(46)あなたのものになりたい

 

 

 

~チャンミン~

 

「チャンミンっ...苦しいよ」

 

裸の胸の一か所が、お兄さんの涙でじわりと熱く濡れていた。

 

「...7年...ですか」

 

時間の感覚が消えていた僕でも、7年とは長い。

 

お兄さんがいつから『犬』をやっていたかによるけれど、美しさや生命力がピークを迎える大切な時を捧げたのだ。

 

買い主の元で暮らした期間を足したら、もしかして僕よりずっと長い時を失っていたのかもしれない。

 

お金が欲しくて自ら望んでいないからこそ、7年という時は気が遠くなる。

 

僕だったら脱走していた。

 

「お兄さんが可哀想です」

 

自身のことを『可愛そう』だと認められるようになったから、『可哀想』とお兄さんにも言える。

 

「そうだよ~、可哀想なんだぞ。

...チャンミンにそう言われたのは初めてだなぁ。

なぁ、俺を慰めてよ?」

 

「よしよし」と、お兄さんの頭を撫ぜた。

 

「その金のモージャからは何も言ってこないの?

お兄さんが孫じゃないって、バレなかったの?」

 

「会ったこともない孫が本物かどうかなんて、判別がつかないさ。

奴らの望みは、孫うんぬんよりも金を譲って欲しいだけだ。

あることで、奴らを刺激してしまったんだよね」

 

「あること?

刺激...?」

 

「びっくりするようなことを教えてあげるよ。

あの店を買い取ったよね。

俺とチャンミンが『犬』をしていた店を買ったよね。

実はね、あの店の土地も建物も...買い主の甥のものだった」

 

「ええっ!?」

 

思いもよらない新情報に僕は大声を出してしまった。

 

「買い主とは俺を買ったじいさんのことだ。

店の経営には一切、タッチしていなかったらしいが...。

つまり俺は、彼らから店と土地を買ったってわけ」

 

「嘘...」

 

「売却先が俺だとは思いもよらなかっただろうね。

俺は奴らとは縁を切って暮らそうとしていたのに、自ら接近するような真似をしてしまった。

仕方ないさ」

 

僕の頭はぐるぐるしていた。

 

「大丈夫...なんですか?」

 

「書類上、俺のデータは完璧だ。

まさか暴力にうったえるようなことはないさ。

彼らは金が欲しいだけだよ」

 

「じゃあ...少しだけでも渡したら納得するのでは?」

 

「そうだろうね。

でも、渡す気はさらさらない。

...俺も金の亡者だ。

チャンミン、軽蔑するか?」

 

時間は買うことはできないと、聞いたことがある。

 

そうであっても、お兄さんは目に見える形で失った時間を弁償してもらおうとしているのだ。

 

「チャンミン...。

もう一回しようか?」

 

返事をする前に、僕は深く口づけられた。

 

僕はお兄さんとのエッチが大好きだ。

 

でも、何かを誤魔化されたような気になったのは確かだ。

 

 

翌朝。

 

寝坊をしてしまった僕は、お兄さんの姿をリビング、キッチン、書斎と順に探した。

 

最後衣裳部屋を覗いたら、スーツを着たお兄さんがいた。

 

「今日、出掛けるから」

 

「え~。

僕もついてゆきたいです」と、僕はむくれた。

 

「ごめんな、仕事なんだ。

何時に終わるか分からないから、留守番しててくれる?」

 

そう言ってお兄さんは僕のおでこにキスをしてくれる。

 

「天気もいいから、チャンミンも外出したらどうかな?」

 

お兄さんの提案に、僕は渋々ながら頷いた。

 

だだをこねるのは子供がやることだ。

 

早速、チャンミン大人化計画をスタートさせることにした。

 

洗いざらしのスウェット(お兄さんのもの)から、外出用の綺麗な服に着がえた。

 

お兄さんに買ってもらった紺色のダッフルコートを羽織り、リュックサックを背負った。

 

玄関のカウンターの上にあるカードキーとスマホを手に、僕は部屋を出た。

 

受付カウンターの制服を着たおじさんに会釈をして、僕はマンションから通りへと飛び出した。

 

独りで外出できるようになったけれど、まだまだ緊張する。

 

駅名を瞬時に読み取れないから、バスや地下鉄を利用するのは怖い。

 

スマホに表示させた地図を頼りに、市場まで歩いていくことにした。

 

室内で甘やかされた身体に、外気が身にしみる。

 

途中で現在地が分からなくなって、パニックになりそうだったのを、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

 

お兄さんのアドバイス...すれ違う人のうち、優しそうな人を捕まえて道を教えてもらう...を思い出した。

 

 

歩行者天国の通りの両側は屋台に挟まれ、屋台ではいろとりどりの野菜や肉、魚、果物が山と積まれていた。

 

客寄せの呼び声にひかれるままに屋台を覗く。

 

値札に書かれた数字を訳知り顔に見て、首を振ってみせたり、味見をさせてもらったり、ばら売りはできるのか尋ねてみたり...それらしく振舞ってみたりして。

 

実際のところ、分厚いコートの下で緊張の汗をかいていた。

 

安いのか高いのか分からない。

 

僕は世間知らずに生きてきたため、値段感覚がない。

 

今回、市場まで足をのばしたのは、誕生日パーティの御馳走の材料を揃える時の、予算の参考にしようと思ったのだ。

 

買い物中の者でごった返す中、気を抜くと人並みに流されてしまいそうだった。

 

大量の物、物、物、音、匂い...すべてが刺激的で頭がクラクラした。

 

 

「チャンミン!」

 

名前を呼ばれ後ろを振り返った瞬間、ぐいっと腕を掴まれ、心臓が止まりそうになった。

 

「...あ」

 

元『犬』仲間だった。

 

「よぉ」

 

お兄さんと散歩をしていた時、繁華街の裏道で会った彼だった。

 

あの時の彼は、お兄さんから貰った沢山のお金のおかげで豊かであったはずなのに、荒れた肌と暗い目をしていた。

 

身体を売っているようなことを匂わせてもいた。

 

暴言を吐かれるかと僕は身構えた。

 

でもすぐに、その緊張を解いた。

 

今の彼は、顔色も髪の艶もよく、何よりも目が...どろりと曇っていたものが...澄んだものに変わっていた。

 

「元気だった?」

 

僕は彼に尋ねた。

 

「ああ。

お前は?...って訊かなくても分かるよ。

元気なんだろ?」

 

「うん」

 

「あの男に、可愛がってもらっているか?」

 

あの男とは、お兄さんのことだ。

 

「うん。

君は?」

 

「あははは。

可愛がられてるって認めるんだ?

少しは遠慮しろよ」

 

「ごめん」

 

「俺たちは結局のところ、誰かに可愛がってもらわないといけない人種なんだなぁ」

 

「あ...」

 

そうかもしれない、と思った。

 

「それに反発していた時期もあって、身体を売ってみたりして。

受け入れたら楽になれた。

うん...今は幸せだよ。

とても」

 

「よかった」

 

「話し込んでしまって悪かったな。

買い物途中?」

 

「うん」

 

「じゃあな。

元気にな」

 

小走りで立ち去る彼の先に、中年の女性が待っていた。

 

彼はその綺麗な女性の腰を抱き、振り向いて見送る僕に気づいて、手をあげた。

 

僕も手を振り返した。

 

幸せそうでよかった。

 

自分は偽善者だとお兄さんは苦しんでいたけれど、そんなことないよ。

 

少なくても2人の『犬』は、お兄さんのおかげで幸福と自由を掴んだのだから。

 

 

(つづく)

 

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(45)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

お兄さんの電話は未だ終わらず、僕はベッドで彼を待っていた。

 

その間、僕は考えていた。

 

お兄さんへの誕生プレゼントを何にしたらいいか、ずっと考えていた。

 

あの手紙の登場により、ハンマーでガツンと殴られたかのような衝撃を受けた。

 

なぜなら、ちらとでも愚かな考えが浮かんでいた自分に、反吐が出そうだったからだ。

 

『犬』の過去なんて大したことなく、身体を売ることもどうってことないと信じたかったことから生まれた考え。

 

愚かな考えとは、つまり...プレゼントを買うために、一時的に『犬』になる。

 

お兄さんにお礼がしたかったんだ。

 

困ったことに、僕は仕事をしていないからお金がない。

 

クレジットカードというものをお兄さんから渡されていたし、インターネットで何でも注文できるし、寝室の金庫にはお金が沢山詰まっていて、自由に使っていいと言われていた。

 

お兄さんのお金でお兄さんのプレゼントを買うなんて、変な話だなぁと。

 

それならば、こういう手段もあるな、と思ったのだ。

 

実際に行動に移すことは絶対にしない。

 

しないけれど、『犬』になればお金を稼げるなぁと、ちらっと思ってしまったのだ。

 

お兄さんに大事にされている僕の身体を、ケガすわけにはいかない。

 

それ以上に、お兄さんをケガす行為だ。

 

とは言え、こんな思考回路が生まれてしまう僕は、根っからの『犬』だ。

 

情けなく思っていたところに、手紙の登場だもの。

 

いっぱい助けてもらって、今回もお兄さんに救われた。

 

あの手紙を読んで、いかに自分が長年にわたって傷ついてきたのか、気付かせてくれたお兄さん。

 

加えて、『犬』であった過去と向き合わないと、新しい自分になれないことを教えてくれたお兄さん。

 

僕に夢が出来た。

 

賢くなってお兄さんを助けてあげたいな。

 

僕にできることは限られているけれど、今みたいにお兄さんの話を聞いて、頭を撫ぜ撫ぜしてあげることなら出来る。

 

まずは、感謝の気持ちを表したいなぁ、と思ったのだ。

 

誕生日に素敵なものを贈りたい。

 

そういう訳で、それを何にしようかずっと考えていたのだ。

 

 

通話を終えたお兄さんが、僕の腕の中に戻ってきた。

 

お兄さんの髪からふわりと、僕と同じシャンプーの香りが漂った。

 

こんな時、「ああ、僕らは同じ家に暮らしているんだなぁ」と実感する。

 

僕が思う『家族』とは、ひとつ屋根のもとに暮らす者たちを言うものだと思っていた。

 

お兄さんにうんと大事にされているうちに、僕の方だって彼を大事にしてあげたいし、この先何年も、彼の隣で生きてゆきたいし...こういうのが『家族』なんだろうなぁと、考えがステップアップした。

 

お兄さんがいてくれるから、ホンモノの家族なんていらない。

 

命の危機にさらされる経験は未だかつてしたことはないけれど、もしそんな場面に立ち合った時は、命がけでお兄さんを守ると思う。

 

お兄さんは僕の『家族』なんだもん。

 

...なんて、映画の受け売りだけどね。

 

 

「大事な用事だったのですか?」

 

「どうして?」

 

他人と会話するのは苦手だと、お兄さんは仕事の用事はすべてメールで済ませていて、彼の電話も滅多に鳴らない。

 

寝室を出ていってから20分経っても戻ってこなくて、珍しいなぁと思ったのだ。

 

「長いなぁと思って...仕事のトラブルなのかなぁ、って」

 

お兄さんはふっと笑い、

 

「ちょっとだけね。

解決したから、心配はいらない。

チャンミン、俺の肩を抱いて。

話の続きに戻るよ?」

 

「はい、聞きたいです」

 

「俺が買い主の孫になったのは単純な理由だ。

買い主はとても裕福な人だった。

プラス、家族は孫だけだった。

チャンミンは相続の順番って、分かるかな?」

 

「なんとなくは」

 

「買い主には甥や、亡き兄の孫もいたから全くいない訳じゃない。

最も近い血縁者は孫だった。

俺が買い取られた時、孫は生きていた。

財産が欲しい者にとって、買い主の孫は邪魔な存在だよね。

彼らにとってラッキーだったのは、孫は回復の余地のない病に侵されていた。

買い主より先に孫が亡くなった時、財産はどこにいく...?」

 

「金のモージャ」

 

「うまいこと言うね」と、お兄さんはくすくす笑った。

 

「『犬』だった俺はこの世に存在していないことになっている。

年齢も背格好も似ていた。

最低限のマナーは備わっていた。

買い主は何が何でも、財産を奴らに渡したくなかったんだね。

俺を買って替え玉に据える買い主自身も、金の亡者とも言える。

意地だね」

 

「そんなに簡単にいくものなんですかね?」

 

「単純な作戦だからうまくいったのだと思う。

なんせ彼には金がある。

孫は家の外にほとんど出たことがないというし、意地汚い親戚たちは相続の可能性が浮上するまでは、買い主に接近することはなかったらしい。

孫が亡くなった時、俺は彼の戸籍を引き継いだ。

期間限定のことだって、話したよね?」

 

「はい」

 

「俺がお役御免になる時とは、買い主が亡くなるまでだった。

俺は彼の財産を受け継いだ。

...これが俺が大金持ちになった理由。

『犬』のくせにね」

 

「それじゃあ...もし、買い主が何十年も生きたらどうするの?

お兄さんはずーっと、買い主のところに縛られるんでしょ?」

 

「じーさんだった。

俺を買った時、買い主は80を超えていた」

 

「!!!」

 

「不幸度は比べるものじゃないが、俺はチャンミンよりマシだったのかな?」

 

「...首輪を付けられていましたか?」

 

「いいや。

ただし、一歩も家から出てはいけなかった。

一歩も。

俺が本物の孫じゃないとバレたら大変だ。

まぁ...今も引きこもり生活みたいなものだけどね」

 

「...どれくらいでしたか?」

 

「...7年...かな」

 

「!」

 

「7年...も家の中に?」

 

「ああ」

 

「その間、ユノじゃなくて、違う名前で呼ばれていたんですよね?」

 

「そうだよ」

 

僕の目から涙があふれこぼれるまで、あっという間だった。

 

お兄さんを力一杯抱きしめた。

 

僕よりも辛い目にあったのに、お兄さんはどうして優しくて大きいのだろう?

 

お兄さんの存在に甘えて頼ってばかりじゃ駄目だ、僕も強くならないと。

 

僕は心に決めたのだった。

 

 

(つづく)

 

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(44)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

「余命というと...生きられる期間があと何カ月とか、寿命が限られているという意味ですね?」

 

チャンミンの問いに、「そうだよ」と答えた。

 

「ヨメイ...」とつぶやきながらチャンミンは目をつむる。

 

言葉の意味を覚える時のチャンミンの癖だ。

 

すらすら読めるほどまで習得していないため、チャンミンは今もテレビを中心に知識を得ている。

 

俺がチャンミンの親なり兄ならば、俺以外の親しい者が皆無の彼を心配して、どうにか知人だけでも作ってやろうとしただろう。

 

でも、最低な俺はチャンミンを独り占めしたくて、彼から乞われない限り、閉じた世界に閉じ込めておきたいと思っていた。

 

怖いのは万が一、チャンミンを1人残していかなければならない羽目になったときだ。

 

二重三重にも手を打って、チャンミンの将来を保証してやる。

 

金があればなんとかなると考えている俺は、軽蔑に値するだろう。

 

それがどうした?と思うのだ。

 

俺を軽蔑する者がいたとしても、そいつは俺の知人でもなければ、他人だと認識したこともない顔無し。

 

俺は閉じた世界で生きてゆく...チャンミンと、永遠に。

 

戸籍のない俺とチャンミンが現実世界で生きてゆくには、金はいくらあっても足りないのだ。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

「俺たちはこうやって、現実社会に確かに暮らしているだろう?

俺は『ユノ』として、チャンミンは『チャンミン』として」

 

「はい」

 

「じゃあ、意地悪な質問をするよ。

チャンミンが『チャンミン』だと、どうやって証明する?

『僕はチャンミンです』と連呼しても、それを信じない人がいたとしたらどうする?」

 

「...書類」

 

「残念なことに、俺たちには正式な書類というものはないんだ」

 

「......」

 

「チャンミンは売られた時に、無かった者にされた。

俺も『犬』になる時に、無かった者にされた。

俺たちは同じだよ」

 

僕の背中がヒヤッとし、鳥肌がたり、体表に冷や汗の膜が張った。

 

無かったことにされた...「死んだことにされた」という意味だ。

 

一瞬迷った末、僕の鎖骨の窪みにおさまるお兄さんの頭を撫ぜた。

 

「戸籍が無いのになぜ、このマンションに暮らしてゆけているのでしょう?

答えは分かる?」

 

「...誰かがメイギを貸してくれている?」

 

「ほぼ正解。

このマンションもあの店も全部、俺の名義になっている。

正真正銘、俺の物だ。

ここに、俺の買い主が関わってくる」

 

「そうなんですか」

 

「チャンミンの戸籍はどうなっていると思う?

この世に存在していないことになっているなんて...俺は許さない。

覚えているかな?

チャンミンは素っ裸になってストライキした日があっただろ?

裸のまま家の中をウロウロしてさ。

うちを尋ねてきたアシスタントにヤキモチを妬いた日だよ」

 

「お兄さん!!」

 

そんな時もあったなぁ。

 

裸ん坊になって抗議するなんて...子供っぽいにもほどがある。

 

恥ずかしさのあまり、僕の頬はぼっと熱くなった。

 

「チャンミンの手続きが済んだと、彼女は報告にきてくれたんだよ」

 

「...そうだったんですか」と頷きかけてすぐ、疑問が湧いてきた。

 

僕の気持ちを読んだお兄さんは、「ふふん」と笑った。

 

「こういう時、リッチだと助かるよね。

俺ってほら、狡いから」

 

「僕はズルいお兄さん、大好きです」

 

「兄弟にしておこうかと思ったけれど、それじゃあね...のちのち困るから」

 

「?」

 

「分かるだろ?」

 

「分かるって...何をです?」

 

「分かってるくせに」

 

「分かりませんよ。

教えて下さいよ」

 

とぼけているのではなく、お兄さんの話の意味がホントウに分からない。

 

お兄さんはふっと笑って、僕の乳首をこそこそくすぐった。

 

「ひゃっ」

 

「そのうち分かるよ」

 

「ケチンボですね」

 

「買い主の話に戻ろうか。

あることを条件に、俺はその人に買われた。

俺は...その人の『孫』になったんだ」

 

全く予想もしなかった突拍子もない話に、僕は絶句する。

 

「まご...?」

 

「血の繋がりなど、全くないよ。

その人とは店で知り合い、その人にレンタルされた。

何度目かの時に、身請けが決まった」

 

「凄い...」

 

『犬』の夢は、店を出ること。

 

それは、客のショユーブツになることで、店で『犬』を続けるのと身分は変わらない。

 

それでも、店にいるよりも断然いい。

 

お客だったお兄さんと初めて出会った日、僕は彼におねだりしたんだった。

 

『レンタルだなんて言わずに、僕を買い取ってくださいよ。

僕をここから出して下さいよ?

お兄さんの家に連れて帰って下さいよ?』

 

無理だと分かっていたけれど、半分は本気でお願いしていた。

 

店を出たくて仕方がなかった。

 

あの頃の僕と今の僕。

 

ウンデイノサだ。

 

「条件のよさに、『犬』たちは俺を羨んだ。

俺を家族として迎え入れるのだからな。

夢物語だよね」

 

「『孫』になって欲しいって?」

 

「そうだ。

その時、俺は新しい名前を与えられた」

 

「『ユノ』っていうのは?」

 

「親が付けてくれた本当の名前だよ。

でも、身請けの時に、新しい名前を与えられたんだ。

悪い言い方をすれば、その名前を名乗れと強制されたんだよ」

 

「......」

 

「俺を孫に仕立てないといけない事情が、買い主にはあったってこと。

俺は感心したよ。

こんな『犬』の使い方もあるんだなぁと...なんて、呑気なことは言っていられなかったのが現実の話。

俺を『孫』にしたがったワケを教えてあげるよ」

 

ブーブーとフローリングの床を振動させる物があり、お兄さんの話は中断した。

 

エッチの時脱ぎに脱ぎ捨てた、お兄さんのズボンの中のスマートフォンだ。

 

コール数回は無視していたけれど、鳴りやまないスマホにお兄さんは「ちっ」と舌打ちをした。

 

「ちょっと待っててくれる?」

 

僕の腕の中からお兄さんは抜け出ると、スマホを持って寝室を出て行った。

 

 

(つづく)

 

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(43)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

 

「ごめんなさい!」

 

俺の首にしがみついて泣いていたチャンミンが、突如大きな声をあげた。

 

まわしていた腕を解き、涙目で俺を見上げて謝るのだ。

 

「勝手に『家族』だなんて言ってしまって...ごめんなさい。

お兄さんとは一緒に暮らしているから、家族みたいだなぁと思っちゃったんです。

家族がどんなものなのか、分からない僕なのにね、えへへへ」

 

チャンミンの額に落ちた前髪をかきあげて、俺は言った。

 

「そうだね。

俺とチャンミンは『家族』だよ」

 

「よかった。

僕と同じことを考えてくれたんですね」

 

チャンミンには、友人と恋人、家族の区別がついていない。

 

以前の俺だったら、チャンミンの言う『好き』の意味を問うなどして、その違いを深く追求していただろう。

 

その必要はないのだ。

 

チャンミンが言う『大好き』には、この3つの要素が全部こめられている。

 

「お兄さん...泣いてますね」

 

「バレた?

チャンミンの言葉が嬉しくて、感動していたんだ」

 

チャンミンの言葉に、俺はもらい泣きをしていた。

 

愛の告白の連投だった。

 

俺の人生において、熱く重い言葉を捧げたい人物と出逢う機会など無いと思っていた。

 

チャンミンの言葉は、まるでプロポーズだった。

 

身体同士は快感のあまり溶け合ってしまいそうな程、繋がり合っていた俺たちは、手紙をきっかけに、心の繋がりを深めたのだった。

 

「...家族かぁ...」

 

しみじみとつぶやいた。

 

「お兄さん。

手紙...見つけてくれてありがとうございます」

 

「俺は何もしていないよ。

店を壊した時に、たまたま出てきただけさ」

 

俺は床に転がっていた手紙の残骸を拾い、広げて皺を伸ばした。

 

「これ...どうする?」

 

3つ折りにした便箋を封筒に戻し、チャンミンに差し出した。

 

「いらないです」

 

「...え?」

 

「ケリがついたんです」

 

「そっか」

 

「じゃあ、俺が貰っておくね」

 

「?」

 

「だって要らないんだろ?

場所を取るものじゃあるまい、邪魔にはならないさ。

あそこに...」

 

俺は封筒をリビングのキャビネットの引き出しに仕舞った。

 

「読みたくなった時には、ここに入れておくからね」

 

今のチャンミンは気分が昂っている。

 

一時の感情に任せて、チャンミンと家族を繋ぐものを捨てるようなことはさせたくない。

 

 

チャンミンは「けりがついた」と言っただけで、「家族に会いたい」とは言わなかった。

 

俺は未だ、チャンミンの家族が今どうしているか把握していなかった。

 

調査を担当していたアシスタントへの嫌がらせを理由に、調査を中断させている。

 

財力に任せれば、探し出すことは容易だ。

 

だが、この先は知らないでいる方が幸せなのかもしれないと考えている。

 

あの手紙以降のものが届いていないことから、俺は2つの可能性を思いついていた。

 

1つは、彼らはもうチャンミンのことを忘れてしまった、もしくは忘れたがっていることだ。

 

その訳は、チャンミンを捨てた罪悪感からだ...気持ちは分からないでもないが、俺は理解するつもりはない。

 

2つは、この世に存在しないことだ。

 

チャンミンの過去は知りたいが、家族の現在を知らせるのは踏み込み過ぎだと思った。

 

チャンミンから頼まれた時に初めて、家族の現在を追えばいい。

 

「お兄さんには...家族、いた?」

 

過去形な言い方に笑ってしまった。

 

「そりゃあ、いたさ」

 

「ですよねぇ」

 

続いて家族のことを尋ねてくるかと身構えたが、チャンミンに唇を塞がれ、その話題は終わりになってしまった。

 

チャンミンの手をひいて寝室へといざなって、互いの衣服を脱がせ合った。

 

この夜の俺たちは、烈しさとは真逆の、優しく丁寧に、身体のすみずみまで抱き合い愛し合った。

 

 

「お兄さんのことを教えてください」

 

暖房のよくきいた寝室のキングサイズのベッドで、俺たちはけだるい身体に下着だけをつけていた。

 

カーテンをつけていない窓から、夜景が見える。

 

「いいよ。

何が知りたい?」

 

チャンミンの質問に、チャンミンの方に横向きに寝返りをうった。

 

「買い主の人のところで、どんな暮らしだったか...とか。

どうして『犬』になったのか...とか。

いっぱいあります」

 

「そうだなぁ。

順番に教えてあげるよ」

 

「言いにくくないですか?」

 

「言いにくいさ。

でも、俺たちの間にタブーの話題がある感じが、俺は嫌なんだ。

俺が多分、好きな奴に関しては欲張りになるんだろうなぁ。

全部知りたい、全部自分のものにしたい...子供っぽいだろ?」

 

「いいえ。

僕こそ、お兄さんの全部を知りたいし、お兄さんの全部を僕のものにしたいです。

似た者どうしだから、ぴったりですね。

あ...水飲みますか?」

 

チャンミンは反動をつけて起き上がると、サイドテーブル下の冷蔵庫を開け、冷たいミネラルウォーターを取った。

 

「手始めに、買い主に買われた理由と、自由になった経緯を教えてあげるよ。

『犬』になった理由についてはヘヴィな話だから、後にしていいかな?」

 

「はい。

お兄さん、ここ」

 

チャンミンは毛布を持ち上げて、マットレスを叩いた。

 

「今夜は僕が『お兄さん』です」

 

「どうして?」

 

チャンミンの言いなりになった俺は、彼に腕枕をしてもらった。

 

「面白くない昔話でしょう?

お兄さん...きっと泣いちゃうでしょうから、いつでも慰めてあげられるように用意をしているんですよ」

 

背伸びをしている感じが可愛らしくて、胸の中に引きこんで抱きしめたかったけれど、そうはせず、チャンミンの二の腕に頭をもたせかけた。

 

「俺も買い主の所有物になった。

窮屈だったし、人間としての尊厳みたいなものを損なわれたと思った。

でもな...悪くなかったよ」

 

「...そうなんですか?」

 

「ああ。

大事にしてもらえた。

俺の買い主は、全てにおいて所有することができなくなって、俺を手放した。

人であれ物であれ、永遠に所有し続けることはできない。

いつかは離れていったり、消えてしまう」

 

「お兄さんの話は...難しいですね」

 

チャンミンは鼻にしわをよせた。

 

「ごめん。

この説明の仕方は遠回しで、曖昧だったね。

そうだなぁ...俺は期間限定の『犬』だったんだ」

 

「...期間限定」

 

「ある一定期間、買い主と生活を共にすれば、約束の期日になれば自由にしてもらえた。

『期間限定』と言ったのはね...余命ある人だったんだ。

孤独な人だったんだ」

 

 

(つづく)

 

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(42)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

お兄さんはソファにもたれ、僕はお兄さんの胸にもたれていた。

 

手紙を前にして緊張している僕の背中は、すっぽりとお兄さんに囲われており、温かく安心できる。

 

お兄さんのドクドク音が僕の背中に伝わってきた。

 

お兄さんは僕以上に緊張しているのが不思議で、

「お兄さんの胸、ドキドキしています。

...あれ?

お兄さんは読んでいないのですか?」と尋ねた。

 

「他人の手紙は勝手に読んだらいけないものなんだよ。

親しい仲であってもね」

 

「そういうものなんですか...」

 

もともと封が開いていた手紙だ。

 

僕に手渡す前にお兄さんが読んでいてもおかしくないし、お兄さんが大好きな僕だから、むしろ読んでいて欲しいくらいだった。

 

「それじゃあ、一緒に読んでください」

 

「分かった。

泣きたかったら、俺の腕をタオル代わりに使っていいぞ」

 

「ははっ。

泣いちゃうような内容だって、どうして分かるのです?」

 

「う~ん。

親からの手紙って...そういうパターンが多いから」

 

お兄さんの意味深な言葉に反応してしまい、「お兄さんは経験があるのですか?」と尋ねた。

 

店の出来事を断片的に話してくれる程度で、お兄さんは昔話をすすんでしてくれないからだ。

 

「今のは一般論。

よくある話」

 

振り向いた僕の頭を両手で挟むと、ぐいっと正面に向けた。

 

「ほら、手紙を開いて」

 

今、僕が手にしている茶色の封筒は飽きるほど目にしたものだ。

 

便箋は開いては折ってを繰り返したせいで、折り目が今にも破れそうだった。

 

 

前の店に居た時、僕の元に届いた手紙だ。

 

「お前の家族からだぞ」と店のマネージャーからこれを手渡された時、僕はとっさに喜べなかった。

 

僕にはもう家族はいないと思っていたからだ。

 

『犬』に慣れ、指名客も増えだして、「ひょっとしてこの世界に向いているのでは?」とまで思えるようになっていた頃だった。

 

数年かけて掴んだペースを家族からの手紙の登場によって、乱して欲しくなかったんだ。

 

貰っては困る理由がもうひとつあった。

 

だからといって、捨てられるほどの度胸は無かった僕は、枕カバーの中に仕舞っておいた。

 

手紙の扱いをどうしたらよいか、客に抱かれる間も考えていた。

 

10日程経ったある日、同室の『犬』たちが出払っている間を狙って、封を開けてみた。

 

封筒の端っこをぴりぴりと丁寧に破って、三つ折りの便箋をゆっくり取り出した。

 

生まれて初めて手紙というものを貰った。

 

「......」

 

白い紙に連なる小さな黒い点々。

 

「ラブレターか?」

 

「!!」

 

部屋に戻ってきた『犬』仲間が背後から僕の手元を覗き込んでいた。

 

「まあな」と、僕は余裕ぶり、手紙を懐に隠した。

 

「なんて書いてある?

早くあなたに会いたいわ~、ってか?

それとも、借金とりか?」

 

「邪魔だよ。

ひとりにしてくれ」

 

しつこい彼をやっとのことで部屋から追い出した

 

Tシャツの下に隠したせいで、便箋に皺がついてしまった。

 

「......」

 

恥ずかしいことに、僕は文字が分からなかった。

 

手紙を貰っても困るのだ。

 

便箋を掲げ、蛍光灯に透かしてみた。

 

便箋は1枚、黒のボールペン。

 

この手紙にはとてもいいことが書いてある。

 

分かったんだ。

 

「ありがとう」と僕に感謝してくれる手紙だ。

 

自分の名前くらいは分かるから、文章のところどころに『チャンミン』とある。

 

前の買い主から返却されてしまった僕は、この手紙を持ってお兄さんと出会ったあの店に払い下げられた。

 

大事なものなのにどうして、あの店に手紙を置き去りにしたのか?

 

心を空っぽにしてゆくと、自然と指名が増えていった。

 

手紙の存在も忘れていった。

 

何を言われてもへらへらと笑い、自分の身体を道具として扱った。

 

お兄さんに助け出された日、手紙のことは全く頭になかった。

 

え...。

 

今、『助け出された』って言った?

 

 

便箋を持つ指が震えていた。

 

「...チャンミン?

辛いか?」

 

「いいえ、全然」

 

「頑張れ」

 

「はい」

 

何年も前、ひとつも分からなかった言葉が目に飛び込んでくる。

 

「えーっと。

『元気でやっていますか?

私たちが助かったのは、チャンミンのおかげです。

ありがとう』

 

僕は読み上げた。

 

「『チャンミンに辛い思いをさせてごめんなさい。

チャンミンのおかげで暮らしてゆけます。

もう少し頑張ってください』

 

...って書いてありました」

 

手紙の内容はあっけないほど、短かった。

 

「...そうか」

 

「『僕を捨てた家族へ』」

 

「...チャンミン?」

 

「手紙の返事を今からします。

『僕は辛くないですよ。

家族のために、僕がギセイにならないといけなかったんだから、しょうがないでしょう?

僕は小さ過ぎて覚えていません。

僕は小さかったから、幸せと不幸の区別がついていませんでしたから。

辛いとか寂しいとか...分かりませんでしたから』」

 

お兄さんの両手が伸びて、僕の手を包み込んだ。

 

僕はお兄さんと言う繭に守られている。

 

「『嘘です。

ぼ、僕はっ。

やっぱり...苦しかった。

悲しかった。

...僕を売るってどういうことだよ!

僕をギセイにしないといけない程のことって、何をしたんだよ!

他に方法は無かったのかよ!』」

 

僕の手の中で、手紙がくしゃりと音をたてた。

 

「『もう、いいです。

もう、怒っていません。

『犬』が当たり前の生活になっていましたから。

家族がいないのが当たり前になっていましたから。

...手紙を貰えて嬉しかったです。

気持ちにケリがつきました』」

 

「......」

 

握ったこぶしを解くと、丸まった紙屑がぽろりと床に落ちた。

 

「チャンミン...!」

 

僕はお兄さんの腕の中でくるりと回転し、彼の首にしがみついた。

 

「お兄さんっ...。

僕...っ...寂しかった。

苦しかったよー」

 

僕の背にお兄さんの逞しい腕がまわった。

 

「大変だったな。

うん、辛かったな」

 

「『犬』に戻りたくないよー。

『犬』は嫌だよー」

 

「二度と戻らないよ。

あの店はもう無くなった。

俺が消したから

俺が許さないから、安心しろ...な?」

 

「絶対?

お兄さんちにずっと居ていいの?」

 

「もちろんさ。

死ぬ気でチャンミンを守るからな。

『そばにずっといてくれ』と俺の方から頼みたい」

 

「ホントに?」

 

「ああ。

死ぬまでお前を手放すつもりはないよ」

 

「...っく、っく...。

お兄さ~ん」

 

おいおいと泣く僕の頭を、よしよしと撫ぜていた。

 

 

僕は初めて、自分は可哀想だったと認めた。

 

僕の心はタフだから、どんな過去であれへっちゃらなつもりでいた。

 

お兄さんは、僕よりずっと繊細な心の持ち主だ。

 

お兄さんこそ傷つき苦しんできただろうから、僕が明るくしっかりしていないと、と心にきめたんだ。

 

お兄さんを笑顔にしてあげたくて、昔のことを無理やり封印して強がっていたのではなく、『自分は強い』と、ホントウに思いこんでいた。

 

ところが、家族からのザンゲの手紙を読んで、僕の中の何かが崩れた。

 

僕は可哀想だったんだ。

 

自分で自分を可哀想と思わないように、意識の外に放り出していた。

 

認めてしまったら最後、『犬』として生きてゆくことが辛くなるからだ。

 

だから同情されたくなかったんだ。

 

僕は全然平気なのに、同情されても困ると思っていた。

 

でも...僕は可哀想だった。

 

辛かったし、寂しかった。

 

お兄さんは可哀想だった僕を見つけてくれた。

 

お兄さんに助け出してもらえてよかった。

 

 

「『今の僕は幸せです。

新しい家族ができました』」

 

僕の口からするっと、凄い言葉が出てきた。

 

「『僕はユノという凄い人と一緒に住んでいます。

ユノ、といいます。

僕の新しい家族は...僕の家族は、ユノさんです。

家族がいるので心配しなくても大丈夫です。

それでは、お元気で』」

 

 

(つづく)

 

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