(31)麗しの下宿人

 

「チャンミン君は『オメガ』ですね」

 

敢えて、なのかどうか医師の口調は重々しいものではなく、『風邪ですね』と診断を下すかのようなあっさりとしたものだった。

 

「そうですか...」

 

母の肩をすとんと落とした瞬間を、僕は見逃さなかった。

 

「......」

 

僕は自分のことよりも、母の反応が気になってしまった。

 

母は膝に乗せたバッグの紐を握りしめている。

 

「お母さん。

チャンミン君は『病気』ではないんですよ?」

 

「!」

 

医師の言葉のおかげで、母の感情に引きずり込まれずに済んだ。

 

「...そうですね...はい。

そうでした」

 

母は動揺を隠そうとしている証に、こめかみの後れ毛をしきりに撫でつけた。

 

手紙の中では気丈なことを書いていた母だったけれど、実際は強がっていただけのようだった。

 

「お母さんはご存知でしょう?」

 

医師は温かな、労わる目で母を見つめた。

 

「はい...そうでした。

すみません。

まさか息子が、と驚いてしまって」

 

「当然ですよ。

あなたがそうだったからこそ、息子さんの先行を案じてしまうのでしょう。

そうじゃない親御さんたちは、知識がないだけに全てを専門家に任せるという気持ちの逃げ道がある。

でも、あなたは『オメガ』の何もかもをご存知ですから、真っ向から事実を受け止めてしまいます」

 

この医師は、母がオメガであることを知っているようだった。

 

(それはそうだ。

母は過去にこの病院に通っていたというから、カルテが残っているのだ)

 

「あの...先生。

どうして男の人だけお尻を調べるのですか?」

 

検査結果が出た後に詳しい説明をしてくれることになっていたのだが、待ちきれなくて僕の方から訊ねることにした。

 

「それはね」

 

医師は背を伸ばし、白衣の衿のシワを伸ばした。

 

「チャンミン君、今からびっくりすることを話すわね?」

 

「......」

 

僕は斜め後ろに居るユノを振り向き、「怖いんだけど」と唇だけを動かした。

「大丈夫」と言うように頷いてみせたユノは、医師が何を話そうとしているか分かっているようだった。

 

僕が知っているのは、『オメガ』になると特定の人だけが嗅ぎつけられる特殊な香りを出す程度のことだ。

 

「男性の『オメガ』は赤ちゃんを産むことができます」

 

「......赤ちゃん?」

 

僕は医師の言葉の意味をすぐに理解できなかった。

 

「僕は男なんだけどなぁ。

この人は冗談を言っているのかな?」と心の中でぼやいた。

 

ポカンと、呆れた表情をしていたと思う。

 

(あ...!)

 

先日のユノとの会話を思い出したのだ。

 

ユノは「世の中には『オメガ』という、3つ目の性がある」と話していた。

 

(女の人は赤ちゃんを産むことができる。

男はできない。

それなのに、『オメガ』の男は赤ちゃんを産むことができる。

『オメガ』は男と女をミックスした人間...)

 

診察室にいる僕以外の者は、僕の反応を待っている。

 

椅子からひっくり返りそうになるくらい驚くべきなんだろうけど、あまりに信じがたい話に身動きできずにいた。

 

「オトコオンナ...」

 

ユノの手が、くらりと後ろに傾いだ僕の身体を素早く支えた。

 

「『オメガ』の男性は子供を妊娠し、出産することができるようになります。

チャンミン君はだんだん、子供が産める身体になってゆくの」

 

「僕、男です」

 

「それが、違うの」

 

「そんなぁ...。

僕、付いています!」

 

「付いている」とは、おちんちんとタマのことだ。

 

「それって、オトコオンナになっちゃうってことですか?」

 

「その捉え方は違うわね。

『オメガ』とは男でもない女でもない、特別な性なの」

 

「僕、アレが付いてるのに、どうやって赤ちゃんを産むんですか?」

 

保健体育の授業内容を頭に浮かべながら、医師を睨みつけた。

 

医師は白衣の胸ポケットからボールペンを取り出すと、ノートパッドからページを1枚破った。

 

「チャンミン君のお尻の中を診させてもらったわよね?」

と言いながら、紙にお尻のイラストを描いた。

 

肛門を丸印、そこに繋がる2本線で描いた道が直腸。

 

医師は「ここが肛門」と丸印を、「ここが直腸」と道をボールペンで指した。

 

「ここは排泄器官。

女の人はこことは別に、妊娠出産できる器官を持っています。

男の人はありません」

 

(知ってるよ、それくらい...)

 

「でも、『オメガ』の男性は違うの」

 

医師は直腸を表した道に脇道を書き足した。

 

場所は丸印の側の辺りだ。

 

脇道の先は行き止まりになっている。

 

「『オメガ』の男性にはこの辺り...直腸の出口付近に子宮があるの」と、行き止まりの辺りを指した。

 

「妊娠した時、ここが大きく膨らんで...」と行き止まりの箇所に大きな丸を重ねた。

 

「ここで赤ちゃんを育てるの」と2度3度とその丸を描き重ねた。

 

この間、僕の視線はノートパッドに釘付けになっていたのに、イラストを用いた説明をまるで他人事のように聞いていた。

 

「『オメガ』の男性は子宮と卵巣を持っています」

 

膝の上に置いた手を、きゅっとこぶしに握った。

 

ユノの手は僕を抱きとめた時のまま、僕の背中に添えられたままだった。

 

「お尻を診させてもらったのは、子宮があるかどうかを確認するためだったの。

 

チャンミン君の中には、未だとても小さく浅いものだったけれど、確かに存在していました」

 

お尻の奥がゾクゾクっとした。

 

 

(つづく)

 

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(30)麗しの下宿人

 

処置室の用意が整うまでの間、僕らは診察室で待たされることになった。

 

手は繋いだままだった。

 

ユノの大きな手は、頼りない僕の手をすっぽりと包み込んでいる。

 

大人の男の人の手だなぁ、と思った。

 

そういえば、父と手を繋いだ記憶はない。

 

母には申し訳ないけれど、なぜだか今日はユノの存在の方が頼りになった。

 

どうやら『オメガ』になると、お尻が関係してくるらしい。

 

医師が気を遣った通り、母親であれどお尻をさらすのは恥ずかしくて仕方がなかった。

 

「緊張する」

 

「俺が付いてるから」

 

ユノの手に力がこもった。

 

「検査されるのは僕なんだよ?

いいよねぇ、ユノちゃんは」

 

「代わってあげたくても、チャミの身体は俺のじゃないからなぁ」

 

「代わってくれるの?」

 

「ああ。

だとしたら、チャミ以上に緊張するかもな。

俺ってチキンだから」

 

「チキン?」

 

「臆病、ってこと。

チャミは凄いよ。

俺だったら部屋に閉じこもって震えていそうだ。

自分を受け入れるってことは、そうそうできることじゃないんだ。

ここまで来たチャミは凄い」

 

褒めて貰えるのは嬉しいけれど、『オメガ』の正体をよく知らないから、深刻になりようがなかっただけのことだ。

 

僕がユノが親身になってくれている心強さのおかげも大きい。

 

自分が何とかできなくても、お医者さんが、母が...それからユノが何とかしてくれると、人任せなところもあった。

 

僕の家族でもなんでもないユノが、特別な検査に立ち合うことを許された。

 

そして、僕が『オメガ』であることを知っている他人は、ユノだけだ。

 

秘密の共有。

 

ゾクゾクする。

 

ユノは僕んちの下宿人に過ぎないのに、僕のためにここまでしてくれる。

 

「ユノちゃん、ありがと」

 

ユノの肩に頭をもたせかけると、彼は握っていた手を離し僕の肩を抱いた。

 

僕は心の中で、「わぁ~お」と驚きの声を上げていた。

 

喜びの悲鳴に近いものだった。

 

これまでのスキンシップを全部振り返ってみたけれど、今みたいな感情を抱くのは初めてだと思う。

 

手を繋ぐのも肩を抱かれることも初めてではないのに、今日の僕は変なんだ。

 

満員電車の中で生まれた感情がよみがえった。

 

あの時はあたふたしていて、本音をとらえることができずにいたけれど、静かで狭い診察室でふたりきりになってみて、分かったことがあった。

 

どうやら僕は「もっとくっついていたい」と願っていたようだ。

 

ユノの身体に触れたいし触れられたい。

 

ドキンドキン。

 

ユノを意識していることを悟られたくなくて、「お医者さんと何を話していたの?」と質問をを振った。

 

「俺とチャミとの関係を聞かれた」

 

「なんて答えたの?」

 

「そのまんまさ。

『チャミんちに間借りさせてもらってて、兄のように親しくさせてもらってます』って。

俺が信頼に足る人間なのかどうかを確かめたかったんだろうね」

 

「よかった~」

 

「怖いだろうけど、俺が付いてるから。

な?」

 

「...うん、頑張る」

 

「あの先生、いい人そうだし」

 

「ユノちゃんがそう言うなら、いい先生なんだね」

 

僕はユノの胸にしがみついた。

 

甘えたい気持ちがどっと溢れてきた。

 

「ギュッとして」

 

「いいよ」

 

ユノは僕を深く抱き直した。

 

「ちっせぇ肩」

 

ふっと笑ったユノの低音に鳥肌が立った。

 

「用意ができました。

こちらへ...」

 

看護師の声に驚いて、僕は慌てて身を離したのだけれど、抱き合ってる光景をバッチリ見られてしまったようだ。

 

さっと目を反らしたのがその証拠だ。

 

「処置室へどうぞ。

ここで服を脱いでくださいね」

 

背けたユノの頬が赤く染まっていて、「あ、照れてる」と思った。

 

恥ずかしがっているユノを目にして、嬉しい気持ちが押し寄せてきた。

 

「僕のことを意識しているんだな」ってくすくす笑いながら、処置室のビニール貼りのベッドに腰掛けた。

 

緊張でカチカチになったかと思えば、ユノのおかげでその強張りがほぐれたりの繰り返しだ。

 

僕はつくづく単純だ。

 

ユノの目の前で僕はズボンを脱いだ。

 

「ここは脱衣所だ」とユノと一緒にお風呂に入るときのようなつもりで、パンツも脱いだ。

 

ズボンと下着を脱いでしまった姿が滑稽で心細い。

 

(僕はどうして、こんな格好をしているんだろう?

オメガの馬鹿野郎!)

 

泣きそうな気分で、脱衣かごに畳まれていたバスタオルを腰に巻き付けた。

 

 

内診の正体を知り、抵抗心まる出しの僕に医師はこう言った。

 

「『どうしてお尻を検査するんだろう?』って、思ってるでしょう」

 

「...うん」

 

「『オメガ』になるとね、身体にたくさんの変化が現われるの。

チャンミン君の体臭もそのひとつ。

今はまだ全部が現れていないだけで、『オメガ』化が進むと、身体のあちこちが今までとは違ってくる」

 

「『オメガ』はみんなお尻を調べるの?」

 

「いいえ、男の人だけ」

 

「どうして?」

 

「女の人の場合よりも、男の人の方が変化が大きいからよ。

お尻にその変化が現われるの。

それを確かめる為に、内診させてもらえないかな?」

 

「...うん」

 

「ありがとう」

 

 

ステンレス製のコンテナの上で、金属の器具や液体の入った瓶から目が離せない。

 

痛いことをされるのではと、冷や汗が出てきた。

 

「怖い」と思った。

 

医師は青色の手袋をパツンパツンと手慣れた動作ではめた。

 

観念した僕は診察台に上がると、四つん這いになった。

 

指示通りに、両肘は床につけお尻を突き出す姿勢をとった。

 

医師は僕のお尻と対面する位置に場所を変えた。

 

ユノは診察台の脇で膝をつき、僕の手と手を重ねた。

 

「ジェルを塗るね。

冷たいけど我慢しててね」

 

「ひっ!」

 

「力を抜いて」

 

医師の指が僕の大事なところに触れた瞬間、

「...っ!」

僕の身体はびくん、と痙攣した。

 

「痛くないから、大丈夫だからね」

 

「変な感じ...それ、やだ」

 

「そうだね、変な感じがするけど、すぐに終わるからね」

 

優しく言われても、恐怖のどん底にいる僕の耳には効果ゼロ。

 

もう勘弁して、と懇願したくなるほどの間、医師の指は僕の中を探っている。

 

「ここに...」

 

医師は何かを見つけたらしい。

 

見えないことが恐怖心を煽った。

 

「息を吐いて...ゆっくり」と、ユノが耳元で囁く。

 

僕は目をつむり、唇をかみしめた。

 

「ひっ!」

 

無機質な固いものが差し込まれ、にゅうっと左右に押し開かれた。

 

「やだ...やだ...。

出して、出してよ!」

 

僕のお尻の中に何かが入っている!

 

実物は小さな物なのかもしれないが、恐怖の真っただ中にいる僕にとっては、巨大な棒を突っ込まれているかのようだった。

 

ガクガクと膝が震えている。

 

「動くと危ないからね」

 

横を向くと、すぐそばにユノの顔があった。

 

「...ふーっ...ふーっ...」

 

悲鳴を押し殺していられるのも限界だった。

 

「あともうちょっと。

あと10秒」

 

医師は励ましてくれる。

 

ぽたぽたと水滴が落ちてきた。

 

僕はユノの手を引っ張り寄せ、彼の手の甲で嗚咽を押し殺した。

 

「...っ!」

 

検査を終えるまでずっと、ユノは僕に噛まれるがままでいてくれた。

 

 

初体験の内診を終えた時、僕はポロポロ涙を流していた。

 

検査の結果、正式に『オメガ』だと診断された。

 

(つづく)

 

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(29)麗しの下宿人

 

連れていかれた先は市民病院だった。

 

大学病院や研究所など特別なところに連れていかれるかと想像していたから、拍子抜けした。

 

駐車場入り口に「満車」の看板が立っており、ガードマンのおじさんが怒りをぶつける運転手に頭を下げていた。

 

増築を繰り返したせいで統一感のない外観をしている。

 

院内に入った途端、汗がすっとひいた。

 

診察科目の案内プレートには、内科、整形外科、泌尿器科、心療内科...僕がかかりつけ病院と大して変わりがない。

 

院内は患者たちで混雑しており、待合用のベンチはどれも塞がっていた。

 

患者たちのざわめきは、高い天井の方へと吸い込まれていく。

 

身体が弱かった幼少期は近所の市民病院に入院していたが、そこは天井が低く圧迫感のある病室だった覚えがある。

 

「綺麗なとこだね」

 

「中央棟を改装したんだそうよ」

 

『オメガ』科がある病院とは、山奥にあり、まるで廃墟のような外観をしており、無表情の看護師、染みだらけの白衣を着た猫背の医師...僕のイメージはこうだった。

 

ところが実際は、明るく綺麗な建物だったり、アナウンスの声は聴き取りやすく行儀がよい。

 

これからどんな話を聞かされるか予想もつかないこともあって、僕の緊張感は和らいでいた。

 

「ユノさん、ありがとうございます。

助かりました」

 

母は恐縮しながらも、ユノの同行に感謝していた。

 

母によると、10年以上前までこの病院に通院し、診察や薬の処方を受けていたそうだ。

 

現在は服薬を必要としない点が不思議だと思った。

 

道中訊ねてみたけれど、その理由は母の口から説明しにくいそうだったから、より不思議に思った。

 

「あれ?

受付しなくていいの?」

 

総合案内カウンターを通り過ぎる母を後ろから呼び止めた。

 

母は「連絡は済ませてあるから」と迷いない足取りで、売店とリハビリテーション室も通り過ぎた。

 

コンビニエンスストア並みに充実した売店に気をとられた僕に、ユノは「後で好きなもの買ってやるよ」と笑った。

 

駅からずっと、ユノは1歩斜め後ろから僕の背後をガードするように歩いている。

 

(僕のことを守ってくれている)

 

売店を覗き見るほどの余裕があったのは、ユノの存在に頼りきっていたこともある。

 

残念なことに、電車内で繋がれた手は改札前で離されてしまった。

 

僕らは立ち入り禁止のロープの脇をすり抜け、関係者専用のエレベーターに乗り込んだ。

 

母が押したのは地下階へのボタンだった。

 

エレベーターに乗っていたのはわずかで、降り立ったところはおそらく地下2階か3階ほどだろう。

 

いよいよ緊張感が湧いてきて、全身が強張ってきた。

 

扉の真正面は突き当りになっていて、中央にのっぺらぼうなドアがあった。

 

母はドア脇のインターフォンを押した。

 

「どうぞ」と返答があった後、僕らはドアを開けて入室した。

 

グレーの床に有孔ボードの壁、配管がむき出しの天井、点滅する直管蛍光灯...殺風景な部屋を予想していたところ、ここは好感の持てる場所だった。

 

床は暖色のカーペット敷きで、目に優しいやわらかな光、手入れの行き届いた観葉植物、壁には水彩画が飾られている。

 

鼻をくんくんさせると、爽やかないい香りがした。

 

待合室にありがちなTVも雑誌ラックもなかった。

 

耳をすますと、オルゴール音楽が流されていた。

 

ここがどんなサービスを売る場所なのか、説明されなければすぐには分からないだろう。

 

(萎縮した『オメガ』たちをリラックスさせるために、予算をつかってコーディネイトされたのだろうと、ずっと後になって気付いた)

 

「凄いね。

病院じゃないみたい」

 

インターフォンに応えて出迎えた看護師を見て、ここが病院だということを思い出したくらいだ。

 

「この方は...?」

 

看護師が、僕らに同行してきたユノに対して不審そうな視線を注いでいたため、母は慌てて「『オメガ』ではないか?と知らせてくれたのが彼だったのです」と、母は看護師に説明していた。

 

原則として、この診療科に入室を許されるのは家族、本人と『特別な関係にある者』に限られるらしい。

 

ユノは単なる下宿人。

 

でも、僕とユノはとても仲がよい。

 

兄弟とも友人とも一言では言い表せない間柄だからこそ、『特別な関係』だと思っていた。

 

僕とユノは『特別な関係』にある。

 

『オメガ』になりたての僕は幼く無知だった為、『特別な関係』の裏に隠された真の意味など知りようがなかった。

 

待合用のベンチに座る間もなく、名前を呼ばれた。

 

もっとも、待合室には僕らしかいなかった。

 

診察室へは僕と母だけが通され、ユノは家族ではないことを理由に待合室に残された。

 

とたんに心細くなって、ユノの方を振り返った。

 

おそらく、半べそをかいた表情を見せていたのだと思う。

 

「頑張れ」というように、ユノは目頭で励ましてくれた。

 

僕は渋々頷いた。

 

同行してもらえなくて寂しかった。

 

 

医師はショートヘアの、さばさばとした感じの中年の女の人だった。

 

ギョロ目で髭の生えた恐ろし気な医者は嫌だったから、「あなたがチャンミン君ね、よろしく」と握手を求められて、ちょっとだけ気持ちが楽になった。

 

とは言え、いきなり捕獲された野良猫のような気分の僕は、こぶしを握っていないと震えているのがバレてしまいそうだったし、手の平も汗でぐしょぐしょだった。

 

「大丈夫よ、力抜いてね」

 

医師はニカっと笑顔を見せ、傍らのバインダーをひろげると、質問を読み上げていった。

 

オメガだと自覚したのはいつ頃か?

 

具体的にどのような変化があったのか?

 

声がカスカスでまともに答えられずにいる僕に代わって、母が答えた。

 

最初の質問に、母は一瞬迷ったようだ。

 

僕が『オメガ』だと気付いたのは、他人であるユノだったからだ。

 

僕本人でも母親自身でもない。

 

母自身が僕の変化に気付かなかったし、ユノの気付きのおかげで今、僕はここにいる。

 

いきさつを聞いた医師は「そういうことか...」とつぶやき、「後で彼に話を聞かせてもらおうか」と言った。

 

「今日は簡単な検査をしましょう。

まずは血液検査と内診ね」

 

「内診とは何だろう?」首を傾げていると、母が「内診の間、私も付き添っていいですか?」と申し出た。

 

すると、医師は「チャンミンくんは男の子だから、お母さんの付き添いを恥ずかしいと思うかも」と迷った風に答えたのだ。

 

「『内診』って何?」

 

「内診とはね、君のお尻の中を診ることなんだ」と、医師は申し訳なさそうに言った。

 

その回答に僕は愕然とした。

 

「お尻!?

お尻って...お尻って...!」

 

「そうなんだ。

パンツを脱がないといけない。

君のお尻の中を見せてもらうことを内診というんだ。

どうかな?

お母さんの付き添いは抵抗があるんじゃないかな?」

 

でも、ひとりで受けるのは怖かった。

 

「......」

 

12歳にもなれば羞恥心も大人並みで、母の付き添いは抵抗がある。

 

(女の人にお尻の穴を見られるなんて!)

 

女の医者だから余計に嫌だった。

(高熱が出た時に、母に座薬を入れてもらったことはあるけれど、母と他人は全く違う)

 

僕は閃いた。

 

「じゃあ、ユノちゃん...一緒に来てくれたあの男の人ならばいいですか?」

 

医師は僕の申し出に即答せず、迷っている風に見えた。

 

「許可する前に、ユノさんと言う人と話をさせてください」

 

ユノは僕と母と入れ替わりに診察室へ入っていった。

 

医師の話が長引いているのか、15分以上経つのにユノが診察室から出てこない。

 

ユノを待つ間飲み物を勧められ、母はお茶を僕はオレンジジュースを飲んでいた。

 

時計の分針が半周廻ったところでユノが出てきた。

 

「...ユノちゃん?」

 

どんな話をしてきたのだろう。

 

ユノの表情からはうかがい知れなかった。

 

「今から検査だってよ。

俺も一緒に居ていいって許可が出たよ」

 

「うん」

 

「よかったわね」とホッとした母の表情を見る限り、『内診』とは付き添ってあげたくなる位の心細くなる検査のようだ。

 

診てもらう場所が場所だからなぁ...。

 

でも、ユノが一緒にいてくれるのなら心強い。

 

大きくなったおちんちん以外ならば、今のところ何を見られたって恥ずかしくない。

 

「おいで」

 

僕は立ち上がり、差し出されたユノの手を握った。

 

(つづく)

 

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(28)麗しの下宿人

 

電車内はすし詰め状態だった。

 

(これが『満員電車』というものか...)

 

乗り込んですぐ、ユノは席がひとつ空いたのを素早く見つけ、遠慮する母を強引に座らせた。

 

そしてユノは僕の腕をひき、ドア前に立たせた。

 

つまり僕は、ドアとユノの間にサンドイッチされた状態になった。

 

電車が揺れると、乗客たちの塊がこちらへどうっと押し寄せてくる。

 

その都度、ユノの腕というつっかえ棒が僕を守ってくれた

 

窓ガラスにおでこをつけて、流れ去る景色を眺めていた。

 

ユノの両腕の間で、少しでも僕の身体がかさばらないよう、きゅっと身を縮こませていた。

 

(僕...臭くないかな...)

 

さりげなく首回りのタオルの匂いを嗅いだ。

 

僕の鼻じゃ、『オメガ』の香りとやらは嗅ぎ分けることができない。

 

恐る恐るユノの様子をうかがってみたところ、彼は涼しい表情をしている。

 

(よかった)

 

僕の視線に気づき、「どうした?」と言った風に視線を返してきたから、僕は笑って首を振った。

 

足元に視線を落とすと、僕のスニーカーの足が、ユノの大きな革靴の間におさまっている。

 

ドンッ、という音と共にドアが揺れた。

 

「!!」

 

電車同士がすれ違った時の衝撃音だ。

 

「気分...悪くないか?」

 

ユノの温かい吐息が耳に触れた。

 

頬が粟立った。

 

「ううん、平気」

 

車内は冷房が効きすぎていて、寒いくらいだったから、僕は二の腕をさすって鳥肌だったのを誤魔化した。

 

するとユノは立つ位置を変えて、空調の吐き出し口の盾となってくれたのだ。

 

(ユノは優しいな)

 

僕はうつむいたままタオルの端を握りしめた。

 

電車は幾駅分も停車と発車を繰り返した。

 

僕の知らない駅名がアナウンスされ、電車は徐々に減速してゆく。

 

駅のホームには、沢山の人々が電車を待ち構えている。

 

みんな難しい顔をしている。

 

リュックサックを背負っていて、よかった。

 

背中いっぱいにユノの身体が密着してしまったら、息が出来なくなってたところだ。

 

おかしいな...ユノは友達なのに...

 

身体と身体がくっつくと、鼓動が早くなってくる。

 

(ユノは男なのに)

 

 

カタンカタン、カタカタン...。

 

 

ドキドキを鎮めようと、レールを走る車輪音に意識を移そうとしてみたけれど、数秒ももたなかった。

 

(僕も男なのに)

 

ドンっと、再びの衝撃音。

 

「大丈夫か?」

 

ユノは背後から、ビクついた僕を心配して顔を寄せた。

 

「う、ううん...音にびっくりしただけ」

 

僕は内心「顔が近い、近いよ!」と悲鳴をあげていた。

 

覗き込んだユノの瞳に、僕の顔が映っているのを見てとれるほどの近くだ。

 

電車が大きく揺れた。

 

「!」

 

直後、ユノの顔がぐんと近づいてきて、僕は慌てて目をつむった。

 

「キスされる!」と思ってしまったのだ。

 

ところが実際は、よろめいた人波がユノの背を押しつぶそうとしたのだ。

 

(この前なんて、キスしちゃったし。

僕は何を考えているんだろう)

 

うなじのあたりが、かぁ~っと熱くなった。

 

ユノの大きな身体が堰き止めてくれている。

 

ユノの足の向こうで、いくつもの革靴やハイヒール、スニーカーが踏ん張って、揺れに抵抗しようとしている。

 

電車が揺れるごとにTシャツの下でユノの筋肉に力がこもるのが分かる。

 

アナウンスの声。

 

今度は僕ら側のドアが開いた。

 

ユノはまごつく僕を抱きかかえるようにして、ホームに降り立った。

 

勢いよく吐き出される乗客たちは殺気立っているように見えた。

 

車内を見ると、母が小さく手を振っていた。

 

電車内の乗客が入れ替わった頃合いをみて、僕らは車内へと先ほどまでの定位置に戻った。

 

リュックサックを通して、ユノの筋肉の熱が伝わってくる気がする。

 

何度も一緒にお風呂に入っているから、ぐっと力を入れた時にどんな凸凹がみぞおちに浮かび上がるか、僕は知っている。

 

(僕は何を考えているんだろう!)

 

ユノに護られている僕は、決しておしくらまんじゅうされることはない。

 

「ユノは満員電車、慣れてるの?」

 

「まさか!

俺も未だに電車とか慣れていないよ。

慣れてるフリしてるだけ」

 

「バイトに行く時、電車を使うの?」

 

ユノの大学は歩いて行ける距離にある。

 

「まあね。

始発で帰るから、電車はがら空きさ」

 

バイトがある日のユノの帰宅は早朝だ。

 

「お!

次の駅だぞ」

と、ユノは僕の肩をポンと叩いた。

 

窓の外は暑そうだ。

 

線路沿いの看板や窓ガラスに反射した太陽の光が、時おり僕の目をぎらりと射った。

 

地面に落ちる影色が濃い。

 

開いたドアの向こうから、蒸し暑い空気が流れ込んできた。

 

「降りよう」

と、ユノに手を握られて、胸の芯が熱くなった。

 

この感じ...何だろう?

 

(つづく)

 

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(27)麗しの下宿人

 

空になった朝食のトレーを持って下の階に戻ると、既に母は仕事に行った後だった。

 

台所のテーブルの上に封筒に入った手紙が2通置かれていた。

 

1通は僕宛で、もう1通はユノに渡して欲しいとメモ書きが添えられていた。

 

僕宛の手紙は、『オメガ』について書かれているんだろうと予想した通りの内容だった。

 

母も僕もとても珍しい人種であること。

特に男の人の『オメガ』は珍しいこと。

薬の服用が必要なこと。

『オメガ』であることは隠さなければならないこと。

僕が今一番やらなければならないこととは、専門病院に行くこと。

 

「......」

 

『隠さなければならない』の言葉に、僕は引っかかった。

 

ユノが言っていたように、外出する時はうなじを晒さないようにすることも、隠す行為に含まれるのだろう。

 

学校には行けるのだろうか?

 

教師やクラスメイトにバレるよね?

 

学校は嫌いだから、行けなくなっても困らない、むしろ好都合...なんて思ったりして。

 

でも、僕の香りに気付ける人はほんの少ししかいないとも言っていたから、コソコソと隠れまわる生活まではしなくてもよいのかな。

 

『オメガ』を知っている人はどれくらいいるのだろう?

 

『オメガ』を知らない人たち相手には、隠す必要はないよね?

 

ユノから知り得た情報は、オメガの全貌のうち米粒ほどのボリュームに過ぎないだろうから、無駄な心配事で頭がいっぱいだ。

 

短い手紙の文面から答えを見つけようと、言葉の裏に隠された意味を深読みしていた。

 

ひとつ確実に言えることは、母の手紙とユノが話していた内容は、ほとんど同じだったということだ。

 

母の手紙はこうしめくくられていた。

 

『チャンミンが『オメガ』だと知り驚きましたが、だからと言ってあなたへの愛情は変わりありません。

身近にお母さんという先輩がいるのですから大丈夫。

今後の暮らしについては一緒に考えてゆきましょう』

 

「うん、わかったよ」と、心の中で返事した。

 

 

ユノ宛の手紙は直接手渡そうと思ったけれど、玄関の彼のスニーカーが無くなっていた。

 

明るい時間帯の外出だから、きっと大学へ行ったのだろう。

 

サンダルを履き表へ出た僕は、ギラギラまぶしい太陽の光に封筒をかざしてみた。

 

当然、折りたたまれた便箋の影が透けてみえるだけだ。

 

(何が書かれているのだろう...)

 

今度、ユノに教えてもらおうと思った。

 

 

脱水後、放置されていた洗濯物を干し、食器を洗ってしまうと、やることが無くなってしまった。

 

ゲームには興味ないし、ひとりでプールへ行く勇気もない。

 

それから、ユノもいない。

 

友人のいない夏休みは、とにかく暇なのだ。

 

宿題をテーブルに広げかけた時、図書館に行こうと一瞬迷い、窓の方に目をやった。

 

ダイニングの壁を明るい光が鋭く四角くくりぬいている。

 

日陰でこの明るさならば、表はもっとまぶしくて暑いだろう。

 

冷房の効いた館内は魅力的だけれど、正体を隠さなければならない身の上を思うと、今日は控えておいた方がいい。

 

1日家から出ないと決めた僕は、宿題の2日分のノルマを仕上げることにした。

 

ユノに勉強を教わったり、頻繁に図書館通いをしているからといって、誇れるほどの成績ではない。

 

答えのページを見ながら算数ドリル済ませ、単語の意味をかき取る国語の宿題に取り掛かった。

 

「辞書辞書...」

 

ユノは僕が子供だからと容赦せず、難しい言葉を使うため辞書をひく機会は多い。

 

部屋の本棚にはなくて、最後に使った時を思い返してみたところ、休日用のトートバッグに入れっぱなしにしていたことを思い出した。

 

辞書と一緒に1冊の本が目に留まった。

 

(そういえば...)

 

課題図書は、オオカミの父とヒツジの母との間に生まれた特異な子が主人公のお話だった。

 

先日図書館へ行った際、読書感想文の宿題は既に仕上げてしまっていた。

 

オオカミとヒツジの間に子供が生まれるとは、あまりにも非現実的だ。

 

けれども、深く愛し合い互いを大切に思う気持ちがあれば、見た目や種族を超えて奇跡が起きる。

 

僕は父母であるオオカミとヒツジの愛情深さに注目したのだった。

 

手直ししようと読み直してみたけれど、気恥ずかしすぎて途中でギブアップしてしまった。

 

(いいや、このまま提出しようっと)

 

その日図書館でとても怖い思いをしたせいで、読書感想文のことをすっかり忘れていた。

 

「そういえば...」

 

僕のタオルはどこに行ってしまったんだろう。

 

誰かに拾われることなく、側溝の底に泥まみれになっているかもしれないし、誰かが持ち帰ってしまったのか。

 

...オメガの香りが染みついたタオル。

 

大したことないと思っていたけれど、タオルの紛失を知った時のユノの顔色がさっと変わったことを思うと、全然大したことじゃなかったのかもしれない、とひやりとした。

 

 

予約時間に合わせて、僕らは8時に家を出た。

 

「僕ら」とは、僕と母とユノの3人のことだ。

 

約束通り、ユノは僕の通院に付き添ってくれることとなった。

 

その病院は、電車で1時間離れた場所にある。

 

よそ行きの恰好をして出かけること自体が久しぶりだ。

 

さらに大好きなユノも一緒で、僕はウキウキしていた(こういうところが子供だ)

 

母は下宿屋の表玄関の鍵をかけ、開けっぱなしの門扉も閉めた。

 

勝手口に鍵をかけることはあっても、下宿人が出入りする表玄関に鍵をかけることなど、これまで1度もなかったのではないだろうか。

 

(母は仕事、僕は学校、ユノも学校、という日は、管理棟の出入口は施錠しても、表玄関は常にオープンだ。

その為、下宿人は自室に鍵をかけて出掛けるルールになっている。

『盗まれるものなど無い』と、ユノはそのルールを守ったためしはない。

下宿人はユノ一人だからと、表玄関の鍵を預けようとしたら、『失くしてしまうから、要らない』と断られてしまった。

我が下宿屋も盗まれて困るものは無いに等しいので、ユノの好きなようにさせている。

でも、今日の場合は違う。

全メンバーが揃ってのお出掛けで、真の意味でこの下宿屋が留守になるのだから今日こそ鍵をかけなければならない)

 

T字路脇の民家に大きな桜の木があり、剪定を怠った枝が歩道に張り出している。

 

その真下を通りかかると、早々と鳴きだした蝉たちの声にわん、と包み込まれた。

 

寝返りをうってばかりの熱帯夜のせいで、寝不足の気怠い身体をひきずって歩く。

 

背中に浴びる朝日が熱い。

 

僕は保冷剤を包んだタオルを首に巻き、母は日傘をさし、ユノは後ろポケットに財布だけ の手ぶらだった。

 

午前の早い時間帯だというのに、駅までの道中でひと汗かいてしまった。

 

通勤通学の時間帯のせいで、駅構内は混雑していた。

 

ユノは「ここで待っていてください」と僕らに言い置くと、券売機の方へ駆けて行った。

 

券売機前の行列の中でも頭一つ分、キャップをかぶったユノの頭だけがひょこっと出ている。

 

雑踏の中で、ユノだけが光って見える。

 

ユノは目立つ。

 

隣の列に並んでいた若い女の人たちが、ユノの方をちらちらと見ている。

 

全身舐めるように観察されているのに、ユノは気づかないのか、頭上の路線図を見上げている。

 

こんな人が、あんなボロ下宿屋に暮らしているんだからなぁ、凄いよなぁと、しみじみ思った。

 

大学やバイト先でもきっと、ユノはモテているんだろうなぁ。

 

『彼女』はいるのかなぁ。

 

(あれ...?)

 

モヤっと嫌な気持ちになった。

 

(つづく)

 

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