(12)僕らが一緒にいる理由

 

「ユノさんが買ってきてくれたヤツなんだ」

 

香ばしいよい香りに、アオ君はコーヒーを淹れようとしているようだ。

 

「量はこれくらいでいいのか?

...よくわからんけど、いっか。

あれ?

お湯が先か?」

 

ブツブツ言いながら台所でがちゃがちゃ音をたてるばかりのアオ君を見かねて、彼を手伝おうと立ち上がった。

 

「おっかしいなぁ」

 

「何が?」

 

このアパートの調理設備は小ぶりのシンクにまな板すら置けない極狭の調理台、1口電気コンロ、シンク台の下に備え付けの小さな冷蔵庫...これが全てだ。

 

アオ君と並んで立つと、彼の頭のてっぺんは僕の目の高さにあった。

 

髪の密度は高く、髪色は今どきの子にしては珍しく真っ黒だった。

 

調理台にコーヒーの粉が散らばっており、お湯が既にマグカップに注がれていた。

 

「ちゃんとできてるじゃないの」

 

「俺がイメージするコーヒーと違う」

 

「どこが?

インスタントコーヒーでしょ?」

 

「多分。

ユノさんが買ってきてくれた。

でも、粉が全然溶けてくれない」

と、アオ君はスプーンで中身をぐるぐるかき混ぜている。

 

「お湯は沸騰させた?」

 

「もちろん」

 

アオ君から受け取ったマグカップは、彼の言う通りしっかり熱いが、スプーンで攪拌されたコーヒーの粉が溶けることなく渦を巻いていた。

 

「あ~あ...」

 

僕は嘆息した。

 

家事初心者にドリップコーヒーはハードルが高いだろうに。

 

「これ、インスタントコーヒーじゃない。

最低でもコーヒーフィルターとドリッパーっていう道具が必要なやつだよ」

 

「へぇ...」

 

「買う時に確認しないと間違えやすいから仕方がないんだけど...」

 

僕の夫は日常的な買い物はほぼ僕に任せっきりだ。

 

アオ君だけじゃなく、夫にも家事のあれこれの再教育が必要そうだ。

 

 

無駄になってしまったコーヒーはシンクに捨てた。

 

「スープなら持ってきたよ」

 

魔法瓶に詰めてきたコンソメスープを、空になったマグカップに注いでアオ君に手渡した。

 

「すげぇな」

 

舌を焼くほど熱いスープをふうふう飲むアオ君を、僕は親鳥の目で見守った。

 

「美味しい?」

 

「うん。

出来合いの飯はいい加減飽きてきたんだ」

 

つい先日知り合ったばかりなのに既に打ち解けた感じがするのは、彼が漂わせる何かのせいだと思う。

 

それが何かは説明できないけど。

 

夫曰く、アオ君はセンシティブで人見知りする子らしいが、馴れ馴れしい口調から判断するに特定の人に対してのみ人懐っこくなれる子なんだろうな。

 

夫に見せる顔と僕に対する態度と随分違うようだ(夫にチクってやらねば)

 

でも、気を許してくれているようなので、嫌な気はしなかった。

 

「あのさ。

気になってたんだけど、僕のこと呼び捨てしてるよね?

ユノのことはさん付けじゃん。

なんで?」

 

「なんでって...」

 

僕からの質問に、茶色い弁当をむさぼり食っていたアオ君は、箸を止めた。

 

「う~ん」とアオ君は僕の顔をまじまじと見つめた後、「分かんね」とだけ言って、弁当の続きに戻ってしまった。

 

「今日、チャンミンが来てくれてちょうどよかったよ。

ユノさんにばかり世話になってて、俺って面倒くさい奴だから負担かけてて悪いなぁ、って思いかけていたんだ。

もっと早くチャンミンに頼ればよかったんだけどさ」

 

「ホントにその通りだよ」

 

浮気を疑って嫉妬で苦しんだことは、17歳の子供に口が裂けても打ち明けるものか。

 

「ユノさんの奥さんがどんな人か興味があったから、そろそろ会ってもいいかな、って思いかけてたんだ」

 

「お、奥さんじゃねぇし!」

 

「ユノさん、チャンミンのことを『奥さん』って言ってた。

1回か2回くらいだったけど、ついポロっと出てしまったんだな」

 

僕は内心で「ユノめ~」と唸っていた。

 

そりゃあ僕は、家のことをこまごまと手をかけることが好きだけど、イコール奥さんだと思われることに複雑な心境を抱えている。

 

僕だって『夫』だ。

 

そう力んでしまう辺りも、夫イコール男らしい保護者だと思っている証であり、案外僕の中にも世間の常識が染みついているようだ。

 

そこから、夫に対するひがみや劣等感が生まれているのだと思う。

 

「俺に弁当を届けてくれたり、スープなんて液体まで!

まさしく『奥さん』だよ」

 

表情を曇らせた僕にハッとして、アオ君は「誤解するなよ」と言った。

 

「性別は関係ない。

チャンミンは『奥さん的』...そういう意味さ」

 

「あっそ」

 

外はすっかり暗く、正座をした僕と背を丸めて食事中のアオ君が窓ガラスに映っていた。

 

「そろそろ帰るね」

 

僕は立ち上がり、軽くなったトートバッグを肩にかけた。

 

「今日はありがとな。

弁当、美味かった」

 

素直に礼を言うアオ君に、「いい子ではないか、よしよし」と満足した。

 

「そうだ!」

 

ドアを開けると冷たい冬風が室内に吹き込んできた。

 

見送りは要らないという言葉に構わず、僕の見送りに立ったアオ君を振り返って、僕は訊ねた。

 

「アオ君から見て、ユノはどう見える?」

 

「ユノさん?

...完璧だと思う」

 

「やっぱり?」

 

僕の顔はふにゃふにゃに緩んだ。

 

「うっわ~。

さらりと惚気るね」

 

「堂々と惚気られるほどの仲ってことだよ。

それでさ、どういうところが完璧?」

 

「え~っと、顔?」

 

「顔だけ?」

 

「スタイルも」

 

「他には?

ルックスだけじゃなくて、性格とかさ。

教えてよ」

 

「あのさぁ」

 

アオ君はため息をついた。

 

「あえて俺に訊かなくても、チャンミンが分かってることじゃん?」

 

「でもさぁ、やっぱり人の口から聞いてみたいものじゃないの」

 

「ざっくりまとめると、ユノさんは『完璧』

...言っておくけど、恋愛感情をもってユノさんを奪うようなことはしないよ」

 

「分かってるよ、それくらい」

 

不思議なことに、その点は心配していなかった。

 

初対面の時に、夫とアオ君の関係に色恋は生じていないことを感じとっていたのだから。

 

夫の隣で10年近くい続け、何があろうと信じて当然の仲のはずだったのに、あろうことか浮気を疑い、浮気しているのを前提に尾行したくらいだ。

 

男の家を訪ねていた夫を見た時、よく確かめもせずに「浮気確定」スタンプを押しかねないほど頭に血がのぼっていたのに、しゅんとその疑いが消えてしまったのだ。

 

夫とアオ君の間には何もない。

 

「じゃあね。

ほら、早くドアを閉めなきゃ。

部屋が寒くなっちゃう...」

 

思い出したことがあって、閉めかけたドアを再び開けた。

 

「虫は?

平気なの?」

 

僕の質問に、照度乏しい玄関先でも明らかに分かるほど、アオ君の顔は青ざめた。

 

 

 

~夫の夫~

 

予定より仕事が早く終了し、駅近のレンタルショップでDVD...ごりごりのホラー映画...を借りた。

 

ホラーの中でもスプラッタ映画が超苦手なくせにそれを選択したのは、夫と共に鑑賞する時間が楽しいからだ。

 

殺人鬼の足音に息をのみ、血しぶきが舞う度に、俺は夫の胸ぐらにしがみつく。

 

対して、夫は「怖いなら観なきゃいいじゃないの」と、ポップコーンをつまみながら、俺に頼られてまんざらでもない表情をみせるのだ。

 

 

「ただいま~」

 

カラカラと玄関の戸を開けると、10秒もしないうちに「おかえり~」と出迎えがあるのだが...。

 

「...は?」

 

驚きで俺の口はあんぐりと開いた。

 

出迎えたのはアオ君だったのだ。

 

(つづく)

 

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(11)僕らが一緒にいる理由

 

 

夫からは、くれぐれも干渉し過ぎるなと釘を刺されていた。

 

でも、人間関係においてアオ君がどの程度の距離感を好ましく思っているのか、1対1で会話してみないことにははかれない。

 

遠い親戚筋(親の従兄弟)に過ぎない我が夫を頼りにしてくるとは、親を当てにできない事情があるのだろう。

 

と思いつつも僕自身、近しい存在であるこそ言いづらい事柄も多かったことを思い出していた。

 

就職せずにBL作家の道を選択したこと(未だに僕の作品を両親に披露することはおろか、執筆ジャンルすら知らせていない。内緒を貫いている)

 

夫との婚約報告自体が、僕の恋愛対象が男であることのカミングアウトだった。

 

受け入れがたいことを、受け入れたふりをしてくれている彼らに感謝している。

 

にもかかわらず僕が長らく帰省していないのは、両親とぎこちない関係にあるわけではない。

 

帰省しづらい理由は、夫が彼自身の家族からほぼ勘当状態にあるからだ。

 

かつて夫を連れて我が実家に帰省した時、彼らのウェルカムな雰囲気に夫は戸惑っており、心から楽しんでいる風には見えなかった。

 

そして僕は、夫の目に羨ましさと寂しさの涙を見つけてしまったのだ。

 

 

アオ君の実家はどの辺りにあるのだろう。

 

夫のお世話を受け入れているあたり、アオ君は一人暮らしを満喫するタイプではなさそうだ。

 

今の暮らしを心細く思っているに決まってる。

 

ウィンナーに切り込みを入れながらアオ君の事情に想像を巡らし、同時に白米にするかワカメご飯にするか迷っていた。

(マルチタスクができなくて、主夫はやってゆけないのだ)

 

 

アオ君の為に「茶色い弁当」を作り終えた僕は、それを一旦冷蔵庫に入れ、自らの仕事にとりかかった。

 

僕の小説は主にWebサイト上で公開されていて、原稿を1本納めるごとにいくらと決められており、そこに販売実績分の原稿料が追加される。

 

(僕だけの原稿料では絶対に生活できない、夫の稼ぎ頼りなのだ)

 

シーツを洗濯し、12時ぴったりに昼食を摂り、午後の執筆スタート。

 

アイデアがどんどん湧いてくるものだから、キーボードを打つ指が追い付かない。

 

途中頭が煮詰まってしまい、気分転換にと夕飯の下ごしらえをしてから再び執筆。

 

(今夜はカレーライスだ)

 

「うう~~ん」

 

凝り固まった首をストレッチしようとのけぞった時、上下逆にに飛び込んできた掛け時計に慌てた。

 

気付けば日が傾きかけていた。

 

執筆がはかどり過ぎて時間を忘れていたのだ。

 

「やばっ!」

 

夫が帰宅するのは遅くて9時...頭の中で素早く計算する。

 

往復で徒歩40分、時間は十分、時間的にアオ君が在宅している可能性は高い。

 

「よし、直接手渡しできるぞ」

 

軒下に長く干し過ぎたせいで、ひんやり冷たくなってしまったシーツを取り込んだ。

 

僕はアオ君のための弁当箱をトートバッグに入れ、彼のアパートメントへ向けて出発した。

 

 

昼間に見るアパートメントはメルヘンチックさがより増して見え、平凡な住宅街の中で浮いている

 

壁はピンク、ミントグリーンだと思っていた窓枠は実際は淡いブルー、外階段の手すりは淡いイエローと、ありったけのパステルカラーを集めた色彩空間。

 

アプローチの芝生に埋もれる小人は このアパートメントが完成した時から居るのか半分苔むしていた。

 

遊園地の園内でお菓子やぬいぐるみを売っていそうな建物と言ってもおかしくない。

 

高校生のアオ君がここをチョイスした基準がよくわからない。

 

(家賃がとっても安いとか?

男が住むには勇気がいるなぁ)

 

僕はキョロキョロとアパートを観察しながら階段を1歩1歩上り、5部屋あるうち真ん中の部屋のベルを押した。

 

室内に鳴り響くチャイム音は電子的ではなく、『キンコーン』と鐘の音だった。

 

ガチャっと鍵が外れる音の後、ミントグリーンのドアが開いた。

 

2度目に会うアオ君は、やっぱり好ましい顔をしていた。

 

セーターとデニムパンツ姿なのは、制服から着替えた後なのだろう。

 

「やあ」

 

アポイント無しで訪問してしまって、ちょっと非常識だったかな?と思った。

 

ところが、アオ君は突然の僕の来訪に驚いた風でもなかったのだ。

 

「あれ~、チャンミンじゃん!」

 

(呼び捨て!?)

 

僕を出迎えたアオ君の言葉に、僕は固まってしまった。

 

「や、やあ」

 

「うちに来てくれたってことは、それ...」

 

「ん?」

 

「手ぶらじゃないんだろ?」と、僕のトートバッグの中身を覗き込もうとした。

 

「そ、そうなんだ!

夕飯代わりにどうかな?って...作ってきたんだ」

 

「やったね。

ま、入りなよ」

 

「あっ!?」

 

アオ君は僕の腕をとると、室内へと強引気味に引き込んだ。

 

「そろそろ来るんじゃないかって思ってたんだ」

 

「なんで分かったの!?」

 

暖房機器は小型の電気ストーブだけで、室内は寒々としていた。

 

今気づいたのだが、この部屋にはテレビもなく、学生なら持っているべきデスクもない。

 

生活感がない。

 

「チャンミンって、『いかにも』そんな感じだったからさ。

どれどれ?」

 

アオ君はケラケラ笑い、僕のトートバッグを引き寄せると、勝手に中身を漁り出した。

 

「『いかにも』って、何だそれ?」

 

「でっけぇ弁当だなぁ。

これ、俺のため?」

 

「う、うん」

 

「チャンミンって世話好きな感じがしたんだ。

食ってもいい?

腹減った」

 

「め、召し上がれ....」

 

アオ君と最初に会った時と今とのギャップに、僕は面食らっていた。

 

「...俺とユノさんが内緒で仲良くしてること、ジェラってただろ?」

 

「!」

 

図星の僕は何も言えない。

 

「『僕も仲間に入れて!』って、ウズウズしている顔をしていた」

 

「してないし!」

 

「正直になりなよ。

お茶でも飲む?

お湯くらい沸かせるぞ?」

 

ワンルームタイプのこの部屋は、居室と台所が一体となっている。

 

アオ君は立ち上がると、流し台に置かれたポットに水を入れ、スイッチを入れた。

 

(真新しいから、きっと夫のアドバイスを元に買ったものだろう)

 

「あ!」

 

アオ君の足元に気付いた僕は吹き出してしまった。

 

「あははは!

アオ君、可愛いね」

 

「可愛いって、何だよ!」

 

アオ君は、笑い出した僕にワケが分からずムッとしている。

 

「アオ君ってさ、もしかして冷え性?」

 

「なんだそれ?」

 

「それ」

 

僕は毛糸のざっくり編みの靴下を指さした。

 

「う、うるせぇ!

この部屋が寒すぎるんだよ!」

 

10歳以上年上の僕にタメ口をきく生意気な奴であっても、真っ赤になってムキになっているアオ君は、やっぱり17歳の男子だった。

 

見覚えのある靴下だった。

 

夫が僕の引き出しから持ち出したのだろうな、きっと。

 

(つづく)

 

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(10)僕らが一緒にいる理由

 

窓から差し込む光がまぶたを射って、眩しさに目が覚めた。

 

「う、う~ん...」

 

枕に半分顔を埋めたまま、視線だけサイドテーブルへと向けた。

 

ぼやけていた目覚まし時計の針の輪郭が、徐々にくっきりしてゆくにつれ、僕のぼやけた脳みそが現状を把握してゆく。

 

え~っと、今の季節だと、僕が起床すべき時間帯では目覚まし時計なんて読み取れないはずなのになぁ...と。

 

え~っと、今日は何曜日だっけ?

 

「!!!」

 

視覚情報が脳みそに追いついた時、僕の全身にブルンとエンジンがかかった。

 

(寝坊!!)

 

ハッとして飛び起きたいところだったが、邪魔をするものがあった。

 

僕を抱き枕代わりにしている夫の腕の下から、僕は力任せに抜け出た。

 

「さむっ!」

 

寿命が数年縮んだのではと思うほど心臓がぎゅっと縮こまり、僕の素肌に鳥肌が立った。

 

夫という名の人間湯たんぽのおかげで、寝床の居心地が良すぎるあまり、昨夜裸のまま寝入ってしまったことを忘れてしまっていた。

 

3夜連続の夫夫の営みが3夜連続だったことも、内容がこってりと濃いものだったのも、アオ君の登場が僕らの間にパッションの火花を散らしたのだ。

 

夫夫関係にマンネリしかけていた僕にとって、夫の嘘や浮気疑惑がいいスパイスになった結果だ。

 

「さみさみさみさみ...」

 

昨夜夫が脱ぎ散らかしたフリース・ガウンとスリッパを身に着け、台所まで走って、真っ先にストーブをつけた。

 

今朝はとにかく時間がない。

 

お手軽質素なメニューであっても、夫の胃袋を満たしてやることが最優先なのだ。

 

インスタントスープのためにお湯を沸かし、冷凍ご飯を電子レンジで温めた。

 

「おはよ...」

 

僕に遅れて15分後、寝ぼけまなこの夫が僕の後ろを通り過ぎていった。

 

まぶたが半分しか開いていなかった夫は、キリっとした顔になって洗面所から戻ってきた。

 

「今朝寝坊しちゃって...ごめんごめん」

 

夫は「朝めしがあるだけで有難いよ」と優しく笑って、目玉焼きのせご飯をかき込んだ。

 

(アレした翌日は心身ともに充実しているおかげか、互いに優しくなれる)

 

「今夜はちょっと帰りが遅くなる」

 

夫の台詞に「またかよ」と僕は目を剥いた。

 

「そういうのさぁ、もう止めてくれないかな?

ホントのこと言ってよ」

 

しら~っと冷たい目になる僕に夫は慌てた。

 

「違う違う!

今日のは正真正銘の残業。

使えない新人くん絡みのトラブルの後始末なんだ。

金曜にチャンミンに言い訳したことは、あながち全部嘘じゃない。

持ち帰りの仕事があったのは本当だったけど、せっかく金曜の夜で早く帰ってチャンミンと飯が食いたかったのは本当のこと。

でも、わざわざ持ち帰らなくてもいい仕事だった。

週明けでも十分間に合うからさ」

 

「ふ~ん」

 

嘘と真実を混ぜ合わせるという高度な嘘をついてくるとは、「ユノのくせにやるな、おぬし」と思った。

 

「何時頃になるの?」

 

「9時までには帰ってこられる」

 

「分かった。

行ってらっしゃい」

 

玄関まで夫についてゆき、見送る際 弁当は間に合わなかったから、昼は適当に食べて」と昼食代を手渡した。

 

今日の夫は紺色のスーツ。

 

う~ん、今日の夫もカッコいい。

 

戸が閉まるのを見届け、「さて、朝の情報番組でも見ますか」と玄関に背を向けた時、ドアが勢いよく開いた。

 

「今日は何を忘れたの!?」

 

僕は思いっきり呆れた表情を作って、夫の方を振り返った。

 

「財布?

ケータイ?」

 

夫が忘れ物を取りに戻ってくるのは、珍しい事ではないから、僕の対応も慣れている...なんて思っていたら、すっと夫の顔が近づいてきて柔らかいものが僕の唇に...。

 

「行ってらっしゃいのキス...」

 

ベロ無しのスイートなキスに僕は呆然と立ち尽くす。

 

夫は「じゃあね」と爽やかな笑顔を見せ、あっという間にドアの向こうに消えてしまった。

 

「悔しい!」

 

床を転げまわりたいほどの恥ずかしさで胸がこそばゆくて、なんだかんだ言って夫の手の平の上で転がされている自分に地団駄を踏むのだった。

 

「ったく、僕をからかいやがって!」とぶつくさ言いながらも、夫夫間の胸のつかえが取れたし、3連夜のエロのおかげでさらに平和になった。

 

...このような流れで、いつもの1日がスタートしたのだが、今日の僕にはプランがある。

 

実は「今夜は遅くなる」と言った夫の言葉に、僕は内心「ラッキー」とほくそえんでいたのだ。

 

僕は冷蔵庫をのぞき、卵やウィンナー、豚肉のパック、冷凍もののフライなどを次々と取り出した。

 

(凝ったものは作れないけど、こういう茶色いおかずの方が案外好まれるんだよね)

 

「さて、作りますか」

 

僕は割烹着の袖をまくしあげた。

 

(つづく)

 

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(9)僕らが一緒にいる理由

 

「そんな男にあいそ尽かして、新しい男を見つけたんじゃないかって...そう思ったんだ。

いや...『女かもしれない』とも思った」

 

「見つけるかよ」

 

僕は夫の首に両腕を巻きつけた。

 

「最初から言ってくれればよかったのに」

 

「...ごめん」

 

真正面から抱き合ったのって、いつ振りだっけ?

 

「さっきも言ったけど、気軽な話し相手のつもりでいたんだ。

事情有りの子だったし、チャンミンに深入りさせたくなかった...っていうか。

はは、言い訳してるね。

とにかく俺が悪かった。

ごめん」

 

「アオ君だけじゃなく、僕も面倒くさい男だ!」

 

「...俺は、面倒くさい男が好きだ。

一筋縄ではいかない男が好きだ」

 

夫は僕の背をさすった。

 

こんな風に全身を互いに預け密着しているのに、ムラムラくるどころか、安心感に包まれるのは『家族』だから?

 

「俺も面倒くさい男だ」

 

「そうだよ、ユノは面倒くさい男だよ。

僕がいないと何もできない男だよ」

 

「ああ。

チャンミンがいないと駄目なのに、浮気なんてするわけないよ」

 

「...僕は家政夫じゃないんですけど?」

 

ああ言えばこう言う男、それが僕。

 

「そういう意味で言ったんじゃないよ」

 

「あっそ」

 

僕は素っ気なく言い、夫の腕の中から逃れて洗面所へ向かった。

 

我が家ではリビングが唯一温かい部屋で、しんしんと冷え込む廊下の床なんてスリッパ無しで歩けない。

 

「チャンミ~ン」と、夫は僕を追いかけてくる。

 

「ごめんよ、チャンミン。

黙ってた俺が悪かった。

今思うと、どうして内緒にしていたのか分かんないよ」

 

「歯が磨けないじゃないか、離れてよ」

 

「離れない」

 

にゃんにゃん猫のようにすり寄ってくる夫を肘で押しのけ、カゴからパジャマを取って再び温かいリビングに戻った。

 

もちろん夫は僕の後を追ってくる。

 

「機嫌直して、お願い」

 

「......」

 

「チャンミ~ン」

 

(そうだそうだ。

せいぜい僕のご機嫌取りをするんだな。

悶々と過ごす羽目になった期間を償ってもらうには、無視程度じゃ足りないけれどさ)

 

ストーブの前でパジャマに着替えていると、背後からすっぽり夫に抱きくるまれた。

 

「もう寝るの?」

 

「ああ、そうだよ。

くたくただよ。

全部、ユノのせいだよ」

 

「ごめん」

 

夫は僕の背中に体重を預け、僕の首筋に鼻を擦りつけ、ついでに耳たぶを噛んだ。

 

「おい!

やめろ!」

 

「やめない」

 

僕の肩はがっちり夫の腕に捉えられているから、逃れようにもそれが出来ない(悔しいが、夫の腕力には勝てない)

 

「あっそ」

 

仕方なく僕は寝室まで夫を引きずっていくのだが、僕の耳にふうふうと熱い吐息が幾度も吹きかけられた。

 

背筋にぞくぞくと痺れが走り、その痺れが下半身を刺激し出したのだ。

 

そして不覚にも、「あ、はぁん」なんて声を漏らしてしまった。

 

「許して、チャンミン。

今夜は目一杯可愛がってやるから」

 

「可愛がって『やる?』」

 

「可愛がらせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

「......」

 

「精一杯ご奉仕させていただきます」

 

先ほどから僕の腰につんつん当たるものを、僕は後ろ手でぎゅっと握った。

 

「...しゃあねぇな」

 

僕らは寝室に着くなり、もつれあったままベッドにダイブした。

 

夫は素早く掛け布団を床に落とし、僕はサイドテーブルの引き出しを漁る。

 

ぱぱっと服を脱ぐ。

 

色気もムードもないけど、夫夫なんてこんなものではないでしょうか?

 

...その後の流れはご想像通り。

 

どれくらいぶりだっけ?

 

1か月?

 

3週間?

 

明日、日記帳で確認してみようっと。

 

 

パンツだけ穿いて、温かい布団の中でごろごろしていた(ベッドの下に散らかしたティッシュは朝、片付けることにしよう)

 

ベッドサイドの目覚まし時計を見ると、午前1時...かれこれ1時間ほど睦み合っていたようだ(言い表し方がいやらしいな)

 

カーテンで隠された窓ガラスは今、僕らが発散した熱と汗で結露しているだろうし、朝日が昇る頃には真っ白に凍り付くと思われる。

 

腕をめいっぱい伸ばして、ベッドの足元に置いた電気ストーブのつまみをひねった。

 

喉が乾いていたけれど、布団から出たくなくて我慢していたら珍しく、本当に珍しく夫が「俺が行く」と申し出たのだ。

 

夫は僕愛用のフリース・ガウンを裸に羽織り、つま先立ちで台所まで走り、水道水をグラスに汲んで戻ってきた。

 

「水~?」と不平を漏らしたら、「ほらよ」とポケットに突っ込んでいた缶ビールを僕に放ってくれた。

 

「おつまみも欲しい」

 

「おっけ」

 

夫は僕のリクエストに応えて台所まで再び走り、袋入りのピーナッツとキムチの大瓶を抱えて戻ってきた。

 

「アオ君ちの虫は退治しなくてよかったの?

僕が来たせいで、それどころじゃなくなったでしょ?」

 

「布団をかぶって震えているだろうね」

 

「えっ!?

そんなの駄目じゃん。

今から助けにいってあげようよ」

 

「スト~ップ!」

 

跳ね起きようとした僕は、夫によってベッドに引きずり戻された。

 

「やり過ぎは駄目だって言ったばかりじゃん。

「虫くらい自分で何とかしないといけない

甘やかしたらいけない

殺虫剤を持っていってやったんだから、後は自分で頑張るだけさ」

 

(つづく)

 

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(8)僕らが一緒にいる理由

 

 

「俺だけアオ君をじゃ支えきれないな、と思いかけてきたところだったんだ。

だから今夜、アオ君に『チャンミンに紹介してもいいか?』って提案するつもりだったんだ」

 

「そうしたら、突然僕が登場」

 

「びっくりしたよ。

今思えば、最初からチャンミンに相談していればよかったんだけどさ、アオ君から『チャンミンさんに迷惑をかけるから』ってお願いされていたこともある」

 

「僕とユノは結婚してるんだから、アオ君も僕の親戚じゃないか。

結婚していなくても、無関心ではいられないよ。

遠慮することないのに...」

 

ちょっと...いや、かなり寂しい気持ちになった。

 

「分かってるよ。

チャンミンの気持ちはよく分かってる」

 

「ふん。

ユノなら迷惑をかけてもいいってことか...そうだよね、一応血が繋がっているものね」

 

拗ねる僕を夫は慰める。

 

「アオ君を責めないでやってくれ。

彼は自分が面倒くさい男だってことを自覚してるんだ。

それから、アオ君お願いされたからだけじゃなく、俺から止めていたこともある」

 

「僕はお世話焼き男だから、アオ君のことを超~、放っておけなくなること確実だからね。

ユノ以上に尽くしてしまうからね~」

 

夫は僕の行動、思考パターンをよく分かっている。

 

僕はお世話好きなのに、僕に任せっぱなしの夫に腹が立つし、そのくせ任せてくれないのも腹が立つ。

 

自分がやりたくてやっているのに、「ありがとう」の言葉は欲しいし、気付いてもらえないと悲しくなる。

 

僕の毎日は夫中心で回っているのだろう...これでいいのかとぞっとする。

 

10年も一緒にいれば、夫相手のお世話はし尽していた。

 

ここにアオ君が加わった。

 

夫は、お世話の対象が夫自身ではなく、高校生のアオ君に移ってしまうこと寂しさを感じる以上に、尽くし過ぎる僕を心配しているのだと思う。

 

「くれぐれもやり過ぎには気を付けろよ」

 

「分かってるよ」

 

(お弁当を作ってあげたり、部屋を整えてあげるだけなら大丈夫)

 

僕の自己満足が、アオ君の成長を邪魔してはいけない。

 

 

アオ君のアパートメントを出て20分後、僕らは我が家に到着した。

 

慌てて外出したせいで外灯は点いておらず、玄関前は真っ暗だった。

 

鍵を開けるため、僕らは繋いでいた手を離した。

 

閂式の鍵を開けると、木枠の引き戸はカラカラと抵抗なくレールを滑る(こまめな手入れの賜物だ)

 

夫を尾行するため慌てて家を出たせいで、家の中は「しっぱなし」だらけだった。

 

居間も台所の電気もテレビも点けっぱなし、ダイニングテーブルの上には食べかけの卵丼とグラスが置きっぱなしだ。

 

「冷えたなぁ。

晴れの夜はカンカンに冷え込むからなぁ」

 

僕は卵丼の残りを食べてしまい、食器を全て下げテーブルを拭いた。

 

食器を洗うのは明日の朝にしよう、くたくただ。

 

「チャンミン、何か夜食を食べようよ」

 

アオ君についての心配事を僕と分け合ったおかげで、肩の荷がおりた夫は機嫌がよさそうだ。

 

「カップ麺なんかがいいなぁ」

 

コートを着たままこたつにもぐりこんでいる夫に、ムカッときた。

 

「ユノ」

 

「ん~?」

 

僕はテレビのスイッチを切った。

 

「見てたんだけど~?」

 

「僕に言うことないの?」

 

「『言うこと』って...全部話したじゃん」

 

「肝心なことを忘れてると思うんだけど?」

 

「え~、何だろう」

 

「コート脱いでよ。

しわが付いちゃうじゃないか」

 

「んー」

 

夫はこたつからむっくり起き上がると、大きなあくびをした。

 

外ではクールビューティな男が、自宅ではねぼけた顔をしている。

 

僕らは待ち合わせ有りのデートをほとんどすることなく同棲を始めた(同棲後、即結婚)ため、だらしない姿をお互いさらし放題で見慣れている。

 

「僕に謝ってもらいたいことがあるんだよね?」

 

「え?」

 

「マジで分かんないわけ!?」

 

夫は眉根にしわを寄せ、コートをもそもそ脱ぎながら「ごめん、分かんない」と言った。

 

「なぜ尾行をしてたのか、考えてみてよ」

 

「あ...」

 

夫はコートをハンガーラックにかけると、僕の真正面に立った。

 

「...不倫してるんじゃないかって!」

 

「ふ、不倫!?」

 

僕の言葉が予想外だったらしく、夫は大きな声を出した。

 

「俺が!?」

 

僕は夫を睨みつけ、「そうだよ」と頷いた。

 

「不倫なんてするわけねぇだろ!?」

 

「お風呂に入っている間に、ふら~っていなくなったじゃん。

その他にも、『コンビニ行ってくる』とか適当なこと言って、ふら~って外出してたじゃん。

そういう日が続くとね、誰かに会いにいってるんじゃないか、って思うのは当然だろ?」

 

「...う~ん」

 

「ユノは大した言い訳せずに堂々と出掛けてただろ?

それは、ずっと家に引きこもっているせいで勘が鈍っているだろうから、気付かれないに違いないって僕をみくびってるんじゃないかって...そう思ってた」

 

「...みくびるって...」

 

「10年だよ?

ずっと家にいるから話題も少ないし、来る日も来る日も同じ顔を見て、僕に飽きちゃったんじゃないかって。

このところレス気味だし」

 

「それは、疲れ気味だったから...」

 

「ふん。

性欲の塊だったユノが疲労程度で性欲減退?」

 

「チャンミンだって似たようなものじゃん。

俺たちはもうハタチじゃないんだ。

俺の部署に新人が入ったって言っただろ?

使えないヤツでさ、大きなミスばっかして、その尻ぬぐいでキツかったんだ。

...悪かったよ」

 

夫の偉いところは、怒鳴り声を出さないところだ。

 

「自分だけ忙しいアピール?

そうだそうだ、僕はすごいダサい男になり果ててしまってるよ。

売れないBL作家で、どエロいことばかり考えているくせして、セックスは下手くそだ。

ユノに食べさせてもらっていて、僕が出来ることと言えば家事程度だ!」

 

僕の内側から不安と愚痴が湧き出てくる。

 

「あ~も~!

ムカつくなぁ!」

 

不満爆発した自分が情けなく、膨らんでゆく怒りの制御に、唇をかみしめた。

 

夫は僕の手首をぐいっと引いて、自身の胸で抱きとめた。

 

「ごめん」

 

 

(つづく)

 

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