(11)僕の初めて-ユンホ先輩-

 

「抱くのは俺だ」

 

ユンホ先輩は僕の両脇に手をついて、僕を見下ろしていた。

鋭くて色気ある視線が降り注いでいるのが、びんびんと伝わってきた。

暗闇で助かった、視線の熱気できっと僕は溶けてしまうから。

 

「はぁ...はぁ」

 

興奮と緊張で荒くなった僕の呼吸は、ユンホ先輩に塞がれた。

 

「んっ...ん、ん...ふっ」

 

僕もユンホ先輩に倣って、やみくもに舌を動かした。

息が苦しくなってきたけれど我慢した、唇を離して深呼吸なんてしたらムードが壊れてしまう。

僕の髪をかきあげていたユンホ先輩の片手が、僕のそこへと落とされた。

 

「...っ」

 

本人の意識を無視して、僕の下半身はパンパンになっていたようだ。

先を擦られ、タップし続けられているうち、じわりと濡れてきた。

ユンホ先輩は僕の下着の中に手を突っ込んで、その中身のものを容赦なく引っ張り出すんだ。

間髪入れず、その手をハイペースで上下させるんだ。

 

「やっ...待って、待って下さい...!

うっ」

 

自分以外の手で、大事なところをしごかれるのは生まれて初めての経験だった。

気持ち良さが桁違いだった。

 

「待って待って...イっちゃうから。

ストップ、ストップ」

 

ユンホ先輩は「イっちゃえイっちゃえ」としごくスピードを上げてゆく。

 

「駄目っ!

やっ、やめて...ヤダ!」

 

腕を突っ張らせ、強固に拒んでしまった。

「ちっ」とユンホ先輩の舌打ちに、しまった...怒らせてしまったかな、とヒヤリとしていると。

 

「下...脱がせてよ」

「!」

 

「脱がないと出来ない」

 

ユンホ先輩はジャケットを脱ぐと、部屋の向こうへ放り投げた。

慌てて濡れた下着を脱いだ。

次にユンホ先輩のベルトを外し、続いてスラックスも下ろした。

最後に下着に指をかけ、そろそろ下げていった。

途中引っかかってしまったウエストゴムから、ユンホ先輩のアレが弾む。

僕のものとは違う、濃くてエロい匂いが漂った。

暗過ぎて、肝心なモノのデティールを目にすることができなくて、残念だった。

ユンホ先輩のものが露わになった...次に僕がすべきことは...。

探り当てたものの根元を掴み、あーんと口を大きくあけて頬張ろうとした。

 

「ストップ」

 

僕の首根っこはユンホ先輩に捕まれ、彼の股間から遠ざけられてしまったのだ。

 

「抱くのは俺だ。

チャンミンはマグロになっていろ」

 

「え?」

 

ユンホ先輩はさっきの台詞を繰り返した。

 

「...っ!」

 

僕の乳首が吸いつかれたのだ。

 

「へえ...チャンミンはここが弱いんだ」

 

ユンホ先輩は舌先で乳輪の周囲をねっとりと辿り、先端をくすぐったかと思うと、甘噛みした。

身体の中心がぞくぞくする。

 

「待って待って、先輩...!」

 

反対側は指の腹で転がされた。

 

「待つって、何を待つ?」

「それは...はっ」

 

きゅっと強く吸われると、僕の腰はびくんと浮いた。

全部が初めての経験だった。

 

「勃ってるぞ」と尖った乳首をくすぐられ、「くっ」と身をよじらせた。

 

僕は恥ずかしさから顔を覆ったけれど、暗闇の中では無用な動作だった。

片手を落してユンホ先輩の股間を探る必要はなかった。

ユンホ先輩が身動きする度ひたひたと、彼のものが僕の下腹や太ももを叩いた。

その先が濡れていることも。

嬉しかった。

唇と舌がたてる破裂音が耳にうるさい。

視覚が封じられると、僕らの先端から垂れ出る生臭い匂いも、甘い香りに感じられた。

 

 

ユンホ先輩に促されて両膝を抱えて、仰向けになった。

いよいよだ。

ユンホ先輩に気づかれないよう、深呼吸をした。

 

「ふっ...直ぐには挿れないよ。

まずはこれからだ」

ユンホ先輩の濡れた1本の指がぴとり、と件の箇所に押し当てられた。

「ひっ」と声が漏れてしまうのを、両手で口を押えて堪えた。

 

目を閉じて歯を食いしばった。

 

「...やっぱり」

 

ユンホ先輩はお尻から手を離し、僕の肩を抱き寄せた。

 

「お前...初めてか?」

 

耳元で囁かれた。

 

「...はい」

 

素直に認めた僕の頭を撫ぜてくれた。

 

「今日中は無理だぞ?」

「いいえ!

大丈夫です!」

 

僕は再び横になり、ユンホ先輩の手をお尻へと導いた。

 

「平気です!

挿れてください!」

「はあ...。

何も知らないんだな」

 

ため息をついたユンホ先輩は、僕を起こすと四つん這いにさせた。

 

「あっ!」

 

熱い吐息がお尻に吹きかけられた。

ユンホ先輩は僕のお尻に顔を近づけたのだ。

それから、ちゅうっと吸い付いたのだ。

 

「先輩っ、待って待って!

そんなこと...ダメです」

 

お尻の穴をぺろぺろと舐められた。

 

「ひゃっ」

 

何度目の変な声なんだろ。

敏感な箇所をじゅっと吸われて、驚きで逃げる僕をユンホ先輩は離さない。

 

「...やっ、ダメ...あっ、らめっ、らめっ...」

 

ちゅっちゅいう音はきっと、僕に聞かせるためにたてているんだ。

温かく濡れたもの...それも、ユンホ先輩のもので、イケナイところを舐められている状況だけで、僕の先端から雫が垂れ落ちる。

 

「せんぱ...ら、め...らめです」

 

しつこく丹念に舐めあげられ、僕はお馬鹿になってしまった。

今、前をしごかれたら、1往復で絶頂を迎えられる。

 

「らめ...らめ...」

 

30の男が出す声じゃない。

ユンホ先輩が僕のお尻を舐めている...なんだよこの状況。

じわっと羞恥の涙がにじんだ。

僕はなんてことを始めてしまったのかな。

ユンホ先輩を「抱く」だなんてとんでもない。

ユンホ先輩を繋ぎ止めたくて、衝動的に始めたこれに後悔しかけていた。

 

「緩んできた...よし」

 

ユンホ先輩はお尻に埋めていた顔を上げ、僕を背後から抱きしめた。

 

「次は指で慣らすから」

 

ユンホ先輩の胸の中で僕はこくんと頷いた。

任せていれば大丈夫。

 

「せんぱ、いっ...」

 

うずめられる指に、大きく息を吸ったり吐いたり。

 

「痛いか?」

 

僕はぶんぶん首を振った。

僕のお尻に、大きく固く膨れたユンホ先輩のものが押し当てられている。

こんなに大きなものが果たして挿いるだろうか。

オナニーでは興味本位で指を1本だけ、挿れてみたことがあるだけだ。

 

怖い。

 

...けど、ユンホ先輩と繋がらないといけないのだ。

 

 

「...あは、あ...あぅっ...」

 

ユンホ先輩は腰を前後に揺らして、じわりじわりと僕の中へと埋めてゆく。

 

「んぐ...ぐっ...うっ...」

 

出たり入ったりが何度も繰り返された。

僕の背後でユンホ先輩はふうふう言っている。

 

「くっ...うっ...」

 

ユンホ先輩のものが貫通した。

圧迫感と異物感で苦しいのに、もっと奥まで挿れて欲しい。

抜いて欲しいとは思わなかった。

 

「チャンミン。

どうしてここまで出来る?」

「好きだからですよ」

 

震える僕の頬を撫ぜた。

 

「そうか」

 

入口は焼けるように痛いのに、奥底の圧迫感は悪くなかった。

 

「んっ...んっ...」

 

僕の穴がユンホ先輩を包み込み、うねる姿をイメージした。

そろそろ、突かれるのかな?

ところが、ユンホ先輩は初めての僕を気遣って、ゆさゆさと腰を揺らすだけだった。

 

「どう?」

 

かっかと入口は痛いのにも関わらず、物足りなくて、僕はユンホ先輩の腰に両足を巻きつけた。

 

「いいですっ。

せんぱい、いい、です」

 

 

「邪魔だ」

 

ユンホ先輩は、着たままだったシャツをむしり取った。

1度イったおかげか僕の入口はより緩んで、2度目はユンホ先輩のものを飲みこみやすくなっていた。

僕の中を出し入れするスピードが増していた。

乱暴ではなくて、早く奥深いのに滑らかなピストン運動だった。

 

「あっ...らめっ、そこ...らめっ」

 

「痛い」と口走った途端、ユンホ先輩は動きを止めてしまうから絶対に口にしなかった。

経験不足のせいで、痛いと快感の違いが分からなかった。

でも途中で何度も意識がふわふわしたし、3度もイってしまっていたから、あれが気持ちいい感覚なんだろう。

僕が吐射したものが、ユンホ先輩の胸や腹に塗り広げられている。

 

「先輩...よかったですか?」

 

ユンホ先輩は僕の胸にぐったりと身を預けている。

 

「ああ。

よかった。

よかったよ」

 

その後僕らはしばし、息を整えた。

 

「先輩...重いから下りてください」

 

僕の上になって腰を揺らすユンホ先輩の表情を見たかった。

ユンホ先輩の大きな黒眼に映る僕を、見たかった。

僕をイカせた腰とあそこを見たかった。

いや...見えなくて正解だったのかな。

遅刻早退欠勤しまくりの強引なユンホ先輩に、僕は抱かれた。

ユンホ先輩のスーツ姿を舐めるように見つめていた僕は、下心たっぷりのいやらしい男だ。

だけど、一糸まとわぬ姿となると、僕には刺激が強すぎる。

よりユンホ先輩のことが好きになりそうで怖かった。

肌のぬくもりと感触。

僕の中に放たれた熱いもの。

僕は十分に満たされた。

 

「初めてのくせに、『先輩を抱きます』ってなぁ」

 

くすくす笑うユンホ先輩につられて、僕も笑った。

 

(つづく)

(11)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩の次の言葉を待った。

待ちきれない僕は、「その『好き』は...えっと、あの『好き』と捉えてもいいんですよね?」と訊いてしまう。

 

「『好き』に種類があるのか?

去年、チャンミンは俺に告白してくれたじゃないか?

『好き』って」

 

「あ、あれは...その...。

そういうつもりじゃなくて...」

「じゃあ、どういうつもりだった?」

 

「先輩って面白くていい人だから...好きという意味もあって...」

 

しどろもどろする僕。

僕に向かって放たれた視線は、熱を帯びてとろとろに溶けてきた。

 

「で?」

 

ユンホ先輩は片膝から身を起こし、そのまま後ろの敷布団に倒れ込んだ。

視線から逃れた僕は急に不安になってきて、寝転がったユンホ先輩に近寄った。

フローリングの床が冷たかった。

 

「恋愛の『好き』もちゃんとありました。

でも、さっき言ったみたいに、男から『好き』と告られたら困ると思って...」

 

先輩と後輩の関係を傘に、恋愛感情の「好き」を隠したつもりだったのが、バレていたようだ。

 

「あん時はスルーしてしまったから、どこかで答えてやらないといけないと思っていたんだ」

 

「わかっていたんですか。

先輩...ポーカーフェイスが上手いですね?

僕、ドキドキだったんですから」

「俺も緊張してたよ。

チャンミンに病気のことを暴露したばかりで、お前の反応が怖かったからね」

 

「すみません。

ビックリしてしまって...どう受け止めたらいいか分からなくて...」

「俺も、ゴメン。

話が重かったよな?」

 

「あの時は子供だったんです。

...あの...。

気持ち悪くなかったですか?

男から告られて...?」

「気持ち悪い?

どうして?

チャンミンに見られてる、と思うと、興奮するね。

今もそうだよ」

 

「!」

 

大事な話をしている時に、ユンホ先輩の全身を舐めるように見ていた自分に気づいたのだった。

 

「チャンミンの告白は嬉しかったよ」

「!!!」

 

僕の脳内で、スターマインの爆発音が鳴り響いた。

 

 

この急展開は何なんだ!

喜びと困惑が2つ同時に沸き上がってきた。

この夜のユンホ先輩はいつもと違うことばかりだ。

仕事の後に食事だけじゃなく、部屋に誘い、勢い任せの僕の告白に対して、肯定的な返事をくれた。

何か目的があるはずだ。

都合よくコトが運んでしまっていいのだろうか?

ユンホ先輩は本当のことしか口にしない。

勢い任せもたまにはいい、欲に正直になろう。

 

 

ON状態のユンホ先輩が乗り移ったみたいに、僕から照れと躊躇が消えた。

僕はネクタイを緩め、ジャケットとシャツを脱いだ。

きょとんとするユンホ先輩の目の前で、靴下とスラックスを脱いだ。

最後の1枚を残すところで、ドア横のスイッチを押して照明を落とした。

僕の全身はかっかと火照っていて、全然寒さを覚えなかった。

アパートの外灯の灯りが、欅の窓から室内へと注いでいるだけ。

 

「...チャンミン?」

 

ユンホ先輩の声は掠れていた。

 

「今から、先輩を抱きます!」

 

僕はそう宣言をし、スーツ姿のユンホ先輩の腰の上に跨った。

 

「チャンミンっ!

どうした?」

 

ユンホ先輩は僕の手首をつかみ、脱がされるのを阻んだ。

 

「ユンホ先輩を抱きます!」

 

文句を言うくせに従順だった後輩に突然襲われたんだ、ユンホ先輩はびっくりだ。

 

「チャンミン!」

 

起き上がれないよう、またがる腰に全体重をかけた。

そして、ユンホ先輩の頬を両手で包み込み口づけた。

力いっぱい唇を押し当てただけの、色気のないキス。

知識を総動員させ、ユンホ先輩の唇をついばんでみせた。

突拍子もなく、非常識で馬鹿で恥知らずなことをやっている。

僕の肩を突っ張っていたユンホ先輩の両手から力が抜けた。

 

「!」

 

ユンホ先輩の手が僕の後頭部に回され、引き落とされた。

僕の幼稚な唇は、ユンホ先輩の大人な唇に覆われた。

 

「ん...」

 

それから、慣れた舌が僕の唇を割って侵入し、柔らかな舌先が内頬をくすぐった。

僕の唾液ごと舌を吸われた時には、顎の力は抜けてしまっていた。

ユンホ先輩...キスが...凄いです。

 

「下...脱がせてよ」

 

耳元で囁かれ、温かい息にぞわりと鳥肌がたった。

唇が離れてからも、顎から首筋へと快感で痺れていた。

 

「チャンミンから出るもので、俺の服が濡れる」

 

指摘された箇所を手で探ってみて、自分のそこが前を向いていることを知った。

 

「あ...」

 

恥ずかしくて赤面した両頬を押さえていると、

 

「あっ!」

 

僕は軽々とひっくり返され、ユンホ先輩に見下ろされていた。

がらんどうの部屋は暗い。

ユンホ先輩の顔のつくりも表情も、どちらもほとんど分からない。

 

「抱くのは俺だ」

 

 

すべてにおいて僕の動きはぎこちなく、関節は震えている。

そして、固くかたく閉じた入口。

 

「お前...初めてか?」

 

「...はい」

 

男の人との行為はユンホ先輩が初めてだった。

 

「今日中は無理だぞ?」

「いいえ!

大丈夫です!」

 

僕の身体もアイテムも、準備ができていなかった。

 

「こんなんじゃ無理だ。

代わりにしごいてやるから」

と、ユンホ先輩は挿れた指を抜いてしまう。

 

その度ユンホ先輩の手をつかんで、僕の方へと引き付けたのだった。

何が何でも最後までやってやる意地がどこから来ていたのか、その時には分からなかった。

ユンホ先輩は僕の肘や膝が痛まないよう、掛布団を引き寄せて下にあてがってくれた。

 

 

アパートは、繁華街からも幹線道路からも離れた閑静な住宅街にある。

ガタガタと鳴る家具はこの部屋にはない。

互いの肌が打ち合う音と、その合間に湿った音。

ユンホ先輩は行為に手馴れていた。

それは男の僕を受け入れられる証拠だ、過去に嫉妬するよりもホッとした。

うまくいったときには、日付が変わっていたと思う。

ユンホ先輩も僕もへとへとだった。

 

 

抱きあった後だ。

僕は荒い呼吸で上下するユンホ先輩の胸に頭を預けていた。

胸の谷間に浮いた汗の雫が、外灯の灯りに光っていた。

 

ユンホ先輩は話し出した。

ユンホ先輩は田舎出身で、妹がいること、入院中の病室から裸足で逃げ出したり(翌日の検査が嫌だったんだそうだ)、青白い顔色をしたクソガキだったこと。

大きなスパンで見ると数年、細分化してみると数カ月スパン。

もっと細分化すると、数週間スパンでユンホ先輩は揺れてしまう。

十数年薬を飲み続けていること。

とても調子がよいときは自分でも止められないこと。

突如、調子が悪くなること。

そのムラが性格上のものに思われるよう、自ら心の距離を置いて、出来得る限り快活な人物に見えるように振舞っていること。

 

「...大変ですね」

 

注意深く相づちをうった。

ユンホ先輩は、職場で最も多く言葉を交わす人だ。

ユンホ先輩は話がうまく、相づちの打ち方が絶妙で、どちらかというと口下手な僕でも話が弾んだ。

 

7年間もあれば、数えきれない会話が積み重ねられてゆく。

ユンホ先輩は単なる馬鹿正直者とは違う。

自分を大きく見せようとすることも、逆に卑下することも言わない。

ユンホ先輩の言葉はすべて、本当のことなのだ。

だからこそ、ユンホ先輩と交わした会話のいくつかを...印象に残った会話を...その時の風景まで覚えているのだ。

 

 

喉の渇きを覚えた僕は、ユンホ先輩の腕の中から抜け出した。

折りたたみテーブルの上の、飲みかけのビールを煽った。

気が抜けて苦くて、全然美味しくない。

ふり返ると、肘枕をついたユンホ先輩が僕の方を見ていた。

見えないだろうけど、僕は笑ってみせた。

 

「ん...」

 

今さら気が付いた。

 

「好きだった」と言っていた!

 

過去形だった!

行為の間中気になっていたワケ、今夜中にヤラなければならないとムキになってしまったワケは、このことだったんだ!

 

僕の馬鹿馬鹿。

 

 

(つづく)

(10)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩の言う通り、ちらついていた雪がさらさら降りに変わり、路面を白く覆っていた。

気温が低い証拠に、雪の一片ひとひらが細かかった。

スーパーマーケットで総菜や飲み物、つまみになるものを買い、ユンホ先輩のアパートへ向かった。

道中ずっとユンホ先輩は無言で、僕の方も話題を探す努力はせず、口を閉じていた。

明らかにいつもとは様子が異なっていた。

一度部屋に戻ったらしく、ユンホ先輩は私服姿だった。

ユンホ先輩の恋人を空想するたび、彼の私服姿も一緒に想像していた。

 

「さぞエッジのきいたファッションに身を包んでいるのでは?」の僕の予想を裏切って、気の抜けたものだ。

ノーマルなユンホ先輩の恰好なんだろうな、ラフなのにスタイルの良さが際立っていたもので、よく似合っていた。

 

「忘れてた...!」

 

ユンホ先輩はつぶやき、前方に見えるコンビニエンスストアへと駆けて行った。

 

「先輩!」

 

ユンホ先輩のスニーカーが付けた足跡を、そのまま辿りながら彼を追った。

身長は変わらないのに、ユンホ先輩の歩幅は大きかった。

ユンホ先輩がコンビニエンスストアに立ち寄ったのは、僕の下着を買うためだった。

 

「えっ?えっ?」

 

下着...ということは...?

 

「今夜のチャンミンは、俺んちに泊まるんだ」

「待ってくださいよ!

先輩んちにって...何も準備してないし、予定していないし...」

 

「お泊り発言」にびっくりしてしまい、相変わらずのユンホ先輩の強引さについていけずに、あたふたしてしまった。

 

「その準備を今してるんじゃないか?」

 

ユンホ先輩は僕の頭からつま先まで見ると、

 

「お前は...Mサイズでいいな。

あとは、靴下と...。

Tシャツは俺のを貸してやる」

 

僕の異議を差し挟む隙を与えず、てきぱきと買い物かごに入れてゆき、会計まで済ませてしまった。

店内の明るすぎる照明のもとで、案の定、ユンホ先輩はくすんだ肌色をしていた。

今のユンホ先輩は本人の言う通り、冴えている。

ユンホ先輩を注意深く観察するようになった1年半の経験上、そろそろエネルギーが消える瞬間が迫っている。

 

パチン、とスイッチが切れるかのように。

 

 

「...先輩」

 

僕は絶句した。

部屋はがらんどうだった。

敷布団が1組と折りたたみテーブルがあるだけ。

テレビも無くなっていた。

 

 

折りたたみのテーブルに、買ってきた食べ物と飲み物を広げ、ささやかな晩餐が始まった。

ユンホ先輩はおそらく、僕に話したいことがあるんだ、と直感していた。

僕はビールを、ユンホ先輩はジュースを飲んでいた。

後輩だけお酒を飲んでいていいのかなぁ、遠慮がちに口をつける僕に、ユンホ先輩は苦笑した。

 

「薬を飲んでいるから、アルコールはダメなんだ」

「そういうものなんですね」

 

初耳だったから驚いた。

 

「いっぱいあるんだ、食え食え」

 

ユンホ先輩は僕の前に、総菜のトレーを押しやってくれる。

冷えてぼそぼそした焼きそばを頬張る僕を、ユンホ先輩はニコニコしながら見守っている。

 

「若いっていいなぁ」

「先輩だって若いですよ」

 

「俺は30過ぎのおっさんだ」

「知ってます、先輩?

僕ももうすぐ30歳なんですよ?」

 

「え!?

若く見えるなぁ」

「よく言われます。

童顔なので」

 

物もなく、音もなく、色もない空間は、引っ越してきたばかりの部屋みたいで、僕らの声はよく響いた。

 

「お前、俺の尻ばかり見ていただろ?」

「えぇっ!?」

 

ユンホ先輩の突然かつ唐突な発言に、僕はとび上がった。

そして、僕の中でパチン、とスイッチが入った。

ビール2缶でほろ酔い気分の僕は、アルコールの力を借りることにした。

僕は胡坐から正座に座り直し、背筋を伸ばした。

 

「はい、見ていました」

 

僕ははっきり認めた。

そりゃそうだろう、ユンホ先輩の切れ長の目が真ん丸になった。

僕はユンホ先輩のことがずっとずっと気になっていた。

ずっとずっと、ユンホ先輩に気持ちを打ち明けたかった。

でも、それがしづらい理由があった。

 

「僕は...男が好きな男です。

僕の恋愛対象は男です。

だから...言えずにいました」

「...チャンミン...」

 

「先輩に気持ち悪いと思われたくなかった。

先輩のことだから、今までと変わらない態度で接してくれると思います。

でも、先輩のことを見ていたり、こんな風に...」

 

僕はユンホ先輩の肩に触れた。

 

「偶然、身体が触れてしまった時。

こんな風に。

下心があるんじゃないか、って警戒されたくなかったんです」

「......」

 

「僕っ...先輩のこと」

 

正座した太ももに置いた手を、ぎゅっと握った。

葉を落した欅の枝に雪が降り積もってゆく。

アイスクリームを食べた夏の日。

Tシャツ姿のユンホ先輩が頬杖をついていた窓辺。

結露した窓の桟に、抱っこサイズの真っ白な熊がちょこんと座っていた。

 

「...あ」

 

傷ついたユンホ先輩を見たくなくて、意気地なしの僕はぬいぐるみに向かって話したんだった。

これは残しておいたんですね?

今夜の僕はユンホ先輩の目を、まっすぐ見つめた。

ユンホ先輩と確かに目が合っている。

 

「好きです」

 

なぜ、心の内をさらけ出すことができたか?

それは、ユンホ先輩がどこかへ行ってしまうと、心のセンサーがキャッチしていた。

言い逃げのような形の告白。

意気地なしで弱虫な自分は昨年と変わりがなかった。

けれども、ユンホ先輩はここを去る覚悟を決めていると分かっていたから、大胆になれたのだろうか。

 

「俺はお前が好きだったよ」

「...先輩...?」

 

「好きだった」

「えっと...あの...その...」

 

ユンホ先輩の言葉の意味が数秒遅れで認識できた時、僕の脳内で花火が打ち上げられた。

 

「ええええっ!?」

 

どう解釈すればいいんだろう!?

ユンホ先輩の「好き」と、僕の「好き」が違っていたら大赤面ものだ。

 

(つづく)

(9)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩とセックスをしてしまった日のことを語ろうと思う。

入社7年目の冬のことだ。

凍てつく寒さの倉庫で、僕はやはり一人で棚卸を行っていた。

ジャージの上にジャンパーを、ニット帽をかぶり、ポケットにはカイロを仕込んでと、防寒対策は万全だった。

それでも、かじかむ指からペンを取り落しそうになった。

終業2時間前、ユンホ先輩はすまなさそうに僕に会釈をした。

体調が悪いのだろう、その笑顔も口角だけをわずかに持ちあげたささやかなものだった。

僕は「分かってます、お大事に」の気持ちをこめて頷いてみせた。

僕はユンホ先輩の秘密を知っているのだ。

自分だけが知っている優越感に浸っていた。

 

 

ここ1か月間、ユンホ先輩は絶好調だった。

遅刻早退欠勤なし、声も大きくはきはきとしていた。

大きな商談をあっという間にまとめ、3カ月連続で昨対を割っていた僕らの部署を数字から救った。

調子がよい時期のユンホ先輩は突っ走ってしまうから、僕はそばで見ていてヒヤヒヤしていた。

薬名を頼りに調べなくても、ユンホ先輩を注意深く観察していれば、彼が常人以上にエネルギーを使って生きていることが分かった。

僕の乏しい知識から、ユンホ先輩が抱える病気...障害について、なんとなく分かりかけていた。

1年前の夏以来、ユンホ先輩は僕の前ではより自由に振舞っているように見えた。

強がっていない、っていうのかな?

「ユンホ先輩、ちゃんと寝ています?」と尋ねると、「そうだなぁ...1時間は寝てるよ。眠くならないんだ」と正直に申告してくれた。

明らかに塞ぎ込んでいる時は仕事どころじゃないようで、「先輩、心配されたくなければ早く帰ってください」と、会社から追い出した。

4日連続欠勤した時はさすがに心配になって、食べ物を差し入れにアパートを訪れた。

ドアを開けたユンホ先輩は、ボサボサ頭で眼は半分しか開いていなかった。

僕は靴を脱ぎ、室内へとユンホ先輩の背中を押した。

室内を埋め尽くしていたぬいぐるみが消えていた。

 

「あ...れ?

ぬいぐるみは?」

「...捨てた」

「そう...ですか」

 

代わりに室内は、このアパートの外観にふさわしいカントリー調のインテリアにまとめられていた。

ぬいぐるみを押し込んだゴミ袋を、収集ステーションに運ぶユンホ先輩。

こうと決めたら自分を止められないと、ユンホ先輩は言っていた。

いくらでも手伝ってあげたのに...代わりに僕が貰ってあげられたのに。

ユンホ先輩は僕だからこそ、打ち明けてくれたんだ。

先輩と後輩関係でいた6年間で、ユンホ先輩は秘密を打ち明けてもいいくらい、僕を信頼してくれたと思いたい。

実のところ、打ち明けずにはいられないほど辛くなっていたんだったとしても、出来る限りサポートしてあげたいと思うようになった。

意気地なしから突っぱねてしまった後悔を消したい自分のためでもあるし、後輩として好きだったし、ひとりの男性として好きだったからだ。

 

 

通常より在庫を多く抱えていたこともあり、棚卸作業は終業時間を過ぎても終わらない。

僕は端の端まで手を抜きたくない固い男だから、余計に時間がかかっていた。

倉庫内は暗闇に沈み、いよいよボードの文字が読みにくくなってきたし、鉄製階段のステップを踏み外したら危険だ。

両手に息を吹きかけながら、電源スイッチのある入り口ドアまで向かった時だ。

突然鉄製ドアが開き、倉庫に入ってきた人物が、シルエットだけでユンホ先輩だと分かった。

 

「...先輩?

帰ったんじゃなかったんですか?」

「可愛い後輩がいるのに、帰るわけないだろ~」

 

ユンホ先輩は分厚いコートに、ぐるぐる巻きにしたマフラーに顎を埋めていた。

 

「ふふふ。

明日は吹雪になるかもしれませんね。

建物の中なのに、マイナス2℃ですよ」

 

僕はドア横の気温計を指さした。

 

「ああ、降るかもね。

もうチラつきだしてるよ、風も強い」

「ここは僕ひとりで大丈夫です。

もう少しで終われそうです」

 

ユンホ先輩は僕からボードを取り上げると、ペーパータオルの段ボールの棚をちらりと見、さらさらっと数字を記入した。

 

「先輩!

適当な数字を...」

 

手を高くかかげて、ボードを取り上げようとした僕を阻んだ。

 

「1箱2箱違ってても、分かんないさ。

最近の俺は冴えているんだ。

だいたい合っているよ」

 

調子が悪いと言っていたくせにけろっとしている風に見えたけれど、暗がりのせいで表情と顔色を確かめられない。

毎度腹をたてていたら、ユンホ先輩の隣にはいられない。

 

「これから夕メシを食いにいこう」

「ええっ!?」

 

夕飯を誘われたのは初めてだった。

 

「いいんですか?」

「ああ。

外は落ち着かないから、俺んちでいいか?」

 

「かまいません...けど」

 

カントリー調インテリアの部屋から、今はどんな部屋に様変わりしているだろう?

 

 

この後、僕はユンホ先輩の部屋に行き、夕飯を食べ、それから...。

どういう流れでセックスをすることになったのか、どんな風だった詳細を書いてもいいのかな。

ショックがダイナマイト級で、僕の頭も身体もくらくらしてしまったし、僕とユンホ先輩の関係が決定づけられた出来事でもあるから、説明した方がいいのかな。

 

(つづく)

(8)ユンホ先輩

 

入社4年目のことだ。

 

当時の僕の目にはまだ、営業成績ナンバーワンのユンホ先輩の裏の努力を知らずにいた。

 

身の回りに必ず1人はいる、オンオフの差が大きく、省エネモードが常の者として映っていた。

 

資料まとめに精を出していた午後2時。

 

「ジュースを飲みに行こう。

喉が渇いた」

 

背後からユンホ先輩の声が降ってきた。

 

数十秒前から背中に視線を感じていたけれど、わざと無視をしていた。

 

資料完成までタイムリミット1時間を切っており、ユンホ先輩の相手が出来る余裕はなかったからだ。

 

「お断りします。

昼休みから1時間も経っていないんですよ?

僕は忙しいのです。

ひとりでコーラを飲んできてください」

 

「びしっと断ることができた」と、誇らしく思っていたら...。

 

「わっ!」

 

強引なユンホ先輩は、僕が座るオフィスチェアの背もたれをつかむと、ごろごろと事務所の外へと押していくんだ。

 

「ちょっ...待って!」

 

「待たない。

かっかしながらの仕事は、いい結果を生まないぞ」

 

「落ちる...!」

 

「キャスターがぶっ壊れるのでは?」と不安になるスピードで、僕は振り落とされないよう椅子の座面をつかんでいた。

 

僕を乗せたオフィスチェアは廊下を疾走していった。

 

 

「チャンミンは何がいい?」

 

「アイスコーヒーのブラックをお願いします」

 

自販機前で飲み物を選ぶユンホ先輩。

 

手元から滑り落ちた2本のペットボトル。

 

長椅子の下に転がるそれを追う手が、それをキャッチした手とぶつかった。

 

ベタなシーン。

 

初めてユンホ先輩の身体に触れた時だったと思う。

 

4年間も共に働いてきて、指先ひとつ触れ合わずにきたことに驚いた。

 

僕が意識的に「触れたらいけない」と、接触しそうになるのを避け続けていたのだろうか。

 

ユンホ先輩に抱く感情の濃度が、他者とは違うことに気付いた瞬間だった。

 

あんな問題児と恋愛ができるとは、とても想像がつかなかった。

 

ユンホ先輩の恋人は振り回されて苦労していそうだ。

 

後輩である僕でさえ、呆れっぱなしなのに。

 

でも...もし恋人がいるとしたら...どんな人なんだろう、と興味が湧いた。

 

その頃だったのかな。

 

ユンホ先輩の首筋や肩、腰やお尻に普通じゃない視線を向けてしまうようになったのは。

 

渋々ながら、ユンホ先輩の昼食の誘いに内心ウキウキとしていた。

 

「ユンホ先輩。

今日はパスタにしません?

美味しいカルボナーラを出すお店がオープンしたそうですよ?」

 

「俺は行きたくない。

俺はラーメンの気分なんだ。

カルボナーラが食いたければ一人で行ってこい。

じゃあな」

 

「わっ!

僕もラーメンにします!」

 

立ち去るユンホ先輩を追いかけることもあったなぁ。

 

「明日、カルボナーラを食いに行こうか?」

 

「...明日は休みですよ」

 

気に召さない提案の時はばっさり断る遠慮のなさは、ユンホ先輩相手だと僕も同様だった。

 

ユンホ先輩の前では、僕は正直者になれてると思う。

 

それなのに、入社6年目の夏。

 

ユンホ先輩が差し出してくれた秘密...むき出しの心を、丁重に押し返してしまったのだ。

 

僕は職場の後輩に過ぎないのに、仕事の範囲を超えたところまで踏み込んでしまっていいのか?と躊躇してしまったんだ。

 

尊敬したり呆れたり、綺麗な横顔に憧れているだけがちょうどよいのでは?と、変化を恐れていたんだ。

 

けれども、あの日以降のユンホ先輩は、「僕を頼ってください」の言葉通り、僕の肩に触れる程度の控え目さで、僕を頼ってくれた。

 

たった1年半の間のことだったけれど。

 

嬉しかったなぁ。

 

 

ユンホ先輩が3か月ほど休職したことがあったことを思い出した。

 

海外へ放浪の旅に出かけたのでは?

 

入社3年目の僕は、他部署の者たちの噂話を信じ、なんと社会人失格な人物なんだろうと呆れていた。

 

それは僕の心の中で温かに膨らむ感情を、抑え込むストッパーとして働いてくれた。

 

ユンホ先輩のアパートを初めて訪れた夏のあの日にやっと、休職した理由が分かった。

 

放浪の旅どころか、3か月入院していたのだ。

 

部長も課長も人事部も承知のことで、僕らの部署では事情を知らないのは主任と僕の2人だけだった。

 

個人情報を一切漏らさないその徹底ぶりに、案外いい会社だなぁと感心したのだ。

 

 

(つづく)

 

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