(20)君と暮らした13カ月

 

~夏~

 

川から引き上げたのは、彼の父親だった。

 

彼が落下した直後、彼の父親...食事の用意の途中に消えた妻を追ってきた...が現れたのだ。

 

彼は診療所に運ばれ、現場には私だけが残された。

 

駆けつけてきたユノさんに抱きついて、何が起こったのかをつっかえつっかえ全て伝えた。

 

ユノさんは私の言葉を代弁し、訴えた。

 

町長も警察も駆けつけた。

 

そして、誰しも分かりやすい、あり得そうな結論に至ってしまった。

 

この状況下で、最も私を責めるべき彼の母親は、私とは距離をおき、存在を無視しつづけた。

 

大ごとにならずに済んだのは、彼ら家族は都会へと帰ってしまったからだ。

 

そしてユノさんが、現場にいた3人の位置関係と時系列を整理してみると、私が巨岩の上にいられるはずはないと主張したおかげでもあった。

 

彼が意識をとり戻すや否や、彼をさらうように連れ去ってしまった。

 

さよならも言えなかった。

 

彼は水泳がうまかった。

 

大量に水を飲みこんだせいで、いっときは意識はなかったが、診療所へと運ばれる途中に息を吹き返した。

 

彼が溺れそうになった原因を作ったのは、私だ。

 

私が下から手を振らなければ、彼は川へと飛び降りようとしなかった。

 

私と一緒にいなければ、母親に腕をつかまれたりしなかったのだ。

 

 

たまたま居合わせた者たちの、真相を捻じ曲げた憶測が人へ人へと伝播していく。

 

「こんな真相だったら、さぞかし人々は興味を持って聞いてくれるだろう」と脚色したストーリーだ。

 

噂話にのぼるたびに、その噂は間違っていると訂正して回るわけにもいかない。

 

彼は遠くへ行ってしまったし、私も声高に主張する術がなかった。

 

そして、何も言えずに去ってしまった彼に、裏切られた気がしていた。

 

 


 

 

「どう思う?

チャンミンは、どう思った」

 

チャンミンの眉間にしわが寄っていた、これは熟考中である時の徴だった。

 

ふんと鼻を鳴らすと、私の太ももからぴょんと飛び降りて、私の洋服をくわえて引きずってきた。

 

「わかった、帰ろうか」

 

帰り道はチャンミンが先導する。

 

「道を覚えるくらい、朝めし前ですよ」

 

数メートルの距離を保ち、数歩進むごとに私を振り向いた。

 

私がどこかに行ってしまわないよう、心配しているかのようだった。

 

重く深刻なストーリーを打ち明けたばかりの私を気遣っている。

 

チャンミンの白く大きなお尻と、落ち葉が降り積もった地面、黄色い長靴だけを見て歩いた。

 

うるさすぎる蝉の鳴き声で聴覚がおかしくなり、全身に大量の汗がまとわりつく。

 

視界が狭くなり、景色が揺らいできた。

 

「...っ...っ」

 

私は立ち止まり泣いていた。

 

嗚咽が喉でつっかえて、呼吸がしづらくとても苦しい。

 

「っく...ひっく...っく...」

 

しゃっくりみたいな声しか出なくて、喉で堰き止められた重たいものを吐き出せずにいた。

 

チャンミンは私がついてこないことに、私の様子がおかしいことに気付くと、引き返してきた。

 

後ろ立ちして私の膝小僧をぺろぺろ舐めた。

 

長靴を噛んで引っ張るチャンミンに従って、私はしゃがみ込んだ。

 

「うーっ...うっ、うー」

 

私の喉から言葉にならない呻き声が漏れる。

 

「...うー、うーっ、うー」

 

例え動物の鳴き声のようであっても、声をあげて泣くのはいつぶりだろう。

 

こめかみから流れる汗とぽろぽろと溢れ出る涙が交じり合う。

 

チャンミンは顔を覆った私の手の平の間に、自分の鼻づらを強引にねじこむと、あとからあとへとこぼれ落ちる涙を舐めとっていく。

 

「よく話してくれましたね。

たくさんお泣きなさい」

 

頭の中に響いてくるチャンミンの言葉に、私は彼を抱き締めた。

 

ふかふかの毛皮、温かく柔らかい身体、冷たく濡れた鼻。

 

チャンミンはだらりと力を抜いて、私に抱かれるままでいてくれた。

 

チャンミンは凄い。

 

とても思慮深く賢いチャンミンは、単なる「生き物」じゃない。

 

さすが図鑑に載っていないだけある。

 

気が済むまで、涙が枯れるまで私は唸り続けた。

 

喉が嗄れてひりひりするまで声を出したのは、いつぶりだろう。

 

 

 

 

「自分じゃ気付かないんだ。

どれだけ心が傷ついているのか。

平気なふりをしているから、平気だと勘違いしてしまうんだ。

ミンミンの場合は、言葉にできずグッと気持ちを飲み込んでしまっているよね」

 

その夜、私はユノさんとポーチのベンチに並んで腰かけていた。

 

足元に蚊取り線香を焚き、ユノさんはプラム酒を、私は牛乳を飲んでいた。

 

屋外の作業が多いため、ユノさんの腕は真っ黒に日焼けしていた。

 

草原からは虫の、雑木林からはカエルの鳴き声、灯りに誘われた蛾やカゲロウが外灯の電球にパタパタとぶつかる音。

 

チャンミンは、というと、私とユノさんの膝の上に長々と寝そべっている。

 

昼間の水遊びと、私への心配とでお疲れなのだ。

 

それでも耳先を小刻みに震わせ、私たちの会話に耳をそばだてている。

 

「ユノさんには全部話しているよ」

 

「そうだね。

俺にはなんでも話してくれるよね。

でもね。

俺はミンミンじゃないし、どうしても大人の観点からものごとを見てしまって、ついつい厳しいことを言ってしまうことがある。

アドバイスにしても、人生経験をつんでいる立場からのものだから、ミンミンにとってピンとこないものも多いと思う。

単に話を聞くだけで済んでしまっていることもね」

 

「そんなことないよ。

ユノさんは力になってくれてるよ。

ユノさんにいっぱい助けてもらってるよ」

 

「そう言ってもらえると嬉しいね。

でもね、ミンミンと同じ目線で、それが悪いことであっても全部受け止めて、認めてくれる存在がいると最高だね」

 

「...チャンミンみたいな?」

 

「そうだよ。

よかったな、ミンミン?

なかなかそんな存在とは巡り合えないんだぞ?」

 

「私が犯人なの」と口にした時、チャンミンが怒ったことを思い出していた。

 

あれは、私の考えを単に否定するものではなく、私自身を肯定するための否定だったのだ。

 

 

(つづく)

 

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(19)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

彼は泳ぎが得意だった。

 

私だけの遊び場では物足りなくなったころ、彼は上流を指さした。

 

他の子供たちは既に、別荘へと引き上げていった時間帯だったため私は頷いた。

 

上流の遊び場は、石を積んで川を堰き止めてあり、川底に転がる石に爪先をぶつける心配なく、下流よりもっとのびのびと泳ぐことができる。

 

まさしく天然のプールだった。

 

道路へ上がるための階段もあった。

 

一度体験してみたかった、巨岩から飛び込みをくたくたになるまで繰り返した。

 

冷たい飲み物を飲みながら、私たちは間にノートを挟んで会話した。

 

彼は、ひとりっ子であること、犬が好きで人参は嫌いなこと、家庭教師に勉強を教えてもらっていること、去年は海辺で夏を過ごしたこと、母親が神経質過ぎて困っていること。

 

私は、両親はいないこと、犬も人参も好きなこと、学校には通っていないこと、遠い親戚のお兄さんの家で暮らしていること、そのお兄さんが素晴らしい人であること。

 

日光であぶられた頭のてっぺんが焦げそうだったから、1枚のバスタオルを分け合った。

 

ヒグラシが鳴き始め、川面に伸びる巨岩の影が長くなる頃がさよならの時間だ。

 

この時だけは階段を使って一緒に道路へと上がり、「また明日」と手を振った。

 

帰宅が遅い息子を心配したのか、彼の母親らしい女性が通りへと出ていた。

 

こちらを食い入るように見ているので、きびすを返してその場を足早に立ち去った。

 

醜い私の顔にショックを受けたんだろうと思った。

 

 


 

 

何かを察したのだろう、チャンミンは私の膝に乗ってきた。

 

水に濡れていた時は閉じ込められていたチャンミンの体臭が、乾くにつれ香ってきた。

 

チャンミンの匂い...焼きたてのパンのような香ばしい匂いだ。

 

チャンミンのまだら模様の毛皮は、強い日差しであっという間に乾いていく。

 

私の太ももは、チャンミンの鼓動を感じとっていた。

 

とくとくと早い。

 

こんがりと焼けた火照った腕に、チャンミンの冷たく濡れた鼻が気持ちよかった。

 

チャンミンは全身の力を抜いて、私にすべてをゆだねていた。

 

ぐらぐら不安定な太ももの上で、ずり落ちないよう前足だけが私の片腕に爪を立てていた。

 

この角度だとチャンミンの顔は見えないけれど、白いまつ毛に縁どられた眼は考え深げにどこでもない一点を注視しているだろう。

 

大きな耳は私の方へと傾けられ、ぴくぴくと尖った耳の先を震わせていた。

 

チャンミンは私の話を最後まで聞き届けるつもりだ。

 

 


 

 

「今日は夕立があるかもしれない。

遅くならないうちに帰るんだよ?」

 

ユノさんにくしゃり、と頭を撫ぜられ、私は「もう!」と頬を膨らませて、乱れた髪を整えた。

 

休日だったユノさんは、ポーチでタミーにブラシをかけていた。

 

タミーは気持ちよさげにお腹を見せている。

 

ユノさんは毎日、別荘地へと出かける私の動機を知っている。

 

私をひやかしたり、彼について詳しく聞きだしたりせず、一歩下がった位置で見守っていた。

 

その日、午前中は雨降りで、今日の川遊びは中止かなとがっかりしていたら、正午には雲間から日が射してきた。

 

「行ってきます」

 

ユノさんに声をかけると、「彼と一緒に食べたらどうかな?」と、紙袋を手渡した。

 

中身はイチゴジャムを挟んだだけのパンで、不器用なユノさんらしくて笑ってしまった。

 

ユノさんなりに、私の恋を応援してくれていたのだ。

 

 

 

 

口の軽い管理人が触れまわったのもいけなかった。

 

私が彼を突き落としたことになっていた。

 

彼が川へと落下したその時、私は既に水中にいたというのに。

 

 

 

水面にぷかぷか浮かんで手を振る私に、彼も手を振った。

 

彼は巨岩の飛び込み台にいた。

 

午前中の降雨で少しだけ水かさが増していたけれど、大したことはなかった。

 

灰色の分厚い雲がみるみるうちに青空を、周囲から中央へと埋めていった。

 

突然、ビカビカっと雷光が空をキザギザに切り裂いた。

 

一瞬、彼の身体が逆光に浮かび上がった。

 

彼を呼びにきたのだろう、彼の母親が川岸に立っていた。

 

彼は不意に現れた母親に驚くと、帰るように手を振った。

 

彼女は水面に浮かぶ私に気付くと、川岸から巨岩へと飛び乗った。

 

巨岩の先にいる彼の方へと、危なっかしい足取りで近づいていく。

 

彼を連れ戻そうとしたのだろう。

 

もう一度、空が光った。

 

彼の元へたどり着いた母親は、彼の二の腕をつかんだ。

 

母親の手から腕を引き抜こうと、彼は身をよじった。

 

直後、雷鳴がとどろいた。

 

母親の指の力はあまりに強かったのだろう。

 

彼の身体がぐらりと傾いた。

 

あっという間のことだった。

 

背中から落下していった。

 

母親の叫び声は雷鳴にかき消された。

 

 


 

 

「チャンミン。

私はね、『犯人』なんだよ?」

 

チャンミンを抱き上げ、彼と目線を合わせた。

 

何かを言い聞かせたい時、チャンミンの反応を確かめたい時、いつも私は彼の瞳を覗き込むのだ。

 

チャンミンは後ろ脚で空を蹴り、私の腕の中から逃れた。

 

地面に下り立ったチャンミンは、怒っている風に見えた。

 

「犯人だ」だなんて自虐的な言葉を発したことに、チャンミンは怒ったのだ。

 

「ミンミンが『犯人』だなんて、僕は信じませんからね。自分を悪い風に言うのはおやめなさい」って思っていたらいいな、と思った。

 

「安心して。

彼は死んでいない...助かったよ」

 

チャンミンの眉根が持ち上がり、ボタンのような白い眉毛が下がった。

 

チャンミンは私の太ももの上に飛び乗ってきた。

 

私は続きを語り始めた。

 

 

(つづく)

 

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(18)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

一番端の別荘の手前で道を外れ、もう一度斜面を下る。

 

涼し気な川音に向かって慎重に、1歩1歩足元を確かめながら下りていく。

 

「滑るからゆっくりだよ」と、チャンミンに何度も声をかけた。

 

別荘地からだと管理人が作った階段があるが、それはしたくない。

 

後ろ向きになって下りるチャンミンが、人間みたいでおかしかった。

 

抱っこしてあげた方がいいかな、それともリュックサックに入れてあげた方がいいかな、と思った時、私の脇を茶色い塊が通り過ぎた。

 

「チャンミン!」

 

ごろんごろんと転がっていくチャンミンは、ボールそのものだった。

 

慌てた私は斜面に長靴を滑らせ、チャンミンを追った。

 

尖った葉先が頬や腕にかすり傷を作った。

 

河原の砂地にひっくり返ったチャンミンを抱き起し、彼の身体じゅうを点検した。

 

チャンミンがおデブさんで助かった。

 

舌を口からはみ出させ、びっくり眼のチャンミンは無傷だった。

 

 

 

 

チャンミンのことだから川に飛び込むかと予想していたのに、反してチャンミンは慎重派だった。

 

前足の先っちょを水に浸し、キンと冷たい水温にビクッとした後、そろりそろりと身体を浸していった。

 

数メートル浅瀬が続き、湾曲したところに私の身長以上より深い淵がある。

 

水底まで潜って綺麗な石を拾って浮上する遊びがお気に入りだった。

 

浮上する度、チャンミンの様子を窺った。

 

チャンミンは浅瀬で盛大に水しぶきを上げて走り回っていた。

 

遊びに夢中になっているのに安心し、私はとび上がって勢いつけて再び潜水した。

 

この谷川にはこういった箇所がいくつかある。

 

別荘地がある上流では、ここよりももっと深い淵がある。

 

川面に張り出す形の巨岩は、格好の飛び込み台となっていた。

 

天然のプールに大喜びの都会っ子が飛び込むところを、何度か見かけたことがある。

 

太陽が最も高くなる頃が彼らの水泳時間で、私はその時間帯を避けようと、午後3時まで待っていた。

 

水の中で目を開けると、日光が透明過ぎる水を貫いて光の筋を作り、川底に光の輪っかが揺らめいていた。

 

泳ぐ川魚たちはうろこにそれを反射させ、私の動きに合わせて散っていった。

 

ごうごういう水中の音に覆われていると、真空空間にいるみたい...聴いたことはないけれど...だった。

 

雑木林を抜ける時もそうだけど、川に沈んでいる時は特にそう。

 

口を開けば押し寄せる水で窒息してしまうから、口をつぐんでいればよい。

 

頭上にチャンミンのお腹が通り過ぎた。

 

水かきの要領で、四肢は忙しく駆け足している。

 

川原で遊んでいるのが物足りなくなって、私を追ってきたのだ。

 

すでにびしょ濡れになっているのに、これ以上は絶対に顔を濡らすまいとつんと顎を持ち上げている。

 

チャンミンは泳げることを発見した。

 

たっぷり川遊びをした私たちは、川岸にタオルを敷いて休憩をした。

 

「ねえチャンミン。

私の話を聞いてくれる?」

 

チャンミンは私の親友。

 

ぎらつく太陽で石は火傷しそうに熱く、チャンミンもタオルの上でお座りしていた。

 

「どうぞお話ください」と、私をじぃっと見上げ、首をわずかに傾げた。

 

「私たちがあっちで泳がないのは...」

 

上流の方角をさした指につられて、チャンミンの頭も振り向かれた。

 

「私はなにかと問題児なんだ。

おととし、私は事件を起こしたんだよ」

 

『事件』の言葉にチャンミンの眼がわずかに大きくなった。

 

チャンミンは私の言葉を理解できるのだ。

 

「それなのに不思議だね。

普通の神経の持ち主なら二度と近づきたくないでしょうね。

でも私はあべこべだから、ここは平気だったりする。

なんでだと思う?」

 

チャンミンはさっきより深く首を傾げた。

 

「はて、なんだろう?」と考えを巡らしているように見えた。

 

「夏が終わると皆、都会へ帰ってしまうからかなぁ。

それにここは貸別荘が多いんだ。

毎年違う都会っこが来るんだよ」

 

チャンミンの前足が私の足の甲にとん、と乗った。

 

「事件について知りたいんだね。

秘密でもなんでもないよ。

街の人たちも知っていることだから」

 

 

 

 

彼は綺麗な男の子だった。

 

年齢は私の1つ上だった。

 

2年前の夏。

 

彼は私のいる下流へと、川原づたいに下ってきたのだ。

 

川遊びの時間はとうに過ぎ、子供たちの多くは昼寝時間だった。

 

昼間からお酒を飲む大人たちのはしゃぐ声が、静かな別荘地に響いていた。

 

彼は騒がしいのが苦手な子だった。

 

そして無口な子だった。

 

ひとり静かに近づく彼に気付けず、脱いだ洋服をかき集めて藪の中に隠れる間がなかった。

 

とっさに麦わら帽子を取ろうとした時、風が吹き渡った。

 

帽子は風にさらわれ、くるくる回転して飛んで行き、川面に落ちた。

 

(流れされる!)

 

ユノさんのお下がりだった帽子が流されてしまう、焦ってそれを追おうとした。

 

すると彼は腕で私を押しのけ、ざぶざぶ水面をかき分け流れへと入っていった。

 

麦わら帽子は回転しながら、突き出た石にひっかかったり、流れにのったりと遠ざかっていく。

 

私は固唾をのんで彼の後ろ姿を見守った。

 

淵の辺りで浮かんでいた帽子をつかむと、それをかぶり、すいすいと泳いで引き返してきた。

 

水から上がった彼は、私の頭に帽子を乗せた。

 

恥ずかしくて 私は「ありがとう」も言えずにうつむいていた。

 

水着から突き出た彼の棒のような足、濡れたスニーカー。

 

避暑にやってきて間もないのか、首と腕が日焼けしたての真っ赤な肌をしていた。

 

水着の上にTシャツ姿は私と同じだった。

 

濡れて肌に張り付いたTシャツの下の身体は、痩せて薄かった。

 

麦わら帽子のつばの下から、彼をそうっと観察していた。

 

私たちはタオルの上に並んで腰かけ、川を眺めていた。

 

彼も私も黙っていた。

 

彼は口がきけない子なのかもしれない、と思った。

 

だから安心して私も黙っていられた。

 

はじめて視線を交わした時...私が自惚れていただけなのかもしれないけれど...彼は「私を認めた」と感じた。

 

蝉の鳴き声がやや弱まり、私たちの影が長くなってきた頃、彼は立ち上がった。

 

差し出された手の意味が分からなかった。

 

彼はこくりと頷き、その手が私のためのものだと分かると、私はそっと手を置いた。

 

力強く握った手は、太陽で温もった熱いものだった。

 

彼と対面して恥ずかしくなり、私は麦わら帽子をより深くかぶった。

 

片手をあげると、彼は上流へと戻っていった。

 

私も手を振った。

 

石と石との間を器用に飛び移り、少しも危なっかしくない確かな足取りだった。

 

翌日から毎日、雨の日を除いてこの川原で彼と会うのが日課になった。

 

ユノさんは「好きな子でもできた?」とニヤニヤ笑っていて、私は「そうだよ」と素直に認めた。

 

 

(つづく)

 

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(17)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

風のない日だった。

 

私とチャンミンは、ポーチのベンチにぐったりとだらしなく座っていた。

 

暑さが堪えているチャンミンの呼吸は早く、舌は出しっぱなしだ。

 

プラムを漬けたシロップを、水で薄めたものを飲んでいた。

 

からからと氷がたてる音が涼やかだった。

 

グラス表面の水滴が指先を冷たく濡らし、チャンミンの鼻に押し当ててやった。

 

チャンミンの身体で唯一体温調整できるのは鼻だと、ユノさんに教えてもらったからだ。

 

プラムジュースをガラスボウルに注いで、チャンミン用に用意した。

 

チャンミンの頑丈な顎はゴリゴリ氷をかみ砕き、長い舌であっという間にボウルの中身を飲み干してしまった。

 

「暑いね~」

 

手にした団扇を自分とチャンミンと交互に扇いだ。

 

団扇で扇いでやるとチャンミンは気持ちよさげに目を閉じ、彼の次は私の順番。

 

汗がにじむ首元を扇いでいると、私の腕にとん、と前足を置いて「そろそろ僕の番ですよ」と催促する。

 

牧草は厳しい暑さで茶色く枯れている箇所がところどころあった。

 

自前のセーターを着た羊たちは、数本の樹木があるだけのささやかな林で涼んでいた。

 

空と草原の境界線は、そこだけ空気が歪められてゼリーの層が出来ていた。

 

「チャンミン、あれが陽炎だよ。

見える?」

 

チャンミンはお付き合い程度にちらと視線を向けただけで、ベンチの下にもぐり込んでしまった。

 

チャンミンは陽炎には興味がないようだ。

 

花壇に植えたヒマワリは、ぐったりと頭を垂れている。

 

ひまわりの種をチャンミンにあげたら食べるかな?

 

きっと大好きだろうな。

 

暑い暑いといいながらポーチにいたのは、これからしようとすることに迷っていたせいだ。

 

裏手の雑木林へ散歩に出かけるには、少しばかり勇気が必要だったのだ。

 

用意はできていた。

 

洋服の下に水着を着こみ、リュックサックには必要なものを詰め込んであった。

 

タオル、お菓子、万が一のためにチャンミン救出用のロープ。

 

カーキ色のこの大きなリュックサックは、ユノさんからのお下がりだ。

 

引きこもりのせいで出番のなかったこれが、チャンミンとの散歩で大活躍している。

 

笹やイラクサでひっかき傷をつけないよう、長靴を履いてもいた。

 

私の足元がいつものサンダル履きじゃなく長靴だということに、チャンミンは気づいているのに気づいていないフリをしていた。

 

チャンミンの眼が期待できらきら輝いていたから、それがフリだと私にはバレていた。

 

「暑いですねぇ」とベンチの下で腹ばいになって、昼寝するふりをしている。

 

「よし!」

 

すっくと立ちあがりリュックサックを背負うと、ベンチの下からチャンミンは転がり出てきた。

 

いつものチャンミンは、先へと駆けてゆき私が追い付くのを待って、再び私を先導していくのだが、彼にとってはじめての雑木林。

 

この日のチャンミンは不安なのか、私の後を追ってくる。

 

林の中へと足を踏み入れると、鬱蒼と茂る葉でぎらつく日光は遮られ、気温が3度ほど下がったように感じられた。

 

やかましい蝉の声との距離が縮まった。

 

太い脚のわりにチャンミンの足先は小さい。

 

木の葉が降り積もった湿った地面は柔らかく、私たちの足裏を受け止めた。

 

蝉の音を除けば、ガサガサと笹の葉をかき分ける音だけだった。

 

「チャンミン!

食べちゃダメ!」

 

私は悲鳴をあげた。

 

チャンミンは木の根元に生えたクリーム色のキノコに興味津々だった。

 

鼻の穴でキノコを吸い込みかねないほど、鼻をうごめかしている。

 

「毒だよ、毒!

死んじゃうよ!」

 

私はチャンミンを突き飛ばし、辺りに生えていたキノコをひとつ残らず踏み潰した。

 

「なんでもかんでも口に入れていいってものじゃないよ!

お前は食い意地が張ってるんだからっ!」

 

その間チャンミンは、今まで見せたことのない私の剣幕にポカンとしていた。

 

突き飛ばされ腰を抜かしたようにお尻を落としたチャンミンに、私は我に返った。

 

「ごめん。

ごめんね」

 

恐怖と怒りの形相を解くと、チャンミンはそろり立ち上がって私に歩み寄り、鼻づらをこすりつけた。

 

チャンミンと目線が合う高さまで抱き上げ、

 

「びっくりさせてごめんね。

そうだよね、チャンミンは知らなかったもんね」と謝った。

 

チャンミンの眼に、木漏れ日と梢が作る影が映り込んでいた。

 

「あともう少しだよ。

出発進行!」

 

私はチャンミンを地面に下ろし、彼を先導して傾斜の緩やかな林の中を突き進んでいった。

 

私たちの家の裏手の雑木林を2、3百メートル上ると舗装された道路に出る。

 

それは別荘地へと続く道であり、メインストリートでもある。

 

管理人の手入れにより、道際の雑草は短く刈られている。

 

十数棟の建物が樹木や塀を境界線に、十分な間隔をもって建っている。

 

去年は見かけなかった自働車が2,3台駐車していた。

 

別荘地を突っ切った方が近道になるが、今の私はチャンミンを連れている。

 

みすぼらしい田舎者の自分をさらすのも恥ずかしかったし、他にもいくつかの理由があった。

 

私には出来ない理由が沢山あり過ぎる。

 

そして、沢山の矛盾も抱えている。

 

思い煩うことなく、怖いもの知らずで何でもできたらいいのに、と思う一方、どうにでもなれ、と無茶なことも出来てしまう。

 

2年前、とても怖い思いをしたというのに、水遊びの用意を整えてチャンミンとここに来ている。

 

私の神経は、あるところでは極端に過敏で、別のところでは鈍感なのだ。

 

多分、心のセンサーが壊れているのだと思う。

 

ユノさんは、「人間誰しも矛盾だらけだよ。ミンミンにはおかしいところは全くない」と言い聞かせてくれるんだけど...。

 

 

(つづく)

 

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(16)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

私はポーチに腰掛けてユノさんの帰宅を待っていた。

 

隣にはチャンミンはおらず、私ひとりだった。

 

夕立後の生暖かい空気は濃密で、リンリンシャンシャンと虫の鳴き声に包まれていた。

 

裏手の雑木林、前庭、前方に広がる草原...何万匹もの虫が潜んでいる。

 

空も草原も濃紺に塗りつぶされている。

 

今夜は新月で、宇宙に散らばる星々も一面を覆う雲によって隠されていた。

 

室内から漏れる灯りだけが頼りで、私の影がポーチの階段から前庭へと伸びていた。

 

空と草原の境界線に、黄色い灯りを2つ見つけた!

 

気が急いていた私は立ち上がり、ヘッドライトが近づいてくるのをじりじりと待った。

 

トラックは前庭に頭を突っ込む格好で停車した。

 

エンジン音が止まると、再び辺りは虫の声で包み込まれた。

 

ユノさんはただ事じゃない様子の私に、トラックから素早く飛び降りると、

 

「ミンミン、どうした?」と駆け寄った。

 

ヘッドライトで目が眩み、視界がチカチカしていた。

 

「あのね、チャンミンがね」

 

「チャンミンが?

また何かやらかしたのか?」

 

「うん、ちょっとした非常事態なの」

 

ユノさんが帰ってきたから、もう大丈夫。

 

 

 

この日の午後、チャンミンは生まれて初めて雷を経験した。

 

夕方、私と草原を走り回り疲れたチャンミンは、ラグの上で昼寝をしていた。

 

冬の間中さんざんお世話になったタミーの毛皮は暑いからと、彼から離れたところで仰向けになっている。

 

空が灰色の雲に覆われはじめ、慌ててポーチの軒下に干した洗濯物を取り込んだ。

 

薄暗くなってきたのが心細くなったのか、チャンミンは目をしょぼしょぼさせて私の足元まで移動してきた。

 

自習中の私は、チャンミンのために足をぶらぶら揺らし、彼はじゃれついて私の靴下を噛んでいた。

 

「いったいなぁ!」

 

チャンミンの小さな犬歯が私の皮膚に食い込んだのだ。

 

テーブルの下を覗き込んで、怖い顔をしてチャンミンを睨みつけた。

 

ちょうどその時、ピカッと窓の外が光、遅れて雷鳴が轟いた。

 

窓ガラスがびりびり震えるほどの大きな雷鳴だ。

 

よほど驚いたのだろう。チャンミンのずんぐりした身体が、宙を一回転した。

 

慌てるあまり短い脚はもつれ、床に爪を滑らせながらも台所の食器棚の下に滑り込んだ。

 

「チャンミン?」

 

私は四つん這いになって食器棚の下を覗き込んだ。

 

チャンミンはガタガタと震えていて、短い尻尾でお尻の穴を隠していた。

 

恐ろしい音を聞きたくないとばかりに、大きな耳を伏せて耳の穴を塞いでいる。

 

「チャンミン?」

 

外は土砂降り雨で、ざあざあうるさい。

 

水を吸い込んだ土埃の匂いがする。

 

草原は雨しぶきでけむり、白く霞んでいた。

 

三角屋根と頑丈な柱と壁が、雷の音と土砂降りから守ってくれる、ここは安心できる空間なのだ。

 

懐中電灯で照らしてみた。

 

私の呼びかけにチャンミンは身体の向きを変えた。

 

懐中電灯の灯りに、チャンミンの眼が赤く光っていた。

 

チャンミンは腹ばいの姿勢でにじり寄ってきた。

 

ところが、食器棚の縁に大きな頭がつっかえて、鼻先しか外に出せない状態だった。

 

「チャンミン、お尻から出ておいで」

 

チャンミンは頭とお尻を食器棚の底板にこすりつけながら方向転換すると、こちらにお尻を向けた。

 

顔を出せたのはチャンミンの尻尾だけだった。

 

「我慢してて!」

 

チャンミンの尻尾をつかんで引っ張った。

 

駄目だった。

 

敏感な尻尾をぎゅうぎゅう引っ張られる間、チャンミンは我慢強く悲鳴ひとつあげなかった。

 

食器棚の隙間の高さと、チャンミンのコビトカバ的お尻を見比べても、無理なのは明らかだった。

 

「嘘...出てこられないんだ」

 

「はい...すんません」と、面目ないといった風に顎をぺたり、と床につけた。

 

どうして出られなのに、もぐり込むことができたのか不思議でたまらない。

 

非常事態を察したチャンミンの身体は、その瞬間だけ縮んだのだろうか。

 

チャンミンを不安がらせないよう、私はそこから離れるわけにはいかなかった。

 

 

私はあらかじめ、食器棚のお皿は全て外に出し、引き出しも外しておいた。

 

ユノさんと私は掛け声を合わせ、食器棚を持ち上げた。

 

この食器棚はどっしりとしてとても重く、5㎝持ち上げるのがやっとだった。

 

「チャンミン!

出て!」

 

私の合図に、弾丸のようにチャンミンが飛び出してきた。

 

解放されて余程嬉しかったのか、部屋中を狂ったように走り回っていた。

 

ラグはくしゃくしゃになっている。

 

チャンミンはホコリの塊になっていた。

 

干からびた野菜の皮らしきものや虫の死骸もくっついている。

 

「あの食器棚は俺が引っ越してくる前からあるんだ。

この家が建った時から、一度も動かしたことがなかったりして...」

 

「チャンミンがモップになって掃除をしてくれたね」

 

私とユノさんは顔を見合わせ、クスクス笑った。

 

 

 

 

最寄りの街に住む子供も大人も、私を知っているからみんな怖い。

 

私のことを気持ち悪がり、暴力的な子供だと顔を背けるのだ。

 

「親の顔が見たいわ」「一体、どんな育てられ方をしたのかしら」

 

だから、街には行かない。

 

私には友だちがいない。

 

自分のペースで気ままにいられるひとりぼっちも好きだけど、どうしようもなく寂しさに襲われる時もあった。

 

私を知らない子なら...それも、私が心惹かれたあの子になら、近づいても大丈夫かな、と思った。

 

とても素直そうな、優しそうな子だったから。

 

それも2年前のことだ。

 

今の私は...私の顔を見せられるのは、ユノさんとタミーと、そしてチャンミンだけだ。

 

 

(つづく)

 

 

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