(69)時の糸

 

 

〜チャンミン〜

 

 

飲み物を運ぶユノを手伝いに来たのに、こんなところで時間をつぶしてしまった。

 

踵を返す僕に、「待って...」と彼女は引き留めたけど、僕は無視して早歩きで先を急いだ。

 

「知らない」を貫いたのに、確かに「知らない」のに、とても後味が悪かった。

 

あの女の人に対して、不親切でぶっきらぼう過ぎたと自分の行いに反省をしていた。

 

それからもう一つ。

 

実は僕が忘れてしまっただけで、ホンモノの昔の知り合いだったかもしれない可能性を、ちらっと考えてしまったからだ。

 

早くユノの顔が見たい。

 

安心したい。

 

 

エントランスからドームへ行くには、事務所の前を通らないといけない。

 

早歩きが小走りとなったとき、

 

「あれ...?」

 

事務所から人声がした。

 

戸は開け放たれていて、事務所の斜め奥に巨大なソファを置いた休憩コーナーがある。

 

ぼそぼそとした話し声はそこから聞こえてきて、ゴムの木が邪魔で誰がいるのかまでは分からない。

 

興味を失った僕は事務所に立ち入らないで、通り過ぎようとした。

 

「ありがとな、カイ君」

 

「!」

 

ユノの声。

 

つんのめるように足を止めた僕は、気付けばゴムの木の向こうに駆けつけていた。

 

「チャンミンさん...」

 

2対の目が僕に注目していて、その片方の人物に僕の胸に不快感が広がった。

 

ユノはソファに足を伸ばして座っていて、二人の手の間にグラスがあった。

 

「何してる...?」

 

かすれた固い声になってしまった。

 

ユノは僕の登場に驚く風でもなく、僕をもっとムッとさせたのは、僕の問いに応えなかったこと。

 

青ざめたユノの顔色のことも、立ち尽くす僕を余裕ある表情で見るカイ君のことも、僕の視界に入らなかった。

 

だらんと落とした両手はこぶしを握っていた。

 

この感覚は...休日の街角でこの2人を見かけた時や、ガーデンチェアに並んで座る2人と鉢合わせになった時と、同じだと思った。

 

ぎゅうっと胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる、とても嫌な感覚だ。

 

身体も熱い。

 

「ユノさんに休んでもらっていただけですよ。

チャンミンさん...。

顔が怖いですよ」

 

カイ君の落ち着いた声に、僕は我に返る。

 

「っ...」

 

そうか、今の僕は怖い顔をしてるのか...。

 

ぷいと顔を背けた。

 

「水じゃなくて、温かいものの方がいいですか?」

 

ユノは震えているのか、口をつけたグラスがカチカチと音をたてていた。

 

水攻めになったポンプ室での凍えたユノの姿が瞬間、思い浮かんだ。

 

僕の確かな記憶だ。

 

「どこか悪いのか?」

 

自分の不快感のことより、具合の悪そうなユノのことが気になってきた。

 

自分のことでいっぱいいっぱいな自分が、恥ずかしくなった。

 

「...大丈夫、ちょっとビックリしただけだから...」

 

ユノの声は囁くように小さくて、確かに具合が悪そうだった。

 

ソファの足元に膝まずいて、ユノを覗き見た。

 

「大丈夫、か?」

 

「二人のメンズにかしずかれて、これは夢かね?」

 

「え?」

「あはははっ!」

 

きょとんとする僕と、弾けるように笑ったカイ君と、反応は正反対だった。

 

僕の背後で空気が動いて、振り向くとさっきの女性がいた。

 

まさか、僕を追いかけて来たのか?

 

心中で顔をしかめた。

 

「姉ちゃん!」

 

「!?」

 

カイ君は立ち上がると、ゴムの木の前に立つ女性に向かって言った。

 

「遅いよ。

パーティーはもうすぐ終わりそうだよ」

 

姉ちゃん...?

 

「そうだ!

紹介しないとね」

 

カイ君はユノと僕を交互に見ると、片手でその女性を指し示した。

 

「この人は僕の姉、YKです」

 

 

(つづく)

 

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(68)時の糸

 

 

「ユノさん!」

 

カイはぴたぴたとユノの頬を叩いてみる。

 

かすかに顔をしかめたから、意識はあるようだった。

 

(震えている...)

 

宴もたけなわなメンバーたちは、ここの様子に気付いていない。

 

「ユノ...!」

 

会場に戻る途中だったMが、カイとユノの元へ駆け寄ってきた。

 

「やだ!

ユノ...どうしよう!」

 

ユノの肩を揺すったり、額に手を当てたり、下まぶたを押し開いてみたりするMに、

 

「事務所に連れて行きましょう。

ここは暗いですし」

 

カイはユノの膝裏に腕を回すと抱き上げた。

 

(ユノさんは...きっと、火が怖かったんだ。

しまったな...。

僕が火の側に連れて行ったりなんかしたから...)

 

おろおろするMを後ろに従えて、カイは軽々抱き上げたユノを事務所まで運ぶ。

 

事務所は暖房がよく効いており、温かくて静かだ。

 

ソファにユノを横たえると、カイは傍らに片膝をついて座った。

 

「ユノさん。

もう大丈夫ですよ」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

「あの...すみません。

人違いをしているのではないでしょうか?」

 

この知らない女の人は、僕の胸に顔を押しつけて、背中に腕を回してしがみついている。

 

肩を抱くことも、無理やり引きはがすこともできずに、僕の両手はさっきから宙を上下している。

 

僕の顎のあたりに頭のてっぺんがきているから、女の人にしては背が高い方だろうか。

 

困ったなぁ...この人はもの凄い勘違いをしている。

 

全然知らない人だし、僕の名前は『マックス』じゃないし...。

 

この人が言う『マックス』という人物は、きっと僕に似た人なんだろう。

 

待てよ...。

 

僕の名前はどうして、チャンミンなんだろう?

 

どうして『チャンミン』は僕自身なんだと、認識しているのだろう?

 

ぐらりと視界が揺れた。

 

ダメだ。

 

自分探しは禁物だ。

 

ぶるっと頭を振って、遠のきそうな意識を取り戻した。

 

そして、僕の胸にしがみついたままの見知らぬ女の人を見下ろした。

 

物理的な接触には慣れていないし、苦手だ。

 

ただし、ユノだけは別。

 

本当は突き放したかったけれど、まさかそんなことは出来ない。

 

だから僕は彼女の両肩をつかんで、僕の胸からゆっくりとひきはがした。

 

「あっ...」

 

びっくりした。

 

彼女は泣いていて、僕の行動が不満だったのか眉をひそめていた。

 

あらためて彼女の顔を見た。

 

大きな眼。

 

化粧が濃いせいで、年齢がわかりにくいが、多分20代後半か30代。

 

女性の年齢なんて見当がつかないけど、ユノを基準にして推測してみた。

 

知らない人だ、と判断していたけど、どこかで見たことがある、と思った。

 

その発見に、僕は怖くなった。

 

僕が覚えていないだけで、この人とどこかで出会っていたのかもしれない。

 

僕は目をつむって、その記憶の欠片を探してみるが、見つからない。

 

「マックス...。

今までどうしてたの?」

 

「えっ!?」

 

「5年も行方をくらますなんて...。

私、あなたに何かあったんじゃないかって、ずっと...ずっと」

 

彼女はまた泣き始めた。

 

困ったな...。

 

彼女は僕の腕をぎゅっと握っている。

 

そこの部分だけ、彼女の体温で熱を帯びたみたいになって、僕の腕の筋肉がぴくぴくと痙攣している。

 

これ以上、彼女に触られたくない、と思った。

 

「どうしてたも何も...僕は『マックス』ではありません」

 

彼女は僕を見上げて、きっと睨みつけた。

 

「とぼけないでよ。

私がどんな想いをしていたのか...」

 

そんなこと...知らないよ。

 

「どなたかと間違えていませんか?

僕は、『マックス』ではありません。

僕の名前は...」

 

言いかけた僕の言葉に、鋭い彼女の声が覆い重なる。

 

「私たちのこと、何もなかったことにしたいんでしょ!?」

 

彼女はつかんだ僕の腕を揺するから、ニットが伸びてしまう、と顔をしかめた。

 

「だから!

僕は、『マックス』じゃありません!」

 

荒げた僕の声に、彼女はハッとしたように僕の腕から手を離し、僕は心底ほっとした。

 

しわくちゃになったニットの袖を撫でつけていると、彼女は僕から一歩下がってまじまじと僕を観察し始めた。

 

「本当に『マックス』じゃないの?

私のこと...覚えてない?」

 

「全然」

 

僕は彼女とまっすぐ視線を合わせて、ゆっくり首を振った。

 

目鼻立ちのくっきりとしていて、美人の部類に入るんじゃないかな...多分。

 

どこかで見たことがあるような気がしたけど、女の人はみんな似たり寄ったりの顔に見えるから、さっきの考えは恐らく勘違いだろう。

 

「じゃあ、僕は行かなくっちゃ」

 

「あっ...!」

 

僕は彼女の腕を振り切って、エントランスホールを後にした。

 

 

(つづく)

 

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(67)時の糸

 

 

 

「ユノさんは、何か食べましたか?」

 

「まだ、かな」

 

ユノの脈拍が異常に早かった。

 

(フラッシュバックだの、倒れるかもだの、チャンミンが心配だってSに言ってたけど、俺の方こそ、火が怖いなんて)

 

恐々、焚火に近づけずにいるユノの固い表情に、カイは気付く。

 

「僕が適当に見繕って来ますよ。

ユノさんはその辺に...あそこのベンチなんかどうですか?」

 

カイは会場の一番端に設置したベンチを指さした。

 

「座って待っててください」

 

「え、いいの?」

 

焚火に近づきたくなかったユノは、カイの気配りに感謝する。

 

「ええ。

僕とチャンミンさんが育てた野菜を是非とも、味わってもらいたいのです。

ジャガイモが絶品ですよ、バターを落として食べると美味しいんですから」

 

「へぇ、いいね。

じゃあ、それをもらおうか?」

 

カイは、膝の上で落ち着かげに手を開いたり握ったりしているユノが心配だった。

 

(炎が怖いのかな...。

そういえば、ユノさんは昨年の落ち葉焚きの時は未だ、ここにいなかったから)

 

照明らしい照明は、不規則にちらちら赤い光を放つ焚火と、テーブルに置いたランタンのみで、人々の表情はもはや見えない。

 

気をつけて歩かないと、誰かにぶつかりそうだった。

 

カイは手際よく、テーブルの上に並べられた焼き上がった食べ物を皿にのせていく。

 

カイはユノが座っている辺りを振り返った。

 

(チャンミンさんは今は、ここに居ないみたいだ。

よかった。

チャンミンさんには悪いけど、僕も頑張らせてもらいますよ)

 

チャンミンの視線の先には大抵、ユノがいたこと。

 

恋愛を匂わせることを振ると、赤面したのを取り繕うように話題を変える様子。

 

近頃のチャンミンの挙動不審さに、カイは確信していた。

 

(ユノさんの方は、どうなんだろう?

ユノさんはいつも通りだ。

チャンミンさんは奥手そうだから、ユノさんに振り向いてもらおうと積極的になることは出来ないだろう)

 

「お待たせしました」

 

カイはユノの隣に腰掛けると、山盛りにした皿を手渡した。

 

「うまそうな匂いだねぇ。

俺が大食いってことを、よく分かってるね、さすがカイ君」

 

焚火から十数メートル離れたおかげで、ユノの緊張は解け、膝に置いた皿から漂う美味しそうな香りに彼は笑顔になった。

 

(暗くてよかった。

ユノさんを見て、ニヤついてる顔が見られなくて)

 

友達は多いカイだったが、今現在は恋人はいない。

 

(どの子もいい感じだけれど、ピンとこない。

でも、ユノさんは違う。

ガサツな風を装っているけれど、多分、繊細な人だ。

世話好きだけど、決してお節介ではない。

Tさんにフラれて大泣きしてた姿。

あの時だな、ユノさんのことをほっとけない、と思ったのは。

でもなぁ...こんな心理、僕が姉ちゃんの世話を焼いてる時みたいじゃないか)

 

カイはカップの中身を流し込みながら、暗くていい幸いとばかりに、隣でもぐもぐと食べ物を頬張るユノを見つめていた。

 

(ファッションセンスも似てるし...。

僕の方はちょっとカラフル傾向だけど...。

僕たちはお似合いだと思うんだけどなぁ)

 

「お!

この芋はうまいねぇ」

 

「でしょ?」

 

「うん、うまい」

 

酔って陽気になったスタッフのひとりが、「落ち葉を追加しよう!」と言い出したようだ。

 

「もっと暗くできないの?」の声に、スタッフの一人が照明パネルの操作に走った。

 

ドームの照明は落とされ、非常口の緑の灯りだけになる。

 

焚火の炎ゆらめくムードを求めたのだ。

 

2人のスタッフが落ち葉の詰まった袋を逆さにして、思い切りよく焚火に追加した。

 

「あーっ!」

「いっぺんに入れたら駄目だよー」

 

落ち葉が蓋をして、火を消してしまったようだ。

 

「炭を入れたらどう?」

「そうしよう」

 

赤々とした炭を火ばさみで挟んで、くすぶる落ち葉の山に埋めた。

 

「じきに燃えてくるよ」

 

焚火の周りが騒がしくなっていく一方、ユノの背筋に冷や汗がつーっと流れ落ちる。

 

(カイ君が側にいてくれて助かった。

鋭いカイ君のことだ。

俺が火が怖いことに気付いたみたいだ。

あれこれ用事を作っては、焚火には近づかないようにしてたからなぁ)

 

「ユノさん。

向こうでコーヒーでも飲みませんか?

ここじゃ、煙たいですし」

 

「いいね!」

 

カイは立ち上がるユノの肘に手を添えてアシストする。

 

「ありがと」

 

ユノの手から受け取った汚れた皿とカップを、カイは小走りでテーブルに戻しに行く。

 

焚火組は落ち葉の山を鉄棒でかき回していた。

 

ユノたちが回廊に向けて歩き出した時。

 

カサカサに乾ききった落ち葉に、炭からの炎が燃え移った。

 

背後で悲鳴が上がる。

 

「!!」

 

振り向いたユノの視界に、めらめらっと1メートル近く立ち上がった真っ赤な炎が飛び込んだ。

 

「!!」

 

ユノの目には何も映っていなかった。

 

脳裏には、四方八方炎に囲まれたユノがいた。

 

轟音。

 

息が...できない。

 

熱い。

 

押しつぶされて...。

 

カイは硬直したユノに気付いた 。

 

「ユノさん?」

 

かくんと膝の力が抜けたのを認めるや否や、カイは両腕を伸ばす。

 

カイの腕の中で、ユノの身体はぐったりと弛緩していた。

 

 

(つづく)

 

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(66)時の糸

 

 

膝上に組んだ腕に顎をのせて、チャンミンは赤々とした炭をぼぉっと眺めていた。

 

一人でいるのを好むことを知っているスタッフたちは、出来上がった料理をチャンミンの元へ運んでくる以外は、無理に会話の輪に引き込むことはしない。

 

次々と皿の上にのせられる、蒸し焼きにしたサツマイモや、ソーセージ、魚のホイル焼き、炙ってとろとろに溶けたマシュマロなどを、チャンミンは順に胃袋におさめていった。

 

お腹は満たされた。

 

アルコールは頭痛を誘発しそうだったため、ミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「はぁ...」

 

チャンミンはユノが隣に座るのを、待っていた。

 

甘いもの好きのユノのために、余分にもらったマシュマロも、皿の上で冷めてしまっている。

 

つまらない、と思った。

 

(僕を一人にするなんて...)

 

ユノから不当な扱いを受けていると拗ねるチャンミンだった。

 

いつまでも戻ってこないユノに業を煮やして、すっくと立ちあがった。

 

(アルコールを持ちに行く、と言っていた。

重くて運ぶのに苦労しているかもしれない。

僕ときたら、気が利かないんだから)

 

「チャンミン!」

 

スタッフの一人に声をかけられ、チャンミンは回廊に向かおうとした足を止めた。

 

「行ったついでに、ビールの追加を頼めるかな?」

 

チャンミンはこくりと頷いた後、事務棟へ駆けて行った。

 

(ビール、ってどこにあるんだ?)

 

火熾し担当だったチャンミンは、大量に用意されているはずのドリンクの場所が分からない。

 

事務所の冷蔵庫を開け、保管庫の冷蔵室も覗いてみたが見つからない。

 

追加のものが配達されたままになっているかもしれないと、エントランスを確認しに行ったが、やっぱりない。

 

「おかしいなぁ」

 

(ユノはどこに取りに行ったんだろう?

裏口の方かな)

 

裏口はドームを挟んで事務棟の反対側にある。

 

チャンミンがドームへ引き返そうとしたとき、

 

「マックス!」

 

悲鳴に近い、鋭い女性の声に、チャンミンは振り返った。

 

エントランスのドアの前で、一人の女性が両手で口を覆って立ち尽くしていた。

 

「?」

 

チャンミンは背後を振り向いたが、エントランスには自分以外の者はいない。

 

「マックス...」

 

背の高いスリムな女性だった。

 

「あの...人違いじゃ...?」

 

大きく見開いた目尻が切れ上がった目は真剣だった。

 

「嘘でしょ...。

マックス...」

 

「あの...マックス...って?

僕は...違います」

 

チャンミンがそう言い終える前に、その女性は体当たりする勢いでチャンミンにしがみついてきた。

 

「!」

 

「マックス...」

 

「あの...」

 

彼女はチャンミンの胸に顔を押しつけ、彼の背中に巻き付けた腕に力を込めた。

 

「違います...僕は...」

 

頭の中にクエスチョンマークが飛び交っている。

 

(この女の人は誰だよ?

誰だよ、マックスって?

全然、意味が分からない...)

 

「どこにいたのよ...。

死んじゃったのかと思ってたのよ...」

 

「!」

 

見知らぬ女性に抱き着かれたチャンミンは、突き放すこともできず、両腕を宙に浮かせた状態で、されるがままでいるしかなかった。

 

 

(つづく)

 

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(64)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

あの夜。

 

帰宅した僕は真っ先にシャワーを浴びた。

 

ユノの部屋を出て、火照った身体を覚ましたくて、タクシーは止めて氷点下の寒空の下、歩いて帰ることにしたのだ。

 

もんもんと頭の中で渦巻く想いを吹っ切りたくて、早歩きだったのが小走りになり、駆け足になり、マンション下に着くころには汗だくで息も切れそうだった。

 

脱いだコートを腕にひっかけ、エレベータで階数ランプを見上げている間、僕の鼓動は壊れそうに早い。

 

その理由は、走ったせいなのか、身体の奥底から湧き上がる妙な感情のせいなのか、わからなかった。

 

そんな訳のわからない心の嵐を吹っ切りたくて、冷水のシャワーを頭からかぶる。

 

下腹の底の、重ったるい感覚。

 

この感覚は、単なる生理現象で片付けられない。

 

『そういう気満々だろ?』とユノに言われて、理性を失くした自分の行為が恥ずかしくなった。

 

ユノと間近で接すると、ユノにもっと近づきたいという衝動に襲われるんだ。

 

『そういうこと』が、どういうことなのかは、知識として知っている。

 

うろ覚えの僕の過去をどれだけ頭を振り絞ってみても、全く身に覚えがないのだ。

 

だから、男性に対して『そういう感情』を抱くのはこれが初めてなんだろう。

 

顎がガチガチと震うまで全身を冷やしたのち、今度は火傷しそうなくらい熱いシャワーに切り替えた。

 

自身の肉体をいじめて、もんもんとした感覚を追い出したくて。

 

今までの僕は、こんな風じゃなかったのに。

 

体調の悪いユノに無理やりキスをしたり。

 

押し倒したり。

 

...一体何やってんだよ。

 

恥ずかしい限りだけど、あの時は沸き起こった欲求に突き動かされていて、気付いてたらそうしてた。

 

白く曇った鏡を片手で拭って、雫をしたたらせ、上気した自分の顔を映してみる。

 

以前、ユノが浴室に乱入してきた時も、こんな風に鏡に映った自分を子細に眺めていた。

 

普段から自分の顔をこうやって検分するように見ることはないし、自分の身体つきがどんなだかにも興味はない。

 

休日のルーティンにジム通いを組み込んでいるのは、身軽に健康でいたいだけのこと。

 

一瞬、視界が揺れたかと思うと、がくんと膝の力が抜けた。

 

反射的に洗面ボウルをつかんだ手によって、崩れ落ちるのを免れた。

 

鏡の中の自分と目を合わせるのは、やっぱり危険だ。

 

鏡に映るこの顔が、自分のものなんだという実感が希薄なことを、思い知るからだ。

 

こめかみがずきずきとうずいてきた。

 

頭痛の前兆。

 

俯いていた頭を起こすと、足先から膝、太もも、下腹部へと順に視界に入る。

 

僕の目に映る身体にさえも、違和感がある。

 

ドキドキするとか、嬉しいとか、いい匂いだなとか、柔らかいなとか...五感は確かに自分のものなのに、それを感じる僕の身体が、自分のものじゃない気がする。

 

僕はやっぱり、おかしい。

 

こんな風じゃなかったのに。

 

一人でいると、不安と困惑に襲われる。

 

ユノのベッドにもぐりこんで、背中に彼の体温を感じたかった。

 

 


 

 

この日は通常より2時間早く終業し、落ち葉焚きが開始された。

 

スタッフたちの家族や友人たちも参加し、アルコールもOKで、くだけたムードで皆が笑顔だった。

 

同僚のMは、目下アタック中だという男性を招待していた(外国語教室の講師なのだそう)

 

ユノは、SとSの夫Uを友人として呼んでいた。

 

Sにしてみたら、ユノの担当であるチャンミンを観察する目的もあり、半分は仕事を兼ねている。

 

UはSの元被験者で、小柄で線の細い、眼鏡をかけた大人しそうな男性だ。

 

キビキビとしたSとは対照的だが、目配せだけで通じ合う信頼関係が二人の間で築かれているようだ。

 

SはUの観察者を3年務めた。

 

エプロン姿のユノは、エントランスまでSたちを出迎え、落ち葉焚き会場のドームまで案内した。

 

「差し入れです」

 

Uはアルコールのボトルを掲げてみせた。

 

ユノに案内されて、Sは目がくらみそうに高いドームの天井を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 

「ねぇ、ユノ、大丈夫なの?」

 

「大丈夫?って何が?」

 

「焚火、っていったら、火だよ?

あの子...平気なの?」

 

Sの質問に、ユノは肩をすくめる。

 

「さあ、分かんない。

もしかしたら、フラッシュバックして意識失うかもしれないから、それに備えてSを呼んだわけさ。

チャンミンに『参加したら駄目』なんて言えないよ。

まさか、こんなイベントがあるとは思わなかった」

 

「強い刺激も、かえっていいかもしれないわね。

反応が一気に進めば、お目付け役もいらなくなるから。

...ユノ、複雑でしょ?」

 

「うん」

 

(嬉しい反面、寂しいってのは確かだ。

チャンミンの担当を外れたら、もう近くにはいられない)

 

 

(つづく)

 

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