(67)時の糸

 

 

 

「ユノさんは、何か食べましたか?」

 

「まだ、かな」

 

ユノの脈拍が異常に早かった。

 

(フラッシュバックだの、倒れるかもだの、チャンミンが心配だってSに言ってたけど、俺の方こそ、火が怖いなんて)

 

恐々、焚火に近づけずにいるユノの固い表情に、カイは気付く。

 

「僕が適当に見繕って来ますよ。

ユノさんはその辺に...あそこのベンチなんかどうですか?」

 

カイは会場の一番端に設置したベンチを指さした。

 

「座って待っててください」

 

「え、いいの?」

 

焚火に近づきたくなかったユノは、カイの気配りに感謝する。

 

「ええ。

僕とチャンミンさんが育てた野菜を是非とも、味わってもらいたいのです。

ジャガイモが絶品ですよ、バターを落として食べると美味しいんですから」

 

「へぇ、いいね。

じゃあ、それをもらおうか?」

 

カイは、膝の上で落ち着かげに手を開いたり握ったりしているユノが心配だった。

 

(炎が怖いのかな...。

そういえば、ユノさんは昨年の落ち葉焚きの時は未だ、ここにいなかったから)

 

照明らしい照明は、不規則にちらちら赤い光を放つ焚火と、テーブルに置いたランタンのみで、人々の表情はもはや見えない。

 

気をつけて歩かないと、誰かにぶつかりそうだった。

 

カイは手際よく、テーブルの上に並べられた焼き上がった食べ物を皿にのせていく。

 

カイはユノが座っている辺りを振り返った。

 

(チャンミンさんは今は、ここに居ないみたいだ。

よかった。

チャンミンさんには悪いけど、僕も頑張らせてもらいますよ)

 

チャンミンの視線の先には大抵、ユノがいたこと。

 

恋愛を匂わせることを振ると、赤面したのを取り繕うように話題を変える様子。

 

近頃のチャンミンの挙動不審さに、カイは確信していた。

 

(ユノさんの方は、どうなんだろう?

ユノさんはいつも通りだ。

チャンミンさんは奥手そうだから、ユノさんに振り向いてもらおうと積極的になることは出来ないだろう)

 

「お待たせしました」

 

カイはユノの隣に腰掛けると、山盛りにした皿を手渡した。

 

「うまそうな匂いだねぇ。

俺が大食いってことを、よく分かってるね、さすがカイ君」

 

焚火から十数メートル離れたおかげで、ユノの緊張は解け、膝に置いた皿から漂う美味しそうな香りに彼は笑顔になった。

 

(暗くてよかった。

ユノさんを見て、ニヤついてる顔が見られなくて)

 

友達は多いカイだったが、今現在は恋人はいない。

 

(どの子もいい感じだけれど、ピンとこない。

でも、ユノさんは違う。

ガサツな風を装っているけれど、多分、繊細な人だ。

世話好きだけど、決してお節介ではない。

Tさんにフラれて大泣きしてた姿。

あの時だな、ユノさんのことをほっとけない、と思ったのは。

でもなぁ...こんな心理、僕が姉ちゃんの世話を焼いてる時みたいじゃないか)

 

カイはカップの中身を流し込みながら、暗くていい幸いとばかりに、隣でもぐもぐと食べ物を頬張るユノを見つめていた。

 

(ファッションセンスも似てるし...。

僕の方はちょっとカラフル傾向だけど...。

僕たちはお似合いだと思うんだけどなぁ)

 

「お!

この芋はうまいねぇ」

 

「でしょ?」

 

「うん、うまい」

 

酔って陽気になったスタッフのひとりが、「落ち葉を追加しよう!」と言い出したようだ。

 

「もっと暗くできないの?」の声に、スタッフの一人が照明パネルの操作に走った。

 

ドームの照明は落とされ、非常口の緑の灯りだけになる。

 

焚火の炎ゆらめくムードを求めたのだ。

 

2人のスタッフが落ち葉の詰まった袋を逆さにして、思い切りよく焚火に追加した。

 

「あーっ!」

「いっぺんに入れたら駄目だよー」

 

落ち葉が蓋をして、火を消してしまったようだ。

 

「炭を入れたらどう?」

「そうしよう」

 

赤々とした炭を火ばさみで挟んで、くすぶる落ち葉の山に埋めた。

 

「じきに燃えてくるよ」

 

焚火の周りが騒がしくなっていく一方、ユノの背筋に冷や汗がつーっと流れ落ちる。

 

(カイ君が側にいてくれて助かった。

鋭いカイ君のことだ。

俺が火が怖いことに気付いたみたいだ。

あれこれ用事を作っては、焚火には近づかないようにしてたからなぁ)

 

「ユノさん。

向こうでコーヒーでも飲みませんか?

ここじゃ、煙たいですし」

 

「いいね!」

 

カイは立ち上がるユノの肘に手を添えてアシストする。

 

「ありがと」

 

ユノの手から受け取った汚れた皿とカップを、カイは小走りでテーブルに戻しに行く。

 

焚火組は落ち葉の山を鉄棒でかき回していた。

 

ユノたちが回廊に向けて歩き出した時。

 

カサカサに乾ききった落ち葉に、炭からの炎が燃え移った。

 

背後で悲鳴が上がる。

 

「!!」

 

振り向いたユノの視界に、めらめらっと1メートル近く立ち上がった真っ赤な炎が飛び込んだ。

 

「!!」

 

ユノの目には何も映っていなかった。

 

脳裏には、四方八方炎に囲まれたユノがいた。

 

轟音。

 

息が...できない。

 

熱い。

 

押しつぶされて...。

 

カイは硬直したユノに気付いた 。

 

「ユノさん?」

 

かくんと膝の力が抜けたのを認めるや否や、カイは両腕を伸ばす。

 

カイの腕の中で、ユノの身体はぐったりと弛緩していた。

 

 

(つづく)

 

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(66)時の糸

 

 

膝上に組んだ腕に顎をのせて、チャンミンは赤々とした炭をぼぉっと眺めていた。

 

一人でいるのを好むことを知っているスタッフたちは、出来上がった料理をチャンミンの元へ運んでくる以外は、無理に会話の輪に引き込むことはしない。

 

次々と皿の上にのせられる、蒸し焼きにしたサツマイモや、ソーセージ、魚のホイル焼き、炙ってとろとろに溶けたマシュマロなどを、チャンミンは順に胃袋におさめていった。

 

お腹は満たされた。

 

アルコールは頭痛を誘発しそうだったため、ミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「はぁ...」

 

チャンミンはユノが隣に座るのを、待っていた。

 

甘いもの好きのユノのために、余分にもらったマシュマロも、皿の上で冷めてしまっている。

 

つまらない、と思った。

 

(僕を一人にするなんて...)

 

ユノから不当な扱いを受けていると拗ねるチャンミンだった。

 

いつまでも戻ってこないユノに業を煮やして、すっくと立ちあがった。

 

(アルコールを持ちに行く、と言っていた。

重くて運ぶのに苦労しているかもしれない。

僕ときたら、気が利かないんだから)

 

「チャンミン!」

 

スタッフの一人に声をかけられ、チャンミンは回廊に向かおうとした足を止めた。

 

「行ったついでに、ビールの追加を頼めるかな?」

 

チャンミンはこくりと頷いた後、事務棟へ駆けて行った。

 

(ビール、ってどこにあるんだ?)

 

火熾し担当だったチャンミンは、大量に用意されているはずのドリンクの場所が分からない。

 

事務所の冷蔵庫を開け、保管庫の冷蔵室も覗いてみたが見つからない。

 

追加のものが配達されたままになっているかもしれないと、エントランスを確認しに行ったが、やっぱりない。

 

「おかしいなぁ」

 

(ユノはどこに取りに行ったんだろう?

裏口の方かな)

 

裏口はドームを挟んで事務棟の反対側にある。

 

チャンミンがドームへ引き返そうとしたとき、

 

「マックス!」

 

悲鳴に近い、鋭い女性の声に、チャンミンは振り返った。

 

エントランスのドアの前で、一人の女性が両手で口を覆って立ち尽くしていた。

 

「?」

 

チャンミンは背後を振り向いたが、エントランスには自分以外の者はいない。

 

「マックス...」

 

背の高いスリムな女性だった。

 

「あの...人違いじゃ...?」

 

大きく見開いた目尻が切れ上がった目は真剣だった。

 

「嘘でしょ...。

マックス...」

 

「あの...マックス...って?

僕は...違います」

 

チャンミンがそう言い終える前に、その女性は体当たりする勢いでチャンミンにしがみついてきた。

 

「!」

 

「マックス...」

 

「あの...」

 

彼女はチャンミンの胸に顔を押しつけ、彼の背中に巻き付けた腕に力を込めた。

 

「違います...僕は...」

 

頭の中にクエスチョンマークが飛び交っている。

 

(この女の人は誰だよ?

誰だよ、マックスって?

全然、意味が分からない...)

 

「どこにいたのよ...。

死んじゃったのかと思ってたのよ...」

 

「!」

 

見知らぬ女性に抱き着かれたチャンミンは、突き放すこともできず、両腕を宙に浮かせた状態で、されるがままでいるしかなかった。

 

 

(つづく)

 

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(64)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

あの夜。

 

帰宅した僕は真っ先にシャワーを浴びた。

 

ユノの部屋を出て、火照った身体を覚ましたくて、タクシーは止めて氷点下の寒空の下、歩いて帰ることにしたのだ。

 

もんもんと頭の中で渦巻く想いを吹っ切りたくて、早歩きだったのが小走りになり、駆け足になり、マンション下に着くころには汗だくで息も切れそうだった。

 

脱いだコートを腕にひっかけ、エレベータで階数ランプを見上げている間、僕の鼓動は壊れそうに早い。

 

その理由は、走ったせいなのか、身体の奥底から湧き上がる妙な感情のせいなのか、わからなかった。

 

そんな訳のわからない心の嵐を吹っ切りたくて、冷水のシャワーを頭からかぶる。

 

下腹の底の、重ったるい感覚。

 

この感覚は、単なる生理現象で片付けられない。

 

『そういう気満々だろ?』とユノに言われて、理性を失くした自分の行為が恥ずかしくなった。

 

ユノと間近で接すると、ユノにもっと近づきたいという衝動に襲われるんだ。

 

『そういうこと』が、どういうことなのかは、知識として知っている。

 

うろ覚えの僕の過去をどれだけ頭を振り絞ってみても、全く身に覚えがないのだ。

 

だから、男性に対して『そういう感情』を抱くのはこれが初めてなんだろう。

 

顎がガチガチと震うまで全身を冷やしたのち、今度は火傷しそうなくらい熱いシャワーに切り替えた。

 

自身の肉体をいじめて、もんもんとした感覚を追い出したくて。

 

今までの僕は、こんな風じゃなかったのに。

 

体調の悪いユノに無理やりキスをしたり。

 

押し倒したり。

 

...一体何やってんだよ。

 

恥ずかしい限りだけど、あの時は沸き起こった欲求に突き動かされていて、気付いてたらそうしてた。

 

白く曇った鏡を片手で拭って、雫をしたたらせ、上気した自分の顔を映してみる。

 

以前、ユノが浴室に乱入してきた時も、こんな風に鏡に映った自分を子細に眺めていた。

 

普段から自分の顔をこうやって検分するように見ることはないし、自分の身体つきがどんなだかにも興味はない。

 

休日のルーティンにジム通いを組み込んでいるのは、身軽に健康でいたいだけのこと。

 

一瞬、視界が揺れたかと思うと、がくんと膝の力が抜けた。

 

反射的に洗面ボウルをつかんだ手によって、崩れ落ちるのを免れた。

 

鏡の中の自分と目を合わせるのは、やっぱり危険だ。

 

鏡に映るこの顔が、自分のものなんだという実感が希薄なことを、思い知るからだ。

 

こめかみがずきずきとうずいてきた。

 

頭痛の前兆。

 

俯いていた頭を起こすと、足先から膝、太もも、下腹部へと順に視界に入る。

 

僕の目に映る身体にさえも、違和感がある。

 

ドキドキするとか、嬉しいとか、いい匂いだなとか、柔らかいなとか...五感は確かに自分のものなのに、それを感じる僕の身体が、自分のものじゃない気がする。

 

僕はやっぱり、おかしい。

 

こんな風じゃなかったのに。

 

一人でいると、不安と困惑に襲われる。

 

ユノのベッドにもぐりこんで、背中に彼の体温を感じたかった。

 

 


 

 

この日は通常より2時間早く終業し、落ち葉焚きが開始された。

 

スタッフたちの家族や友人たちも参加し、アルコールもOKで、くだけたムードで皆が笑顔だった。

 

同僚のMは、目下アタック中だという男性を招待していた(外国語教室の講師なのだそう)

 

ユノは、SとSの夫Uを友人として呼んでいた。

 

Sにしてみたら、ユノの担当であるチャンミンを観察する目的もあり、半分は仕事を兼ねている。

 

UはSの元被験者で、小柄で線の細い、眼鏡をかけた大人しそうな男性だ。

 

キビキビとしたSとは対照的だが、目配せだけで通じ合う信頼関係が二人の間で築かれているようだ。

 

SはUの観察者を3年務めた。

 

エプロン姿のユノは、エントランスまでSたちを出迎え、落ち葉焚き会場のドームまで案内した。

 

「差し入れです」

 

Uはアルコールのボトルを掲げてみせた。

 

ユノに案内されて、Sは目がくらみそうに高いドームの天井を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 

「ねぇ、ユノ、大丈夫なの?」

 

「大丈夫?って何が?」

 

「焚火、っていったら、火だよ?

あの子...平気なの?」

 

Sの質問に、ユノは肩をすくめる。

 

「さあ、分かんない。

もしかしたら、フラッシュバックして意識失うかもしれないから、それに備えてSを呼んだわけさ。

チャンミンに『参加したら駄目』なんて言えないよ。

まさか、こんなイベントがあるとは思わなかった」

 

「強い刺激も、かえっていいかもしれないわね。

反応が一気に進めば、お目付け役もいらなくなるから。

...ユノ、複雑でしょ?」

 

「うん」

 

(嬉しい反面、寂しいってのは確かだ。

チャンミンの担当を外れたら、もう近くにはいられない)

 

 

(つづく)

 

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(63)時の糸

 

 

 

頭の芯が痺れそうになったユノは、ぐいぐい攻めてくるチャンミンの舌を押し戻す。

 

(待て待て...これ以上は...)

 

チャンミンは体重をかけると、ユノを仰向けに押し倒した。

 

「待てったら!」

 

ユノはチャンミンの両頬を挟んで引き離した。

 

「病人を押し倒してどうすんだよ?」

 

「あ...!」

 

「ちゃんと寝てろって言うけどさ、『寝る』の意味が違うんじゃないかね?」

 

「......」

 

片手で口を覆うと、チャンミンの顔が真っ赤になった。

 

「ごめん...そういうつもりじゃ...」

 

「そういうつもり満々じゃないかよ?」

 

「いや...その...僕はそういうつもりは全然なくて...」

 

「俺を『押し倒す』とは!」

 

「いやっ...それは...!」

 

(これ以上責めたら、チャンミンが可哀想だ)

 

ユノはしどろもどろのチャンミンを睨みつけていたが、きっぱり言い放つ。

 

「もう帰れ」

 

「え!?」

 

きょとんとしているチャンミンに、ユノは目を見開く。

 

「...え?

今夜も泊まっていくつもりだったわけ!?」

 

「え...そのつもりだったんだけど...?」

 

(やっぱり)

 

「あかんあかん!」

 

「どうして?」

 

「俺はもう、一人で大丈夫だから。

看病は十分だ、お腹いっぱい、ありがとな。

ってことで...帰れ」

 

「いや...でも、ユノをお風呂に入れないと...。

髪の毛べたべただろ?」

 

「嘘っ!?

臭い?」

 

ユノはくんくんと自分を嗅ぐ。

 

(待て...。

風呂に入れる...だと!?)

 

「チャンミン!

あんた、俺を裸にしたいのか?」

 

「!!」

 

「俺の見事なボディを見たら、おさまりがつかなくなるだろ?

いいのか?

ヌードは近いうちに見せてやるから。

今夜は早くお帰り。

子供の寝る時間だよ?」

 

壁にかけた時計を指さす。

 

「!」

 

「...おやすみ」

 

耳まで真っ赤にしたチャンミンが玄関ドアの向こうに消えて、ユノは大きく息を吐いた。

 

(キャラクターが安定していないせいか、こっちの方が振り回されてるよ、全く)

 

 

翌日、事務所で顔を合わせた二人は、滑稽なほどぎょっとし合った。

 

「お!

チャンミン君、顔を赤くして初々しいのぅ」

 

照れ臭くて仕方がないユノは誤魔化すようにバシっと、チャンミンの背中を叩く。

 

「違っ!

寒いところから暖かい部屋に入ったから...それで顔が赤くなって...」

 

もごもごと言い訳をするチャンミン。

 

「着がえなくちゃ!」

 

両耳を赤くして、ロッカールームへ早歩きで向かうチャンミンの後ろ姿をユノは見送った。

 

(俺はこの背中にくっついて寝ていたんだな...。

 

何なのこのトキメキは...恋だねぇ)

 

 


 

 

「...報告書にある通り、被験者186番は順応度が高まってきていると思われます」

 

60代の白衣の男性の前で、ユノは直立不動になってそう報告を終えた。

 

その男性は手元のディスプレイを睨んだまま、たっぷり1分近くも無言でいた。

 

「Q所長?」

 

ユノに声をかけられ、はっとしたようにQ所長は顔を上げると口元を緩め、

 

「失礼。

予想以上に早くて驚いていたんだ」

 

「やはり、相性がよかったからでしょうね」

 

この部屋には、ユノを含め十数人の男女がひとつのテーブルを囲んでいた。

 

同じテーブルについた白衣の40代男性が

「あの時の高熱は、順応しかけた兆しだったのでしょうね。

頭痛、発熱、痙攣、一時的な意識混濁...過去の事例も多くは、体調の急変です」

と言った。

 

大型ディスプレイに顔写真を幾枚も並べて見せる。

 

「ユノ君があの場に居合わせて、M大学病院に運んでくれたおかげだ」

 

白衣の40代男性...チャンミンを急患で診た医師は、立ったままのユノに座るよう促した。

 

「半年前から、頭痛に悩まされていました。

彼の場合、他人への無関心さが特に目立っていましたので、受診のきっかけ作りに苦慮していたのです」

 

「186番については、しばらくの間順応の具合を観察しよう。

稀に見るペースですから、慎重に進めないと」

 

「しばらく、とは、どれくらいの間でしょうか?」

 

ユノはおずおずと尋ねる。

 

「彼の場合はまるで読めない」

 

「怖いのは感情の暴走ですね。

彼は薬の服用は続けているようですか?」

 

「はい」

 

チャンミンの自宅で、さりげなく確認した薬のボトルの中身が減っていたことを思い浮かべながら返事をした。

 

(ごめん、チャンミン。

あんたが服んでる薬は、ただの頭痛薬じゃないんだよ。

処方箋も薬のラベルも全部デタラメなんだよ)

 

「ユノ君はこれからも彼の観察を続けるように。

慎重を要する時期にさしかかっているから、より注意深く。

君からの報告をもとに、ここへ戻すタイミングを判断する」

 

「はい」

 

「それでは、次の被験者についての報告は?」

 

 

(よかった...。

 

これでもうしばらくチャンミンの側にいられる。

 

でも、お役目御免になったら、次の任務では遠方に行かなければならなくなるかもしれない。

 

この仕事を続けている限り転勤族だし、被験者にべったりと張り付くことになるから、誰かと交際するのは難しい。

 

かつての被験者と結婚したSは賢い。

 

以前担当していた被験者はほんの子供だったから、恋に落ちることはなかった。

 

恋愛感情は心を呼び覚ましやすい理由から、大抵は異性を担当する)

 

地下奥深くから高速で上昇するエレベーターで、ユノはため息をついた。

 

地上に戻ったユノは、エントランスホールに飾られた巨大な絵画を見上げる。

 

額に角を生やした白い馬に跨るのは、長い黒髪をたなびかせた目鼻立ちのくっきりとした女性。

 

左下の隅に『Changmin』とサインがある。

 

これを目にするたび、ユノの胸はしくしくと痛むのだった。

 

 

(つづく)

 

 

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(62)時の糸

 

 

「チャンミンさんは初めてでしたよね?」

 

小型フォークリフトをリモコンで操作しながら、カイは背後で作業をするチャンミンを振り返った。

 

「ああ。

僕はここに来て、1年経ったばかりだから」

 

外は真冬の風が吹きすさぶのに、ドームの中は温められた空気でジャケットなしでも平気だった。

 

(1年前のことすら僕はほとんど覚えていない。

『心配するな』とユノは言うけれど、

色鮮やかに記憶している今を思うと、それ以前の僕は濃い霧の中で彷徨っていたかのようで...。

このギャップに怖くなる)

 

「ビニールを剥いでください」

 

カイから手渡されたカッターナイフでシートを切り裂くと、圧縮されていた枯れ葉が飛び出した。

 

植物園ではあるイベント開催のため、この1週間浮ついた空気が流れていた。

 

年に一度の恒例イベント『落ち葉焚き』だ。

 

火気厳禁のドームだったがこの日だけは特別で、防火対策を万全にした上で焚火をするのだ。

 

スタッフの家族や友人も招待して、焚火料理を振舞って飲み食いを楽しむ。

 

炎を見る機会が皆無の世の中だから、赤い炎、ものが焼ける音、灰色の煙...。

 

燃焼する様を眺められるこのイベントを、皆心待ちにしている。

 

日頃のメンテナンスで大量に出る枯れ葉や枯れ枝の処分は専門業者に任せているが、『落ち葉焚き』イベントのために一部はよけておく。

 

チャンミンとカイは、ドーム中央辺りの収穫を終えた畑に落ち葉の山を作る役目だった。

 

チャンミンは知らず知らずのうちに、ユノを目で追っていた。

 

「チャンミンさん、何か楽しいことでもあったんですか?」

 

「えっ!?」

 

カイはフォークの持つ手に顎を預けて、動揺するチャンミンを面白そうに見ている。

 

「さっきから心ここにあらず、って感じです」

 

「そうかな...」

 

カイの指摘が図星だったチャンミンは、くるりと背中を向けて作業に没頭するふりをした。

 

(最近のチャンミンさんは、全くもって変ですよ)

 

先ほどのチャンミンの視線の先...回廊をMと並んで歩くユノの姿を認めたカイは、おや、と眉を上げた。

 

 

 

 

『あの夜』の翌日。

 

熱の下がらないユノを案じたチャンミンは、「医者なんぞ絶対に行かん!」と駄々をこねるユノを無理やり、文字通り引きずるようにして病院に連れて行った。

 

診察室から出てきたユノの不貞腐れた顔を見て、連絡もせず仕事をサボっていたことにチャンミンははじめて気付いた。

 

この1年間、何の疑いも抱かずオートマチックに自宅と職場を往復していたチャンミンだったから、この日の自分の行動に愕然とした。

 

(前日の「好き」とか「キス」とか、「好き」とか「キス」とか...。

僕の頭はこのことでいっぱいだ)

 

タクシーの後部座席に並んで座るユノのくしゃくしゃ髪の後頭部。

 

チャンミンは片腕を伸ばしてユノの肩にかけると、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。

 

ユノの頭がことんと肩に落ちた。

 

視線を落とすとチャンミンのとっさの行動に目を丸くしたユノと目が合った。

 

熱のせいで目尻の縁が赤く、ユノの黒い瞳はやっぱり熱のせいでうるんでいた。

 

蛍光灯が一つだけだったボイラー室や、間接照明だけのユノの部屋ではぼんやりとしていた。

 

こうして昼間の陽光の元で見るユノ。

 

(これまでの僕は、彼のどこを見ていたのだろう?

「視界に入っていたのに、見ようとしていなかった」自分にあらためて気づかされた)

 

「ちゃんと寝てろよ」

 

ユノがベッドに横になったのを確認してから、チャンミンは出勤していった。

 

仕事を終えると真っ先にユノの部屋へ戻る。

 

食料品や日用品を買い込んだ袋を抱えて。

 

ベッドを抜け出してタブレットを操作しているユノに、チャンミンはユノを怒鳴りつけてしまった。

 

「駄目じゃないか!」

 

大きな声を出すチャンミンに、ユノは「うるさいなぁ」ってわざとらしく両耳を押さえてベッドに戻る。

 

「なんだか調子が狂うなぁ...」

 

買ってきたものを冷蔵庫にしまうチャンミンの背中を、片肘をついて眺めていたユノはつぶやいた。

 

「え?」

 

「チャンミンに世話をされるなんて......ムカつく」

 

「ムカつく、ってどういう意味だよ!?」

 

「世話をするのは俺の方、って感じだったから」

 

「なんだよ、それ」

 

レンジで温めたスープを手に、チャンミンはユノの枕元に座った。

 

「チャンミンのくせに生意気だ、って意味じゃないからな。

うーん...なんていうのかなぁ...うん、そうだ!

こんな風に優しくされることに慣れていないんだな、きっと」

 

ユノの言葉に、チャンミンは考え込んでしまった。

 

自分の行為のどこが「優しい」ことなのか、判断基準が分からなかったからだ。

 

(僕はしたいと思ったことをしているだけなんだけど...。

もし、的外れなことをしちゃって迷惑をかけているんだとしたら、どうしようか)

 

「ありがとうな」

 

そう言って、ユノの視線はカップを持つチャンミンの手に落とされる。

 

(まじまじとチャンミンの手をみるのは初めてかも。

神経質そうな指先が、チャンミンらしい)

 

視線を袖口に転じると、毛玉ひとつない黒のニットから覗かせたシャツが真っ白で「チャンミンらしい」と思った。

 

「ありがとうって、お礼を言われるようなことしたっけ?」

 

「いっぱいしてもらったよ。

挙げだしたらキリがないけどな、はははっ」

 

(チャンミンの言うこと、することは全部、見返りを求めていない純粋な気持ちからきていることは分かっているよ。

根が優しいんだ。

感動するよぉ...)

 

チャンミンは湯気がたつカップの中身を、スプーンですくってふうふう息を吹きかけた。

 

「口開けて」

 

口元に突き出されたスプーンにムッとしたユノは、チャンミンを睨みつける。

 

「子供扱いするな!

汁なんぞ、一人で飲める!」

 

「病人の看病は、こうやるものなんだって。

ほら、口を開けて」

 

「ったく」

 

よく冷ましたコンソメスープを大きく開けたユノの口に、ゆっくりと流し込んだ。

 

スプーンに触れる柔らかそうなユノの唇に、チャンミンの喉はごくりと鳴る。

 

気付けばチャンミンは、斜めに傾けた顔を寄せユノの唇を塞いでいた。

 

「チャ...」

 

スプーンがチャンミンの手からこぼれ落ちて、床に転がった。

 

「待て...」

 

ユノは口づけたままチャンミンの手からカップを取り上げると、手探りでサイドテーブルに置いた。

 

チャンミンは、両手でユノの頬をすっぽりと包んでキスに夢中になっている。

 

(おいおい)

 

間近に迫るチャンミンの閉じたまぶたとまつ毛を観察してしまうユノ。

 

(病人相手に...何するんだ!)

 

とまどうユノの唇をこじ開けて、チャンミンの舌が侵入してきた。

 

「んっ」

 

(この坊やは...なかなかどうして...。

 

積極的で...強引で... 。

 

ん?

 

ん?

 

おいおいおいおい。

 

どこでこんなキス覚えたんだよ!

 

上手すぎるだろ!)

 

 

(つづく)

 

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