いたセミロングの髪。

リアさん登場の心配どころじゃなくなった。

ヒヤヒヤドキドキしていた心が一転、モヤモヤ暗雲垂れこめた。

小首をかしげてチャンミンさんを見上げる彼女の仕草に、とてもとても嫌な感じがしたのだ。

 

(つづく)

 

(34)NO? -第2章-

あと1時間もすればチャンミンがやってくる。

民はウキウキとハラハラのドキドキで落ち着かなげに、来客の用意をしていた。

コーヒーメーカーの電源を入れ、前もってトレーにカップを並べておいた。

民はちらりと、書類に目を通しているユンの様子を窺った。

 

(よく考えてみたら、恋愛事情を上司に報告するというのも、変な話だ)

 

 

昨夜の電話で、チャンミンは「うまいこと伝えておくから、明日のことは心配いらないからね。」と、民を安心させていた。

たった500mの距離に住む二人なのに、会いに行けばいいのに、電話で済ませるとは焦れったいことだ。

 

それにはワケがあった。

どちらかの家で会ったりなんかしたら、帰りがたくなって、朝まで一緒に過ごしてしまいそうだった。

もともとチャンミンは、ヒヨコな民を気遣ってスロウペースで関係を深めてゆくつもりだった。

ところが、民の露骨な発言に煽られているうちに、だんだん『その気』になってきたのだ。

民のあけすけな発言は、彼女が常識の数センチズレたところを生きているからだと、言い切れないところがあった。

猛烈な照れの裏返しが、チャンミンを凍らせる台詞を生んでいた。

本人にはその自覚はない。

チャンミンもそこまで気付いていない。

民にせよチャンミンにせよ、密室で二人きりで会ったりなんかしたら、その場で転げまわりたいほど恥ずかしくて仕方がない。

でも、触れ合いたくて仕方がない。

一昨日朝帰りをした余韻の熱が冷めるまで、会うのは控えようと各々が考えていたのだった。

おかしな挙動をとってしまいそうだから、と。

 

「チャンミンさん、おやすみなさい」

「民ちゃんも、おやすみ」

 

通話を切った民は、ぱたんと背中から布団の上に倒れ込んだ。

直後、起き上がりこぼしのように起き上がった。

 

「......」

 

ウエストゴムを引っ張って、パジャマのズボンの中を覗き込んだ。

 

(ムダ毛処理...もうちょっと完璧にした方がいいかなぁ)

 

民はチャンミンがセレクトしなかったレースのショーツで予行演習中だった。

一方、チャンミンは考え事に夢中で、鏡に映る歯磨き中の自分と目が合っていなかった。

 

(なんだろ...この感じ。

僕が童貞を捨てたのって、いつだったっけ?

当時の彼女の部屋に、初めて泊まる時みたいな鼓動が早くなる感じ。

すごいなぁ、30過ぎてもときめくことができるとは!

相手が民ちゃんだからだろうか)

 

口の中を濯ぎ、水気を払った歯ブラシをホルダーに戻した。

ここに民ちゃんの歯ブラシが加わる...と妄想してみては、顔がニヤつくのを抑えきれない。

 

(まだまだ女にしたくないような、大人の女の姿を見たいような...はあぁ...複雑だ)

 

と思いながら、民宅に泊まった翌日、早々と『アレ』を用意してしまったあたり...『その気』満々のチャンミンだった。

 


 

~民~

 

約束の時間15分前、ユンさんに呼ばれた私はアトリエへの階段を駆け上がった。

チャンミンさんの前だと挙動がおかしくなってしまうから、午後は出来ればアトリエで作業をしていたかった。

アトリエは機械の音でとてもうるさい。

 

「忙しいところ申し訳ない」

 

ユンさんはグラインダーで、硬化した粘土の表面を磨いている最中だった。

 

アトリエには2体の彫刻作品が鎮座している。

1体はデパートのショウウィンドウを飾るもの、もう一つは買い手が決まっているオーダー品だった。

同時進行で複数の作品を手掛けるユンさんは、忙しいのだ。

さらにもうひとつ、私とチャンミンさんを題材にした作品に着手しようとしている。

また、ユンさんはいくつか不動産を所有していて、そこから上がる収入もかなりのものなのでは?と、事務管理の仕事をしている私は想像している。

私とチャンミンさんがどうのこうのと、忙しいユンさんにわざわざお知らせすることの常識外れさが、余計に気になり始めた。

 

(...中止だ。

チャンミンさんとユンさんは仕事上の関係。

私生活を暴露することで、ユンさんをいたずらに煩わせたりしたら、チャンミンさんの評価が下がってしまうかもしれない。

そうだそうだ、中止しないと!)

 

 

間もなくチャンミンさんがやって来る。

チャンミンさんと連絡を取ろうと、今すぐ階下に駆け下りたいのを堪えて、ユンさんからの仕事の指示を待った。

ユンさんはグラインダーのスイッチを切り、粘土の粉で真っ白になったエプロンと目を保護していたゴーグルを外した。

「民くんに頼むべきじゃない事なんだが...頼まれてくれないかな?」

「はい...もちろん。

何でしょうか?」

「民くんは車の免許は持っているよね?」

「はい」と私は頷いた(車が無ければ田舎暮らしは困難だ、18歳の春に免許を取った)

「本来なら君に頼むことじゃないのだが...」と、もう一度前置きするものだから緊張した。

 

「急に言い出すんだから。

...言い出したら聞かない奴なんだ。

急で申し訳ない」

 

ユンさんはカウンターから車の鍵をとると、私に手渡した。

 

「リアを送っていって欲しいんだ」

「へ?」

 

(つづく)