(7)ユンホ先輩

 

 

ユンホ先輩が放ってよこした薬袋は、受け取ってすぐ彼に押し返した。

 

「そこまでしなくても...。

言いたくないのなら黙っていていいですから」

 

僕に調べさせようだなんて...。

 

僕にとってのユンホ先輩は、大胆でポジティブそのものだったから、脆さが垣間見えてしまって哀しかった。

 

この哀しさは落胆、という意味じゃない。

 

外回りの日以外はほぼ毎日、1日8時間面を付き合わせている仲なのに、ユンホ先輩は脆さを気取られないようにしていたんだ。

 

6年間騙され続けていた自分も素直過ぎるけれど、さ。

 

傷ついた表情をしているだろうユンホ先輩を見たくなかったから、斜め横にちょこんと座る抱っこサイズの熊に向かって話した。

 

「ユンホ先輩は健康じゃない時がある。

だからこれからは、遅刻したり休んだりしても、全てがサボりだとは思いませんよ。

10回中1回は体調不良だと思っておきます」

 

「そりゃどうも」

 

「辛い時があったら僕に頼ってください。

代わりにできることは、力になりますから」

 

「...そっか。

ありがと」

 

ユンホ先輩は僕の言葉に落胆しただろう。

 

僕からの質問を待っていたのだから。

 

「僕なら大丈夫、全部打ち明けてください」と、胸を叩けなかった。

 

...ユンホ先輩、ごめんなさい。

 

今の僕じゃ力不足です。

 

受け止めきれません。

 

ユンホ先輩はとても大きな存在で、部屋に上げてもらった上に、秘密まで教えてもらって、喜びの洪水であっぷあっぷしそうなんです。

 

もう少し、時間をください。

 

 

「...存在自体、か」

 

先ほどのユンホ先輩の言葉をつぶやいてみた。

 

「...俺は...」

 

「はい?」

 

「このぬいぐるみ...異常だろ?」

 

「...はい、まあ...そうですね。

こつこつ集めたんですか?」

 

「こつこつどころか、一か月でばば~っと集めた。

部屋いっぱいに欲しかったから。

血眼になって探して、大枚払って集めに集めた」

 

そうだろうな、これだけの数を集めるには相当な額が必要だっただろう。

 

「どうして熊のぬいぐるみなんです?」

 

「たまたま、それだっただけ。

集めるものは何だっていいんだ。

欲しいと思ったら止められない、一直線だ。

熊の前はスニーカーを集めていた」

 

「そのスニーカーは?」

 

「捨てた。

異常だよ」

 

その後の僕らは無言だった。

深追いしなかった僕のせいだ。

でも、これだけは伝えておかないと、と思った。

 

「先輩」

「んー?」

 

「僕、先輩のこと馬鹿になんかしてません。

そりゃあ、呆れることはありますよ。

肝心な時にいなかったりして、ムカつくこともあります。

正直に言っちゃうと、ちょっとだけ小さく小馬鹿にしてたかもしれません」

「それが嫌だったんだよ」

 

つんと口を尖らせたユンホ先輩が可愛くて、くすりとしてしまった。

 

「『小馬鹿』っていう言い方が悪かったですね。

『やれやれ、仕方がないなぁ』って、呆れてる感じです」

「呆れて当然だよ」

 

ユンホ先輩にしてみたら、相手にため息をつかせることイコール、馬鹿にされている風に捉えてしまうのだろう。

 

「...ユンホ先輩は。

強引だし、いい大人が遅刻ばっかりしてるし、サボってアイス食べてるし。

ムカつく客には容赦ないし」

「......」

 

「すごくカッコいいのに変わり者過ぎて、うちの女性陣からは全然モテないし。

ぬいぐるみの部屋に住んでるし...びっくりですよ」

 

「......」

 

「そんなユンホ先輩が面白くて...僕。

僕、好きですよ。

別にそのままでいいじゃないですか。

僕は今のユンホ先輩しか知らないんですから」

「...そっか」

 

18℃に設定した室内は涼しく、さらさらに乾いた肌に触れるふわふわの毛皮が気持ちよくて、うとうとと眠くなってきた。

 

「ここで昼寝してゆけよ」

「はい」

 

僕は素直に頷いた。

「布団代わりだ」とユンホ先輩は僕の上にぬいぐるみを積んでくれた。

 

「ぬいぐるみに埋もれる会社員...シュールで可愛いよ」

 

ユンホ先輩の手が伸びてきて、僕の前髪をくしゃっとした。

やる時はやるし、優しいし、ランチは2回に1回は奢ってくれるし、僕より年上なのに肌はきめ細かいし、すっきり涼し気な目元に鼻も高いし...。

 

なんだよ、最高じゃないか。

 

 

目覚めた時は夕刻で、真夏の日没までには2時間はあった。

蝉の鳴き声はいくぶん、大人しめになっていた。

ユンホ先輩は窓の桟で頬杖をついて外の景色を眺めていた、ぼんやりと。

そして、ワイシャツは脱いでしまっていて、白いTシャツ姿になっていた。

欅の枝葉が、ユンホ先輩の白い顔にまだら模様の影を作っていた。

手をいっぱいに伸ばせば欅の枝に届きそうだった。

 

「起きたか?」

 

僕の気配にユンホ先輩は振り向くと、にっこり笑った。

 

「はい」

 

僕はぬいぐるみの中からもぞもぞ起き出して、ユンホ先輩の隣に腰をおろした。

 

「大自然で暮らせたらいいなぁ。

こんなゴミゴミしたところじゃなくってさ」

「僕もそう思います」

 

濃い緑色の葉が、眩しく熱い西日を遮ってくれていた。

 

「虫が苦手なら難しいんじゃないかな?

田舎は虫の王国だぞ」

「その気になれば、殺虫剤に囲まれて住みますよ」

 

「何万匹も目にしているうちに、素手で捕まえられるようになるさ」

「何万匹...怖いこと言わないでくださいよ」

 

ユンホ先輩のぬいぐるみの部屋を訪ねたのは、この夏の日の1回きりだった。

 

 

薬袋に印刷された薬名は調べなかった。

うろ覚えだったし、知ったところでどうしようっていうんだ?

調べるべきだったんだろうと思う。

ユンホ先輩は知られたがっていた。

後になって僕は気が付いた。

その時は聞き流していた言葉。

 

『家族や恋人以外には絶対に知られたくないこと』って言っていたじゃないか!

 

ああ、僕の馬鹿馬鹿。

 

 

(つづく)

(6)ユンホ先輩

 

アンティーク調のドアが並ぶ中、ユンホ先輩の部屋のものだけ真新しく浮いて見えた。

鍵穴に接着剤を注入されてドアが開かず、出社できなかったことがあった件の証だ。

 

「ドアをけ破ろうと無茶苦茶やってしまって...ドアごと交換になったんだ」

「閉じ込められるなんて...どこかで恨みを買ってたんじゃないですか?」

 

僕の冗談を否定するかと思ったら、ユンホ先輩は「...そうかもね、俺が意識していないだけで」と答えた。

 

「俺ね、トラブルを引き寄せちゃうんだよね」

「分かる気もしますけど」

 

室内は、僕の予想を超えて凄まじかった。

無駄を徹底的に省いたミニマリストな部屋か、真逆のカオスな部屋か、どちらかだと予想していたのだ。

間取りはワンルームで、多分10畳くらい。

「多分」と言ったのは、床が見えなかったからだ。

それはぬいぐるみの大群だった。

床一面を、むぎゅむぎゅと大量のぬいぐるみが埋めていた。

ふわふわの雲の上にいるかのようだった。

 

「...せ、んぱい...」

 

全て白い熊だった。

 

「マヂですか...?」

 

手の平にのるくらいの小さなものから、長身のユンホ先輩ほどある巨大なものもあった。

 

「座れ。

とっとと食べよう」

 

ユンホ先輩は、ぽかんと立ち尽くす僕から買い物袋を引き取った。

 

「でも...」

「座れって」

 

手首を引っ張られ、僕はその場にすとんと腰をおろした。

数匹のぬいぐるみが僕のお尻の下敷きになってしまっている。

ユンホ先輩の「クッション代わりになって座り心地がいいだろ?」の言葉通りだったけれど。

ただし、今の季節にファーの感触は暑苦しかった。

 

「俺の部屋については後で説明してやる。

質問には後で答えるから 今はアイスを食おう」

 

 

アイスクリームは唇に触れた途端、ずるりと棒から溶け落ち、慌てて舌で受け止めた。

指に垂れるクリームは冷たくて、肌に温められてたらたらと手首へとつたっていった。

アイスクリームを食べることに集中した数分間、僕らは無言だった。

ノルマはひとり5本。

クリームを舐める舌の音。

ユンホ先輩の濡れた下唇に、視線は自然と吸い寄せられた。

ユンホ先輩と目が合いそうになる度、僕は慌てて室内を見渡すフリをした。

3回繰り返した。

4回目でユンホ先輩の視線に捕まってしまった。

 

「俺の顔になんか付いてる?」

 

僕の頭はフル回転、苦し紛れに出したこの言葉。

 

「ここに...チョコレートが」

 

と、唇の横をちょんちょんと指さしてみせた。

 

「ここ?」

 

唇の片端を拭うユンホ先輩に、「いえ、そっちじゃなくて...」と逆を指し示した。

 

「ここ?」

 

ユンホ先輩は鼻の頭を指さしたのだ。

 

「...いや、そこじゃなくて...」

「ここ?」

 

今度は耳たぶを指さしている。

 

「...先輩」

 

ユンホ先輩はニタニタ笑っていて、どうやら僕をからかっているらしい。

 

「ここです」

 

とっさに指さしてしまったのは唇の真上だった。

 

「え?」

 

ああ、なんて大胆なことを...恥ずかしい!

 

「えっと...子供みたいにチョコだらけです。

口の周り全部」

 

ユンホ先輩に射竦められて、僕は顔を背けることも目を反らすこともできずフリーズしていた。

 

「チョコだらけ...です」

 

僕らは次のまばたきまでの間、見つめ合った。

ユンホ先輩の黒目は大きくて、どこを見ているのか分かりにくいのだけど、今この時は確かに僕と目が合っている。

心の中は「どうしようどうしよう、この後何を言えばいいんだろう?」とパニックだった。

 

「チャンミンがとってよ」

 

ユンホ先輩はのり出していた身をひくと、巨大ぬいぐるみに埋もれるようにもたれかかった。

ホッとしていたし、ユンホ先輩とどうにかなってしまいそうな期待が破れて残念がってもいた。

 

「はい...」

 

ユンホ先輩の傍まで、四つん這いでぬいぐるみをかき分けていった。

 

「ここです」

 

ユンホ先輩はじっとしていた。

付いてもいないチョコレートを親指で拭った。

冷たくしっとりとした触感。

ふかふかに柔らかな触感。

 

「チョコだらけです」

 

ユンホ先輩の唇に触れた指を、僕は咥えてしゃぶった。

僕の行為に驚いたのか、ユンホ先輩の目が大きく丸くなった。

 

「...あ...!」

 

なんと大胆なことをしてしまったのだろう!

僕の心は再び大パニック状態になった。

ティッシュやハンカチで拭えば済むことなのに!

 

「...チャンミンって」

 

ユンホ先輩はぬいぐるみから身体を起こすと、

 

「面白いやつだなぁ」

 

両頬を押さえて大赤面する僕の肩を、ぐらぐら揺すった。

僕はうつむいていたから、ユンホ先輩の顔色を確かめられなかった。

照れていたらいいな、と思った。

 

 

「身体のこと...どうして今さら教えてくれる気になったんですか?」

 

アイスを食べ終わった僕らは、ぬいぐるみに全身を預けて、並んで横たわっていた。

 

「...そうだなぁ...」

 

ユンホ先輩はそう言いかけたまま、黙ってしまった。

 

「あの...言いたくなければ。

すみません、変なこと聞いてしまって」

 

「いや」

 

ユンホ先輩は僕の方へと、横向きに寝返った。

 

「お前には馬鹿にされたくない、と思ったんだろうな。

誤解され続けたくない、っていうの?」

 

「...馬鹿になんか...してないですよ」

 

僕は半分だけ嘘をついた。

 

「病気...じゃなくて障害については家族と恋人以外には絶対に知られたくなかった。

不真面目で身勝手、変わり者で通していれば、だいたいはなんとかなる。

知らせる必要もない。

でも、『本当の自分』を知って欲しい欲はあるんだ」

 

「先輩は...どこが悪いんですか?」

 

「...俺の存在自体」

 

「...言っている意味が分からないんですけど?」

 

ユンホ先輩はぬいぐるみの海をかき分け、白い紙の袋を持って戻ってきた。

 

「後で薬の名前を検索してみな。

自分の口からは言いづらい」

 

ユンホ先輩の黒目は潤んでいて、どこを見ているのかわからなかった。

 

 

(つづく)

(5)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩の言葉通り、彼の住まいは車で1分のところにあった。

仕事をサボってしまう後ろめたさより、アイスクリームが溶けてしまわないかヒヤヒヤする方が強かった。

何の権限もないくせに堂々とした「サボれ、俺が許す」発言に、「ユンホ先輩がそう言うならそうするしかないよね」と。

 

「ここだ」

 

慣れたハンドルさばきで外壁ギリギリ数センチに駐車するあたり、頻繁に一時帰宅していたのだろう。

 

「先輩!」

 

ユンホ先輩は車を下りると、僕とアイスクリームを残してすたすたと行ってしまおうとしたから、彼の背中に向かって怒鳴った。

 

「下りられないです!」

 

僕の大声に気づいたユンホ先輩は振り向き、にこにこ顔で手刀をきりながら戻ってきた。

 

「僕がいること頭になかったですね?」

 

「悪い悪い。

付録がついてくるのは初めてなんだ」

 

「付録って...僕のことですか?

酷いですね」

 

「俺んちに誰かくるのは初めてってこと。

ほら、こっちから出ろ」

 

ユンホ先輩は運転席のドアを開けると、僕の手首をつかんで引き寄せた。

固くて力強く、少し汗ばんだ熱い手で、とても病弱な者の手指じゃなかった。

 

 

どこよりも蝉の鳴き声を間近に感じられるのは、欅の巨木のせいだった。

旺盛に茂った枝が、レンガ色の瓦屋根を覆っていた。

築年数は経っているようで、よく見ると白壁にはヒビが入っていて、唐草デザインのベランダの鉄格子は色褪せていた。

キョロキョロ周囲を見回す僕は、足元がおろそかになっていた。

僕の靴底は軽やかな何かを踏み、くしゃりと乾いた音に驚いて、飛び退いた。

 

「どうした?」

 

ユンホ先輩は僕の革靴にスタンプされ粉々になったものを確認すると、呆れた表情をした。

 

「なんだ...蝉の抜け殻だよ。

落ち葉みたいにザクザク落ちてるんだ。

洗濯物にくっついていることもあるし。

...ん?

もしかして、怖い?」

 

「はあ...そんなところです」

 

虫が苦手だったから、あちこちに転がる抜け殻を踏まないようジグザグに歩いた。

 

「中身はないんだぞ?

空っぽなんだぞ?」

 

ユンホ先輩は抜け殻を1つ拾い上げて「ほれほれ」と、僕の方に差し出して見せるんだから。

 

「それでも無理です」と顔を背けた僕に、ユンホ先輩は「都会っ子だな」と笑った。

 

建物内の空気がひやりとしているのは、脇に立つ巨木のおかげなのかもしれない。

 

「もっと怖いこと言ってやろうか?

あの木の根元には何百、何千匹の蝉の幼虫が埋まってるんだ。

うじゃうじゃと。

怖いだろ~?」

 

「僕はそこまで虫嫌いじゃないですってば。

そういえば、蝉って大人になるまで何年も土の中にいるんですってね。

7年でしたっけ?」

 

「そう思われているけど、実際は3,4年で出てくるらしい。

土の中からもぞもぞと...怖いだろ?」

 

「しつこいですよ、先輩」

 

部屋までは内階段、内廊下になっている。

ユンホ先輩は「ここはエレベーターはないからな」と親指を上に立ててみせた。

エレベーターが無くて大丈夫なのかな...?

「身体が弱い」イコール「心臓がよくない」と、勝手にイメージしていた僕だった。

先立って階段を上るユンホ先輩のお尻が、僕の目の前にあった。

スラックスの生地が 左右交互に隆起する筋肉で張りつめるのを、目で追ってしまっていた。

吸い寄せられるように。

片手に下げていた買い物袋でそっと、固く反応しはじめた前を隠した。

アイスクリームの箱は汗をかいていて、柔くたわんでおり、半分は溶けかかっているだろう。

外はこんなにも暑くて、僕の身体は茹だっているみたいだ。

3階分の階段を上った僕の鼓動は、ドクドクと速かった。

 

 

このアパートはいかにも女性が好みそうな洋館風の建物だった。

意外だった。

『あの』ユンホ先輩なら、今にも崩れそうなオンボロアパートか、その真逆の高層マンションに住んでいそうだな、と予想していたからだ。

6年も同じ職場にいたけれど、互いの自宅を知らなかった。

新卒で入社した僕は世間知らずで、社会人とはそういうものなんだろうと疑問にも思わなかった。

ユンホ先輩のプライベートを知る機会は、いくらでもあったのだと思う。

 

「先輩んちで飲みましょうよ」と甘えてみたり、酔っぱらったユンホ先輩を家まで送っていったり...。

 

あいにく僕は懐っこいタイプじゃない。

豪快かつ隙だらけのユンホ先輩。

実際は近寄りがたい人だったのだ。

ユンホ先輩からは昼食に連れ回される程度で、終業後のプライベートタイムに僕を引きずり込むような誘いは一切なかった。

早退または定時退勤のユンホ先輩だったから、気付くとオフィスから姿を消していた。

そんなユンホ先輩の部屋に今、僕は招かれている。

 

いいのですか?

 

部屋に入ってもいいのですか?

 

僕の胸はドキドキしています。

 

 

(つづく)

(4)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩とのやりとりで、強烈に印象に残っている出来事がある。

ユンホ先輩に対して抱いていたイメージが、吹き飛んでしまった日でもあった。

豪快に見えるユンホ先輩の正体...実は脆く繊細な一面があったことを知ってしまったのだ。

ちょっぴりであっても、ユンホ先輩のことを小馬鹿にしていた自分を恥じた。

 

 

入社6年目、コンビニエンスストアでアイスクリームを物色中のユンホ先輩と遭遇した、夏の日のことだ。

冷凍庫に色とりどりのアイスクリームが詰め込まれていた。

ユンホ先輩は僕に発見されてぎくり、ともせず、「よぉ」と片手をあげ、爽やかな笑顔を見せた。

 

「...先輩...サボりですか?」

 

ユンホ先輩の担当地区は、ここから50kmは離れたところだった。

 

「いや、休憩中」

「休憩ばかりじゃないですか...」

「新規開拓中」

「嘘ばっかり」

 

アイスクリームを買ったユンホ先輩と連れだって店を出ると、店前に設置されたベンチに腰掛けた。

蒸した熱気に全身が包み込まれ、僕の頭にユンホ先輩のこめかみから顎、喉元をあせがしたたり落ちる映像が浮かんだ。

 

「俺ってね、身体が弱いの。

いつもいつも休みながら仕事をしているの」

 

「...え?」

 

初耳だった。

ユンホ先輩は嘘をつく人じゃない。

 

「身体...弱いんですか?」

 

「そうだよ~。

早退や欠勤が多いのもそのせいだ。

それ以外の理由の方が多いけどね...あはははは」

 

つい先週は、玄関ドアが開かないから出社できないと連絡があった。

(本当の話。鍵穴に接着剤を埋められる悪質ないたずらに遭ったらしい)

 

「えっと...どこか悪いんですか?」

 

胸の奥がもわり、と嫌な感じがせりあがり、ドキドキ鼓動が早くなった。

ユンホ先輩は、僕の質問に答えずにこう言った。

 

「会社はね、俺をクビにできないの。

病気や障害を理由に解雇なんかしたら、大変だ。

会社には恩があるから、頑張って仕事をとってくるんだよ」

 

「...そうなんですか...」

 

ユンホ先輩は毎日ペースで僕を昼食に連れ出すけれど、そういえば、飲みに連れていってくれることはほとんどなかった。

きっと、身体を休めるために、早く帰宅したいんだ。

遅刻早退、欠勤も体調不良が理由の時も多かったのでは?

そういう目であらためてユンホ先輩を見ると、細身の身体つきや青白い肌が、病弱そうだ。

 

「だからチャンミン君、これからもっと先輩を労わるんだよ」

「はい。

あ...アイス溶けちゃいますよ?」

 

ユンホ先輩は10本入りの箱アイスを購入していた。

きっとアイスクリームが好きなんだろうけど、今は勤務中だ、10本もひとりで食べるのだろうか、と疑問に思っていた。

 

「あちぃなぁ。

涼しいところで食べたいなぁ」

 

「車に戻ります?

先輩の車で食べましょう」

 

「車ん中は狭いから嫌だ。

チャンミン、今から俺んちに来い。

ここからすぐにそこだ。

俺んちでアイスを食おう」

 

「え、え、え?

待ってください。

家?

仕事中なんですけど?」

 

「気にするな。

今日のチャンミンは十分、仕事をした。

明日の分まで仕事をした。

午後からのお前は仕事をさぼってもよい。

サボれ。

俺が許可する」

と、僕の異論を差し込む隙なくまくしたてた。

ユンホ先輩は僕の手首を握ると、自身の社用車に僕を引っ張っていった。

振り払ってもよかった。

でも、ユンホ先輩は身体が弱いと知ってしまった今、乱暴なことは出来るはずがなかった。

 

(つづく)

(3)ユンホ先輩

入社3年目の夏だったかな。

まるで蒸し風呂の倉庫で、ピッキング作業を行っている時のことだった。

「先輩って、どこを見ているか分からないことがあります」

「ん?

視線がうつろってことか?」

唐突な発言に、ユンホ先輩は手を止めて僕の方を振り返った。

Tシャツが汗で肌に張り付いていたため、後ろを振り向くときの、筋肉の動きをたどれるほどだった。

いかがわしい気持ち抜きで、いい身体だと思った。

ユンホ先輩は、首にひっかけたタオルで、顎から滴り落ちる汗を拭き取った。

「目がイっちゃってるってことか?

俺はそこまでイカれてないぞ」

「へぇ...自覚はあるんですね」

ユンホ先輩は腹を立てる風でもなく、唇の片端だけ上げた笑いには面白がる余裕があった。

似たような台詞をさんざん投げつけられてきたからだろう。

「俺がちょっと変わってることは、重々承知だ。

じゃなきゃ、単なる馬鹿だろ?」

「コンタクトレンズしてますか?」

「裸眼だ」

「そうですか...天然ものですか...。

先輩の眼って...黒目を大きくするコンタクトレンズってあるでしょう。

あんな感じなんですよ。

黒目が大きくて、白目の範囲が狭いんです」

「へぇ」

「そのせいで、どこに焦点を合わせているのか分かりづらいんです」

ユンホ先輩の視線に射られそうになったことが、たびたびあることは黙っておいた。

「褒め言葉だと受け取っていいんだな?」

歯ブラシのCMに出られそうに真っ白な歯を見せて、ユンホ先輩は笑った。

「はい、そうです。

先輩、こちらに来てもらえますか?」

僕はユンホ先輩を窓際へと手招きした。

ユンホ先輩の瞳の微細なところまで、見てみたくなったのだ。

深い角度で差し込む真夏の日光に、ユンホ先輩は目を細める。

「まぶしかったですね、すみません」

「くそっ...見えない。

真っ暗だ。

え~っと、これは明順応って言ったっけ?」

「逆です、これは暗順応です。

先輩、目を見せてください」

目をしょぼしょぼさせているユンホ先輩の顔を覗き込んだ。

僕はユンホ先輩の黒目に興味津々で、彼の唇まで10㎝の距離まで接近してしまっていることに気づかなかった。

もし影から覗き見する者がいたとしたら、キスする寸前に見えたと思う。

ユンホ先輩はじっとしていた。

目がくらんだことで瞳は潤み、薄暗い倉庫内に戻ったことで、瞳孔が大きくなっていた。

だから余計に、どこを見ているのか分からなくなった。

熱っぽく僕を見つめているのでは?と、錯覚しそうだった。

でも、入社3年目の僕は、彼の本質的な美しさを見逃してばかりいた。

違う。

ユンホ先輩の勤務態度の悪さに意識がもっていかれていたため、僕の中で芽生えていたものは、心の奥底に隠してしまっていた。

「ピュアっピュアな眼ですね」

男相手に「綺麗な眼です」とストレートに褒めるのは、さすがに気持ち悪い。

冗談めかして感想を述べるしかなかった。

ユンホ先輩は、「ふぅん、意識したことないなぁ」と、首にかけたタオルでゴシゴシ目元を擦った。

照れているな、と可笑しくなった。

 

(つづく)